吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)
2019/03/28
これはいい新連載がきた!
ちょっと未来のちょっと田舎の海辺に住む頑固おじいちゃん。 家族が心配して送ったのは、この仕事が終わったら廃棄が決定している30年動いているメイドロボ。 ガタがきてて首はすぐ落ちるし、包丁を持つとロボット三原則により人間を傷つけてはいけないから震えちゃうし、いろいろぽんこつだけど、とても愛らしくて構ってしまいたくなる。 しかし、500円玉のシーンほんとよかった。妙に説得力があって存在感と寂寥感が漂っててとてもシュールで最高の俯瞰の構図だった。 大ゴマの使い方がとても大胆で潔いので切れ味があって気持ちがいい。 そして、包丁の場面にしろ、イオンにしろ、500円玉にしろ、コマ割りが上手いので間が上手く表現されていてテンポがすごく気持ちいい。 あと単純にかわいい。 ああいう丸い目が好き! 基本的にキャラクターのデザインとか背景の描きこみとか、絵のバランスがすごく良くて好みだ。 最初は、設定的にはベタで手垢がついてるようにも感じたが、いままでの全然上手く描けてなかったんじゃないかって思うくらいすごくよく描けてていいなと思った。 おじいちゃんも「アリスと蔵六」の頑固おじいちゃん的で気持ちがいい。 ドラえもんのような家に転がり込んで一緒に住むタイプになるとは思うけど、のび太君の面倒を保護者の観点から見るような昔のドラえもんとは立場が若干違って、介護という意味では面倒をみられるのはおじいちゃんでも、おじいちゃんの方がより大人だしぽん子の方がトラブル起こすことになりそうだから逆転しそうな気もする。 二人のいい関係性が構築されていきそうで楽しみ。 おじいちゃんのボケ防止になって賑やかで寂しくなくなればいいな。
影絵が趣味
影絵が趣味
2020/02/01
孤立する宮崎駿
漫画史というものを俯瞰してみるにあたり、その位置づけにいつも困り果ててしまう漫画家がふたりいる。ひとりは楳図かずお。彼はいったいどこから来て、どこへ行ったのだろうか。唯一、遠い縁戚として認められそうなのは『洗礼』を平成の世に蘇らせた岡崎京子の『ヘルタースケルター』のみ。彼の漫画は漫画と呼ぶには、どうもしっくりこなくて、『楳図かずお』と、カッコ付きの固有名詞をあてはめたほうが相応しいような気がする。そして、もうひとりが宮崎駿だ。 コミック版の『風の谷のナウシカ』は、どう考えてみても、漫画史において一章を丸々割いてでも語られなければならない。にもかかわらず、その位置づけにどうしても困り果ててしまうのだ。一応、縁戚としては宮崎駿自身も大いに影響を受けたと語る諸星大二郎がいる。あるいは宮崎駿とは相互に影響を受け合い、ついに娘にはナウシカと名付けてしまったメビウス(=ジャン・ジロー)がいるが、諸星大二郎はあきらかに手塚治虫の系譜からうまれているし(しかし、宮崎駿はどこから?)、日本の漫画が大いに影響を受けているのは宮崎駿ではなくメビウス(=ジャン・ジロー)のほうだ。比較的近年では、黒田硫黄を筆頭に、小田ひで次、五十嵐大介らの一派が宮崎駿の縁戚であるかのように語られているが、おそらく彼らは漫画というよりは映画から霊言を受けて漫画を描こうとしている。大友克洋が革命をもたらした記号からカメラのレンズへの変遷のような影響の受け方ではなく、映画ならではのカットの問題、このカットがいかに繋がって、いかに繋がらないかをコマの問題に援用しようとしているように見受けられる。小田ひで次の漫画では、唐突に拳銃を構えるコマがよく挿入されるが、この唐突さはまるで北野武の映画のようだ。 北野武は映画を4コマ漫画の連続のように捉えているというが、なるほどと思う。パン1、パン2、パン3、パン4、と、そのたびに何が動く。