兎来栄寿
兎来栄寿
2019/02/03
禁断のソリッドシチュエーションSF
何という面白さ! 面白すぎる! 凄すぎる!! ルートダブルに本腰を入れ始めた時、私は「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメのリアルタイム視聴すら諦めて、この過酷な世界に徹夜で没入してしまいました。そして、暫くの間うわ言のように「ルートダブル面白い」「ルートダブル面白い」としか言わない、壊れたレディオのようになりました。 「ルートダブル」は、2012年の6月にXBox360で発売されたAVG。今や禁忌とも言える極限状況。知的好奇心を刺激して止まない、近未来における新たな理を描くSF設定。それらが合わさって構築される、濃密な物語。その圧倒的な面白さは、私が2012年に触れた全ての物語の中で最高ともいえるものでした。   ■禁忌の絶望的極限状況 「ルートダブル」は、メルトダウンした原子力施設の中に閉じ込められた9人の脱出劇を描いた物語です。蔓延する放射線、火災、バックドラフト、酸欠空気、殺人……様々な苦難が満ちた地獄の世界で、果たして彼らは生き残れるのか。 このあらすじを聞けば、「福島の事故があったのに、そんな話は不謹慎ではないか」と感じる方もいるでしょう。実際、社会情勢を鑑みて発売中止になるかもしれない、という時期もありました。しかし、この作品の制作が発表されたのは2010年。元々、原発事故の被害者を貶める意志など微塵もなく、むしろ極限状況における人間の希望を描いた作品であるということが強調され、何とか発売されました。私は、この作品が世に出てくれて本当に良かったと思っています。純粋に面白いのは勿論ですし、触れれば悪意を持って創られた作品でないことは明白に理解できます。そして、放射線・放射能・放射性物質やベクレル・シーベルト・グレイの違いといったような知識を改めて学ぶことができる内容、そして作品の中で語られるテーマは今の社会において非常に重要で有用であるからです。   ■視点は「二つ」あったッ! 双極から立体化する物語 「ルートダブル」は、そのタイトルが表す通り、二つの異なる視点から同じ対象が描かれます。√Aは、記憶喪失になってしまった救急隊員の笠鷺渡瀬の視点で、√Bでは母親が研究所の職員である高校生の天川夏彦の視点で。マンガ版でもそれぞれのルートの話が別々に一本の作品として描かれ、単行本も√Aと√Bが二冊同時に発売される形でした。   たとえ見るものが同じであっても、観点が変わればその印象は全く違う……そんな面白さも見事に表現されています。一方的な視点見るだけでは解らない側面。他者の立場に立ってみて初めて解ること。この双方向的な構造それ自体が、批評性を持っています。これ以上ない緊張感溢れるシチュエーションで、二転三転していく物語。何でこんなに続きが気になる所で仕事に行かなければならないのか! と理不尽な怒りすら湧くほどの牽引力でした。この作品に込められた様々な趣向と構造には、思わず溜息すら漏れます。   ■SFの世界が現実に ジュール・ヴェルヌが描いた潜水艦や宇宙船、アーサー・CD・クラークが描いた衛星通信技術、H・G・ウェルズの描いた光学迷彩……優れたSFは、未来への真摯な想像力によって、現実を先取りしすることが多々あります。「ルートダブル」もその好例です。実際に制作中に原発事故が発生してしまった、というのも先見的ですが、この作品では根幹となる部分に一つ大きな設定を導入しています。それが、「Beyond Comminucation(BC)」、いわゆるテレパシーと呼ばれるような能力です。脳と脳による直接的なコミュニケーションが超能力としてではなく、極めて濃厚な科学的考証を経て、社会では普通の存在となった能力として描かれます。「"情報"もエネルギーの一種である」という理論は近年研究が進められ、今作で描かれるような現象も近い将来には実現しているのではないか、と思わされるリアリティがあります。知的好奇心の擽られるSFが好きな人間には堪らない作品です。   ガンガンオンラインのサイト上で1話の試し読みができますので、まずは騙されたと思って触れてみて頂きたいです。商業的な要請から美少女が全面に押し出されてはいますが、中身は実に重厚です。 ただ、この「ルートダブル」は、マンガ版は物語の途中までで完結となっており、事件の全ての真実や、より細かい世界設定などを楽しむためには原作をプレイする必要があります。とはいえ、マンガ版にはマンガ版の魅力も勿論あります。ゲームでは見られなかったアクションやキャラクターの表情・魅力といったものを堪能できるのは、マンガ版の強みです。原作と共に相乗的により深く物語を楽しめる作品として、まずマンガ版から入るも良し、先に原作をプレイして後から読むも良し。現在、PS StoreにてPS3版とVita版の半額キャンペーンが行われていますので、是非とも原作と併せてこの類稀なる傑作として「ルートダブル」の世界をお薦め致します。     ■余談 マンガソムリエを名乗り、あまつさえマンガレビューサイトでこんなことを言っていいのか悩みます。しかし、敢えて言いましょう。こと物語創作において、今最も可能性を持った媒体はノベルゲームではないかと。ヴィジュアル面とサウンド面、そして構造的演出による相乗効果を駆使できながら、映画やアニメに比べれば遥かに低コスト。その気になれば四畳半の部屋で個人単位で制作し、世界を変えて行くこともできます。 原稿用紙数万枚分や単行本数十巻分、あるいは映像にして数十時間分の超大なボリュームの物語をいきなり新人が打ち出すのは極めて困難ですが、ノベルゲームはそういったことも可能にする世界です。今後も、野心的な素晴らしい作品が生まれることを期待しています。 ただ、マンガにおける音声面の補完としては、最近では集英社のVomicや、Domixといった試みもあり、非常に興味深い所です。あるいはニコニコ動画などでも絵が多少動きつつ音声も付けられた作品があり、そちらにも新たな可能性を感じています。ロッキーの練習シーンや、ラピュタ上陸シーンのような、聞けば一瞬でそのシーンを想起するような音楽の力がマンガに付加されたらどうなるのか。Webマンガやスマホで読むマンガが隆盛を極め、マンガ業界も過渡期を迎えている今、どんな形のマンガが今後生まれてくるか、楽しみです。
影絵が趣味
影絵が趣味
2019/02/16
死なるものの体現
ひとの生とは、いちど限りのものである。この事実はあらためて言うまでもなく当たり前のことであるが、すべてあらゆる当然のことというのは、それがまさしく当然のことという途方もない事実性において、語るにあたいすべき言葉を持ちえない。ひとは当然のことを語る言葉を持ちえない、ひとが言葉で語ることができるのは、けっして当然のことではない、何かの"問題"についてだけなのです。 死とは、あらゆる生に必ずおとずれる当然のことでしょう。すなわち、ひとは死を語る言葉を持ってはいない。そんなことはない、死について語られたものはいくらでもある、と言う方々がいらっしゃるかもしれないが、それは死を何かの"問題"として副次的に扱っている場合にすぎず、死そのものについて語られたためしは終ぞありえないと言うほかないでしょう。死とは、私たちの多様な生が辿り着く唯一必然のものでありながら、それがいかなるものかをいっさい窺わせようとはせず、ひとたび窺ってしまえば最早語ることはいっさい許されない、そのような類のものでしょう。 そのようなわけで、ひとは、死について「彼岸」であるとか「向こう側」であるとか曖昧なことしか言うことができないのだが、ごく稀に、死を語らないまでも、いや、語るという以上に死そのものを体現してしまうという極めて特権的な作家がいる。そして谷口ジローという漫画家が、まさしくそのような特権的な作家に名を連ねることになりました。死とは、死の側から語ることがけっして許されぬのだから、自らそれを体現するほかないです。 内田百閒の短編小説集『冥途』を原作とした谷口ジローのこの絶筆の遺作は、病床のうちで死の直前まで描かれていたといいます。しかも、死につつある谷口ジローは、自身にとって新境地であるところの薄墨と鉛筆とホワイトのみで執筆するという新手法で、生と死の狭間で彼岸に吸い込まれつつある男の物語を描きつつこと切れたのです。死につつある者により絶筆の遺作として描かれつつあった『いざなうもの 花火』は、それ故なのか、いまだかつて見たことのない只ならぬ異彩を放っている。ひとの死は当然のことであり、またいっぽうで、死につつありながら当然のことのように自身の新境地を開こうとしつつ死という名の向こう側へ逝ってしまわれた谷口ジローは死の体現者としか言いようがない。死とは生ある万人にとって既知ではなく未知であり、その意味でまったく新境地ということに他ならない。心して読まれることをおすすめします。