この変化そのものが重視されていて、まるで肉のない骨関節だけのヘビが連なっているかのようなザラザラした印象を受ける。たけしが血を浴びたりしても、次のカットではいつのまにか着替えていて、血がないなんてこともザラである。つまり、動き、変化の連なりが、ある種の質感をとどめておくことをしない。 それを思うに、宮崎駿はきわめて質感を重視しようとする作家なのではないか。漫画においても映画においても、物語を繋ぐための変化を描くのではなく、いつもそこにとどまっている質感を描こうとしている気がしてならない。たとえば、風や空気の質感がメーヴェの飛ぶことで描かれ、土や大地の質感がトリウマの駆けることで描かれる。とりわけ印象的なのが、森の人たちのからだを覆っているスーツの表面の質感だ。おそらく腐海の植物から作ったと思われるあのスーツの質感が物語の内容以上に脳裏にこびりついて離れないのだ。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
2019/05/02
天才とは「子供の遊び」である。
松本大洋が『ZERO』と『花男』をスピリッツに連載していた時、本当に幸福だった。 まったく新しい、スペシャルな才能が、今ここにいる…と、毎週感じさせてくれたのだから。 松本大洋のテーマは、かなり一貫している。 「天才の営為とは畢竟‘子供の遊び’であり、秀才はそれに決して追いつけず、ただ憧れるしかない」というようなもので、この初期長篇二作で、ある意味それは描き尽くされている。 最大ヒット作『ピンポン』は、そこをもっとも大ぶりに描いた集大成だろうし、最新傑作『SUNNY』は、その「先」(あるいは、その「前」)への美しいチャレンジだと思う。 しかし個人的には、『花男』を偏愛しているのです。 初長篇『ストレート』や『ZERO』『ピンポン』というスポーツ物の亜種のように見えながら、この優しい詩情に彩られた「野球漫画」ほど、スポーツの持つ「奇跡」を鮮やかに読む者の心へ染みこませてくる漫画を、他に知らない。 また『花男』は、大友克洋と谷口ジローによって日本漫画界に提示されたメビウスに代表されるヨーロッパ・コミックの豊穣さ、それをさらに一歩進めた可能性を見せてくれた作品でもあります。 Pradoが好きなんだろうなあ。そこがまた凄いよなあ。
影絵が趣味
影絵が趣味
2019/04/27
諸星大二郎試論 ~きわめて視覚的な、きわめて即物的な~
諸星大二郎といえば、民俗学的であったり、神話的であったり、異界的であったり、幻想的であったりと語られ、じっさいに柳田国男の研究書やクトゥルー神話を愛読している一面があったり、扉絵や表紙の絵などからはたしかにシュルレアリスム作家ダリの影響を彷彿とさせずにはいられない。しかし、これら数多の要素は諸星大二郎について何か説明するひとつひとつの所以にはなりえようが、漫画家・諸星大二郎を語るさいの言葉としてはどれをとっても全てを合わせてみても片手落ちになっているような気がしてならない。 さきほどシュルレアリスムという言葉を出したが、これを日本語に訳すと超現実主義となるらしい。超現実とはすなわち、現実を超えるということであり、これを画家という立場に合わせて言うなれば、目に見えない何かを描くということになるだろうか。まさしくそのようにして幻想画家としてのダリが生まれている。ところで、ある種の民俗学にしても、神話にしても、異界にしても、幻想にしても、それらはひとしく目には見えないもののはずだが、じっさいのところ諸星大二郎の漫画ほどよく目に見えるものもないのではないか。衝撃の連載デビュー作となった『妖怪ハンター』では民俗学的な切口から、いきなり異界がひらけて、ヒルコなる怪物との遭遇が為されるが、本来ならば目には見えない異界なるものが、これでもかというぐらい目に見えるように描かれている。