影絵が趣味
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2020/01/04
みることと、みられることと
2010年代という時代にひと区切りがついて、2020年代という新しい時代がはじまりましたが、この新時代を迎えるにあたって、ひとつ思ったことがあります。「2020年代は、なにかをつくるひとよりも、なにかをきちんとみることのできるひとを培っていかないと、そろそろまずいのではないかという気がしている」ということです。 技術が発達して、ものづくりへの敷居が下がって(発信することもふくめ)、ひと昔まえよりもかんたんにみてもらえるようになりました。それじたいは悪いことではないと思います。ただし、それと並行して、この供給過多の状態が、みることの株を暴落させてはいないかと不安に思うのです。‬ ‪つくることは、まあ、こういってしまえば(程度に差はあるにせよ)誰にでもできます。つくって、はい、できました、とすれば、あとは声をデカくしてみてもらえばいいだけの話です。それに比べると、みるというのは、けっして誰にでもできることではないと思います。しかも、技術が発達して、ものづくりへの敷居が下がっても、みることの困難さというのは依然としてまったく変わっていないと思うのです。‬ そんなことを思っていた矢先の、2010年代最後の年の瀬に「あなたのアソコを見せてください」なんていう、ただひたすらみることに焦点を当てたマンガが、しかも、いがらしみきおの手で描かれていたのには驚いたと同時に嬉しかったですね。なにしろ、ファンなので。このマンガ的にいうなれば、欲情の対象とでもいえましょうか。まあ、いがらしみきおさんとセックスはしたくないですけども。 欲情には少なくとも2種類あると思います。ひとつは生殖、すなわちセックスに結びつく欲情。もうひとつは純粋に対象を羨望するほうの欲情。いがらしみきおさんとセックスはしたくないけれど羨望の的とというのは、おそらく後者になると思います。火とアソコが結びついてしまったミコちゃんは、どちらかといえば前者。ロリくんは彼の言うことを信じるなら、後者ということになると思います。それでは、本当に惚れた相手とはセックスできなくなってしまうピンさんはどうなのか。ピンさんの女性の衣服にまつわるほうは前者かもしれませんが、セックスできなくなってしまう場合はどうなんでしょう。いがらしみきおとセックスはしたくない、とかいうのではなく、したい欲情はあるのに、できなくなってしまうんです。 まあ、とにかく欲情には色々な種類があるかと思います。でも、どの欲情にもひとつだけ共通して言えることがある。それは、欲情には本来的に、欲情される相手がいないということです。欲情それ自体はあくまでもこちらの側だけで起こっていることで、欲情される相手がいる場合というのは、単に欲情するというのを超えて相手に働きかけているんです(A:わたしはあなたを欲しています。B:それは嬉しいです。)。なので、欲情というのはきわめて個人的な営みなんですね。孤独な営みといってもいいかもしれません。 そうなんです。このマンガの登場人物はみんな孤独に欲情を実践している。なにしろ、彼らにおけるそれらは、誰かにみられて褒められるどころか、おぞましいと蔑まれる行為ばかりです。何の見返りもありはしない。それは自分"だけ"のもので、誰かが代わりにその渇望を満たしてくれるなんてことはありえないんです。 2020年代、ひとはますますみられることに慣れ、みられることに満足を憶えることになるでしょう。でも、それって、当たり前のことですが、みてくれるひとがいないとはじまりません。まあ、仮にみてくれるひとがいたとして、はたしてそれで本当に満足できるのか。おそらく、きっと、本当の意味でみられないことには満足しないと思うんです。じゃあ、本当の意味でみてくれるひと、欲情してくれるひと、羨望してくれるひととはいったいどういうひとなのか。あるいは、どうして本当に好きな相手とはセックスができないのか。そして、必ずしもお互いのことを見合っていないふたり(実にすれちがったセックスでしたね)が最後に笑い合えたのはどうしてなのか。そろそろ何か答えのようなものがみえてきそうではありませんか。
sogor25
sogor25
2019/03/05
「ダルちゃんは、私だ」と思わないで
はじめに、今回の感想は作品既読の方に向けた形で書いております。普段は自分の好きな作品を他の方にも読んでほしいという思いから未読の方が読むことを念頭に置き感想を書いておりますが、他の方のこの作品への感想を幾つか読むうちにある違和感を覚えるようになったので、今回はその違和感を解消しようと色々と考察してみた結果を感想として文章にしてみました。 かなりの長文となってしまいましたがお時間のある方はお付き合い頂ければ幸いです。 この作品の感想をいろいろと漁ってみると、肯定的な意見も否定的な意見も様々ありましたが、多くの感想に共通していたのが「共感」という視点でした。Yahooニュースでも「ダルちゃんは、私」という見出しで作品が紹介されているように、自身をダルちゃんに重ねたり、逆に共感できなかったりというのが感想に現れているものが多かったような気がします。 この「共感」というワード、特に作品を評価する上で「ダルちゃんに共感できる、できない」という基準で語られている点が、私がいろんな方の感想を読んで違和感を覚えるポイントでした。 私はこの作品を「他者への迎合という価値基準しか持たなかったダルちゃんが、自分自身が本来内面に持っている価値観の存在に気付き、それに従い生きるようになるまでの物語」だと思っています。 当初、ダルちゃんは人間の女性に擬態することについて全く違和感をもっておらず、それ故に序盤では飲み会の席でダルちゃんを見下した態度で接してきたスギタさんよりもダルちゃんに対して正論をぶつけるサトウさんに対して逆に嫌悪感を抱く様子が描かれていました。 それが、様々な人との関わり合いによって、他人からの目線に依存しない、文字通り自分の内面から発露する価値観を持っていることに気付き、最終的にそれに基づいて行動するようになる、その道程を描いた物語、という解釈です。 その過程で「他者へ迎合することの生きづらさ」を描かれていますが、それはダルちゃんが本来持っていた悩みではなく、上記の歩みの過程で生じたものであるため、この作品のメインのテーマではないと捉えています。 最終的にダルちゃんは恋愛と自己表現を両天秤に掛け、後者を選択します。かなり恣意的な捉え方になりますが、恋愛至上主義という外部の価値観に囚われず、しっかり自分の価値基準でどちらがより自分にとって幸せなのかを考えた上で出した結論という風に見ることもできるのではないでしょうか。 また、ダルちゃんとお付き合いを始めるヒロセさんのほうも、心理描写はそこまで多くはありませんが、ダルちゃんとの付き合いを継続することよりも、自身のプライベートを詩という形で公表されることを避ける道を選ぶ、という選択をしており、この選択もヒロセさん自身の価値観に従い出した結論と見ることができるのではないか思います。 この「周りに左右されずに自分の価値観に従って生きる」ということが、この作品の根底に流れるテーマなのではないか、私はそのように感じました。 確かに「他者に迎合する」様子に自分を重ねて共感し、涙する方もいると思います。しかし、共感して涙するということは、自身が実際に「他者に迎合する」ことに生きづらさを感じているということ。自分と同じような境遇のダルちゃんに涙する、で終わるのではなく、物語の結末でダルちゃんが至ったように、読者自身も自分が抱く生きづらさに対して自分の価値観で判断し行動するところまで進んでほしい。それが私がこの作品から受け取ったメッセージです。 