さらなる衝撃の長編デビュー作となった『暗黒神話』では、よくよく読んでみればふざけているのではないかと思うぐらい唐突に、これまた異界がひらけて、神話の怪物がしっかりと目に見えるように描かれている。諸星大二郎という作家は、目には見えないはずの、手では触れられないはずの幻想的な何者かとの遭遇をあまりに唐突に意図も簡単に描いてのけ、しかも、それらの怪物たちはふつうの現実の人間であるところの登場人物に、まるで自身の存在が幻想の産物ではないこと示すかのように、抜け目なく傷まで負わせてゆくのである。 まさに『暗黒神話』は主人公の少年が異界の怪物と遭遇するたびに四肢のひとつひとつに傷を受ける物語であったし、『壁男』では壁男が壁ごと人型にくり抜かれて倒れてきてアパートの住人に傷を負わせるし、『鎮守の森』では男がいきなり異界に迷いこみ目に怪我を負いながら十数年も放浪したのちに汚れたそのままの姿でいきなり現実に戻ってくる。 さらには異界やその怪物ばかりではなく、諸星大二郎の真骨頂とも言うべきは、本来は目に見えるはずもない人間の内面の感情のようなものをあっけらかんと視覚的に描いてしまうことにある。まさしく『不安の立像』では不安という名の目に見えない感情が外套の影のような姿で描かれ、『夢の木の下で』ではひとの内面での変化が植物が枯れることで如実に描かれ、『遠い国から』のとある惑星ではひとがもの凄く感動したときにすぐその場で自殺をするように描かれ、『感情のある風景』にいたっては感情がそのまま目に見える文様として描かれている。 諸星大二郎の漫画はこのように幻想的であったり超現実的というより、むしろ、視覚的過剰によるきわめて体験的なものとして私たちの目に飛び込んでくる。そこで私たちは何かの幻想や超現実に想いを馳せる必要などまるでなく、向こうの方からすでにいきなり唐突に、視覚的現実としてそれが目に突き付けられている。 あるいはマッドメンや縄文人をはじめ、身体に傷を負う(入れ墨を負う)という行為は、神や異界の存在を現実のものとして視覚的に示すものだったのかもしれない。
名無し
名無し
2020/01/29
これは、一人の敬虔な藤子F不二雄と手塚治虫ファンが10年の時を経てアニオタになる前後が作品を通して描かれたビフォーアフターである…。
これはアリスと蔵六やぼくらのよあけを代表作とした構成力がえげつなく高い漫画家の一人、今井哲也先生による中学高校時代からコミティア時代までの作品集であり、タイトルに書いた通りの物でもある 具体的に言うと、10年経つ前と後の差が凄まじい 中学高校時代での作品はそれこそ藤子F不二雄と手塚治虫先生の作風をかなり参考にして描かれているのだが、コミティア時代となると一転し、お馴染みといえばお馴染みのかわいい作風  …を通り越して萌え要素が非常に大きい作風に変貌している。その変化っぷりは一見の価値大いにあり。特にこの本ではあまりに急過ぎて別の本でも読んでいるかのような気分にすらなった。 しかし読み進めていくと、共通点として、前述の代表作でも見られるオチの秀逸さが挙がるのだ それは萌えやかわいさに傾倒したコミティア時代では寧ろさらに磨きがかかっており、特に『やっつけられませんでした』『セブンオクロックニュース』には心底凄まじさを感じさせられた このマンバでは先生がアニオタになるまでの経緯が話されているインタビュー記事へのリンクもあるのでそのインタビューも併せて読むと尚面白い。 最後に一言 今井哲也作品は、いいぞ。
(とりあえず)名無し
(とりあえず)名無し
2019/04/19
日本漫画界が到達した、ひとつの極点