ダルちゃんは恋愛と自己表現との両天秤については明確に答えを出しました。しかし、擬態して生きていく自分に「そこまで苦痛ではない」と強い拒絶を示さず、結果として擬態を継続する生き方を選択します。つまり、「他者に迎合する」ことが絶対悪ということではなく、他者に迎合すること自体が辛いのかどうか、どうすれば自分はより幸せになれるのか、というのをちゃんと自分の価値観で決めようよ、ということを伝えたいのではないでしょうか。 実は、私はこの作品を読み終わったとき、作品の好き嫌いはあるにせよ、「賛否両論」特に「否定的な意見」が多く出るような作品だとは全く思っていませんでした。それはダルちゃんへの「共感」以上に、この作品を通してダルちゃんが得たもの、そしてそこまで描ききったこの作品に対して感動したためです。 もし、この文章を通して、この作品に否定的だった方が(ダルちゃんのことを好きになれなくても)この作品自体を少しでも肯定的に思って頂けるようになったなら何よりです。 全2巻読了
たか
たか
2020/02/03
いま一番読むべきノンフィクション漫画!!
さてこの作品を購入した経緯ですが、昨年マンバで『惑星をつぐ者』という伝説のジャンプ打ち切り作品を知りまして、そのあまりの完成度の高さに衝撃を受けたんです。 https://manba.co.jp/boards/65021 「戸田尚伸先生の他の作品も読んでみたい…!!」と思い調べてみたのですが、なんと読切作品ばっかりで全〜然本になってない。『惑星』の他に、唯一出版されていたのがこの『カルロス・ゴーン物語―新・日本経済入門』でした。 戸田先生の作品ということで読みたいな〜とは思いつつも、お硬い実用書的な表紙がネック(漫画はおまけ程度で、文字ばっかりだったらどうしようとか)で購入に踏み切れずにいたんです。 そんな中!2019年12月にあのゴーン元社長逃亡事件が起きたわけですよ…!**「いやこれ今読まないでいつ読むんだよ!!」**と1月Amazonでポチりました(中古で¥1500)。 https://i.imgur.com/80ExAsV.png 肝心の中身ですが、めっちゃ良かったです…! 全6話(1話約32ページ)たっぷり漫画が収録されていて、冒頭にはゴーン社長の幼少期の写真と漫画制作時のインタビュー写真が掲載されています。 2002年に発行されたこの作品は、**「カルロス・ゴーンが、日産再建のため1999年にCOO(最高執行責任者)に就くまでの半生」**を描いた物語となっています。 https://i.imgur.com/mW8USdc.jpg (『カルロス・ゴーン物語―新・日本経済入門』第1章 旅立ち 戸田尚伸/富樫ヨーコ) ですので、**「日産のゴーン社長」として活躍する様は少ししか描かれておらず、「俺達の戦いはこれからだ!!」で終わっていて、まるで山王戦で最終回を迎えたスラムダンクのような面白さの頂点で終わるスタイル。**面白くないわけがない! しかも作画が戸田尚伸先生なので、目で画面を見たときの満足度も高い。(戸田先生を知らない人はレベルEの冨樫義博先生の絵を想像してください…ああいうリアルめな格好いいやつです) 描いた時期が時期ですから仕方ないのです、**漫画として一番良い・綺麗なところで終わっててちょっとズルい(笑)。**さらにあと5年後とかに描いていたらまた違う面白さがあったと思います。 それにしても、ちょうど私が小学生の頃にゴーンさんが日産の社長になったので、どうしても日産以外で活躍してるイメージがなかったのですが、ミシュランに正社員で入社しそこからグングン上り詰め、ルノー、日産のリーダーとして渡り歩いてきたマジでめっちゃすごい人だったんですね…初めて知りました。 https://i.imgur.com/KBhxQws.jpg (『カルロス・ゴーン物語―新・日本経済入門』第3章 ブラジル・ミシュラン 戸田尚伸/富樫ヨーコ) ゴーンさん、世界で今一番熱い人だと思うので、小学館の方はカルロス・ゴーン物語「日産再建編・ゴーンショック&逃走劇編」の出版をよろしくご検討ください。(作画は戸田先生でお願いします!)
吉川きっちょむ(芸人)
吉川きっちょむ(芸人)
2019/04/15
ポップでキュートでコミカルな童貞3人組! #読切応援
毎日昼休みに校庭に出てバレーボールで遊ぶ日常系四コママンガのように和やかな女子高生3人組、を見る野暮ったいクラスの端っこにいるような3人組がこの話の主人公。 漫研でもないのに生身の女子3人組の二次創作漫画をそれぞれノートに描いてきては交換するというキモ日課を送っていた。 彼女らのことはずっと見守るだけでいい、と距離を取っているが、その中の一人今井君は違う感情を抱いていた。それは・・・。 めちゃくちゃいい! まずページをめくってパッと目に入ったときの絵の印象が最高で、キャラのデフォルメ具合がたまらなくて見やすい。 イケてない彼らでさえとってもキュートだ。 キュートな絵柄なのに、女の子の描写はたまにエロくも見える色気がある。 団子っ鼻でメガネで白目でニヒルな女の子もいい味出してる。 これでいいのかと自問自答し大いなる一歩を踏み出す今井くんが素晴らしい。 いつまでもそのままずっと、ぬるま湯に見える薄めの硫酸風呂に入り続けることもできたのに。 「眺めるだけで本当にいいんですか!?」「小さな決断があとあと効いてくるんです!!」は自分たち自身に問いかけ続け毎日小さい後悔を積み重ね続けた言葉だろう。 沁みる。 最終的にもなんだかポップでかわいらしい結末が待っている。 ここで、なるほどそうだったのかと腑に落ちる。 そしてもう一度読み返すと、あーほんとだ、と。 とても好きな読切だった。 コンプレックスやダークサイドの描き方も傷心も全部ポップ! 全くエグくならず、コミカルで楽しい読み味が続く。 自分の中で早く連載を読みたい作家さんの一人になった。
かしこ
かしこ
2020/01/18
バタアシ金魚のカオル君みたいになりたい
あなたにとって望月ミネタロウの代表作は何ですか? 私にとってのそれは「東京怪童」なんですけど。こないだ始まった「フレデリック」で【あの「ドラゴンヘッド」と「ちいさこべえ」の作者の新連載がスタート!】と紹介されててビックリしました。あれ!?「バタアシ金魚」は!?と。まあ、代表作があり過ぎるということかもしれませんが…。 私が「バタアシ金魚」を読んだのは10年位前ですが、主人公・カオル君のブレーキが壊れた熱血さが理解できなかった。これは連載当時との感覚が合わないから起こるギャップなのかな?と思ってたのですが、どうやらリアルタイムで読んだ人にとってもカオル君の熱さは時代遅れで、みんなソノコ状態だったそうです。でも圧倒的に表現の仕方が新しくてカッコ良かった!と聞いたことがあります。 岡崎京子のエッセイでも「バタアシ金魚のカオル君みたいに」という言葉がありましたが、カオル君のバカみたいなガムシャラさって、本当はどんな時代でも一番カッコいいことであるべきなんじゃないかと思います。 今、このクチコミを書いてて「ちいさこべえ」の主人公とカオル君って似てるかも?と気づきました。望月ミネタロウが描いている、人間にこうあって欲しいと思う姿(ヒーロー像?)って、初めから変わっていないのかもしれません。
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