です。 今も昔も、この高み(深み)にいったものは誰もいない。 間違いないです、ハイ。 以上、終わり。 …っていうので、本当は言いたいことのすべてなのですが、まあ、それもどうかと思うので、もう少し贅言を重ねます。 大島弓子は、どこにでもある、でも「特別な痛み」を、途方もなく切実に、軽やかに描いて、そして常に、魂を照らし温める「救い」へと、読むものを導いていきます。 漫画界に限らない、同時代の文芸や映像など「物語り」表現すべてを見渡しても、大島弓子に比肩する「文学的」深淵を描き出すことが出来たものを、ちょっと思いつくことができない。 この『ロストハウス』が、彼女のキャリアで特に優れた一冊だとは思わないのですが、いかんせん現在流通している本は再編集されたものが多く、初読時の印象を適切に反映させられないので、とりあえず。 あと、個人的に『ロストハウス』は、七十年代からずっと読んでいた大島さんの新刊として、刊行された当時なに気なく読んで(たぶん九十年代中盤)、自分が心から愛好する後続の同時代漫画家さんたちの作品と比べて、それこそ「ケタが違う…」と、打ちのめされた記憶がある、忘れられない本なのです。 「たそがれは逢魔の時間」が収録された花ゆめコミックス版『綿の国星2』が私的には最高なのですが、まあ、大島弓子はどれもメチャクチャ凄いので、どれでも良いんです。 『バナナブレッドのプディング』でも『四月怪談』でも『秋日子かく語りき』でも『毎日が夏休み』でも、とにかく1975年~1995年に描かれたすべての「物語り」が、唯一無二にとんでもなく素晴らしいので、未読のかたは、ぜひ。 (「サバ」や「グーグー」とかは、やっぱちょっと別枠で)
野愛
野愛
2020/06/05
まだ見ぬプロレスファンの貴方へ
2000年代において90年代のプロレスメインで漫画にするというのがなんとも心憎いですね…。 白黒テレビで家族揃ってプロレスを見ていた時代が終わり、メジャー団体だけではなくインディー団体が生まれ、冬の時代を迎えながらも細分化され現代のプロレスに繋がっていく…そのいちばん美味しくていちばん学んでおきたいところを掻い摘んで知ることができるのであります。 とは言ってもプロレス好きな人なら履修はしてあるかな?という話題が多いとは思います。逆に言うとこの辺おさえとけばなんとなく今に繋がる流れがわかるってことなのかもしれません。 まあそんなことはさておき根本にあるのは「人の好きを笑うな」ということだと思う。 この漫画をプロレスファン以外のひとが読むことは滅多にないでしょう。でも、もしプロレスファンじゃないひとがこの感想を読んでこの漫画を読むことがあるならば(ないと思うけど)伝えたいことがあります。 誰に笑われても、誰に否定されても、どうかその好きに誇りを持ってほしい。 ニワカでも詳しくなくてもいいんだよ!あなたの好きがコンテンツを支えるんだよ! わたしの好きなプロレス団体の代表は常々「プロレスをメジャースポーツにする」と謳っています。今存在する全てのコンテンツが、新規に伝えることを辞めてしまったら衰退するばかりなのです。 ニワカであることを誇れ!古参はニワカを愛せ! たまちゃんをニワカだと批判するキャラクターが途中登場しますが、これは全てのヲタクが自分を省みるべきという戒めなのだと思います。知識とか認知とか金額とか(それらはひとつの指標だけど)だけを誇ってはいけないし、他のヲタクを排除してはいけないのです。 愛するコンテンツを守るために愛を広げなければいけないのです。 虎はウザいしたまちゃんはもっと喋れ、女装家レスラーやジェンダーレスレスラーがいるんだからオカマとか安易に言うんじゃない、とか思うところは多々あれど、結局はラストシーンでたまちゃんが虎に発した台詞が全てだと思います。 好きなものは好きと言おうじゃないか。好きなものを好きでい続けようじゃないか。 そして、プロレスをメジャースポーツにしようじゃないか!!!
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