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マンガ100年のあゆみ|1960年代編 週刊少年誌の誕生

2023年は日本初の日刊連載マンガ「正チャンの冒険」の連載開始からちょうど100年。その間、マンガはさまざまな発展を繰り返し、現在では全世界で楽しまれている日本が誇る文化のひとつとなりました。そんなマンガの100年間のあゆみを、多彩な執筆陣によるリレー連載の形式でふりかえります。
今回は、『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか?』(星海社新書)の著者であり、さまざまな分野で執筆活動を続ける、ライターの伊藤和弘さんに1960年代のマンガについて寄稿していただきました!!

月刊誌から週刊誌へ

1956年の「週刊新潮」(新潮社)創刊を皮切りに、出版界では空前の“週刊誌ブーム”が起こった。59年までに「週刊明星」(集英社)、「女性自身」(光文社)、「週刊現代」(講談社)、「週刊文春」(現・文藝春秋)、「週刊平凡」(現・マガジンハウス)などが次々と創刊される。その中に、日本初の週刊少年誌「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)の姿もあった。両誌の創刊はともに1959年3月17日。ターゲットは小学校高学年になっていた団塊の世代である。

週刊少年サンデーと週刊少年マガジンの創刊号
左:「週刊少年サンデー」創刊号(小学館 1959年)
右:「週刊少年マガジン」創刊号(講談社 1959年)

もともとの企画は小学館が先だった。「少年サンデー」の創刊編集長となる雑誌部次長の豊田亀市が「マンガを中心にした少年向けの週刊誌を出したい」と相賀徹夫社長に申し出たのは58年夏のこと。やがてその情報が講談社の野間省一社長の耳に入り、年が明けた1月末に「なかよし」編集長だった牧野武朗らに「少年マガジン」創刊の命が下る。お互いに“日本初の週刊少年誌”を目指して激しいデッドヒートを繰り広げ、3月17日の同時創刊に落ち着いた。前年から準備を進めていた「サンデー」に対し、「マガジン」は社長の鶴の一声からわずか1ヵ月半で創刊されたことになる。

創刊号の部数は「サンデー」の30万部に対し、「マガジン」は20万5000部。スタートが早かったため、ナンバーワンの売れっ子だった手塚治虫をはじめ、トキワ荘グループ(寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫など)のマンガ家を抑えた「サンデー」が初期は優勢だった。61年開始のヒット作『伊賀の影丸』(横山光輝)に続き、62年には「シェー」を流行語にした『おそ松くん』(赤塚不二夫)、64年に『オバケのQ太郎』(藤子不二雄)が加わり、“ギャグのサンデー”と呼ばれた第1次黄金時代を築いた。

伊賀の影丸、おそ松くん、オバケのQ太郎
左:『伊賀の影丸』1巻 横山光輝(秋田書店)
中:『おそ松くん』1巻 赤塚不二夫(フジオ・プロダクション)
右:『オバケのQ太郎』1巻 藤子不二雄(小学館)

63年になると少年画報社が「週刊少年キング」で参入。少年マンガでは週刊誌が主流となり、「少年」(光文社)、「少年クラブ」(講談社)、「少年ブック」(集英社)などの月刊誌はいずれも60年代に姿を消した。以来、現在に至るまで週刊少年誌こそが“マンガの主流”であり、マンガの中心的なメディアであり続けている。

大学生がマンガを読むように

“ギャグのサンデー”に対し、ストーリーが強かった「マガジン」は“ストーリーのマガジン”と呼ばれた。その背景には初代編集長の牧野武朗が提唱した“原作・作画の分業方式”がある。61年に始まった『ちかいの魔球』(福本和也ちばてつや)を皮切りに、62年には実写ドラマ化された『チャンピオン太』(梶原一騎・吉田竜夫)、63年はアニメ化された『8マン』(平井和正・桑田次郎)など、次々と原作付きのヒットを放っていく。

ちかいの魔球、8マン
左:『ちかいの魔球』1巻 ちばてつや(ちばてつやプロダクション)
右:『8マン』1巻 平井和正・桑田次郎

ストーリー性の重視には、また現場の編集者たちの意向もあった。後に第4代編集長となる文学青年の宮原照夫は「マンガで人間を描きたい」という思いから『ちかいの魔球』を企画。同じく第3代編集長となる内田勝は、若き平井和正に「大人の鑑賞に堪える作品を書いてほしい」と頼んで『8マン』を始めたという。この頃までのマンガは“子どもの読み物”に過ぎず、マンガ編集者も一段低く見られていた。内田や宮原にはそれに対する反発もあり、「文学と肩を並べるマンガをつくりたい」という野心に燃えていたようだ。原作・作画の分業方式に加え、この文芸志向が“ストーリーのマガジン”を作っていった。

65年に30歳の若さで第3代編集長に就任した内田勝は、青年向けの「貸本マンガ」を描いていた“劇画家”たちを積極的に起用する。そこから水木しげるの『墓場の鬼太郎』(後に『ゲゲゲの鬼太郎』に改題)やさいとう・たかをの『無用ノ介』など、従来の少年マンガにないタイプのヒット作が生まれた。

66年に『巨人の星』(梶原一騎川崎のぼる)が始まると「マガジン」の発行部数は「サンデー」を抜き、その年の暮れに週刊少年誌初の100万部を達成。さらに68年には『あしたのジョー』(高森朝雄ちばてつや)が加わる。部数増とともに読者の高齢化も進んだ。早稲田大学新聞に「右手に(朝日)ジャーナル、左手にマガジン」という見出しが載り、「大学生がマンガを読む」ことが世間の注目を集めた。

69年の時点で「マガジン」の読者は8割近くが高校生以上になり、内田編集長はどんどん青年誌化を進めていく。小説のコミカライズが試みられ、笹沢左保の『六本木心中』(画・芳谷圭児)やサキの『灰色の森』(画・上村一夫)を掲載。少年誌にあるまじき性や暴力の描写も増えていく。70年に始まった『アシュラ』(ジョージ秋山)では堂々と“人肉食”が描かれ、教育委員会やPTAから抗議が殺到した。内田や宮原の思惑通り、「マガジン」は“大人の鑑賞に堪える雑誌”になったのだ。

巨人の星、あしたのジョー、アシュラ
左:『巨人の星』1巻 梶原一騎・川崎のぼる(講談社)
中:『あしたのジョー』1巻 ちばてつや・高森朝雄(講談社)
右:『アシュラ』1巻 ジョージ秋山

青年誌、マニア誌の登場

「マガジン」と「サンデー」の創刊から10年が過ぎた60年代末、当時小学生だった団塊の世代は高校生や大学生に成長していた。大学生になっても「マガジン」を読み続けた彼らは「大人になってもマンガを卒業しない」初めての世代であり、そんな彼らに向けて青年マンガ誌が次々と創刊されていく。

67年に「週刊漫画アクション」(双葉社)や「ヤングコミック」(少年画報社)、68年に「漫画ゴラク」(日本文芸社)、「ビッグコミック」(小学館)、「プレイコミック」(秋田書店)が次々と登場。「漫画アクション」の『ルパン三世』(モンキー・パンチ)や「ビッグコミック」の『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)など、半世紀を経た今なお人気が衰えないロングセラーも生まれている。

ゴルゴ13、ルパン三世
左:『ゴルゴ13』1巻 さいとう・たかを(小学館)
右:『ルパン三世』1巻 モンキー・パンチ(双葉社)

当時の青年読者の中には、マンガに文学性を求めるマニアも少なくなかった。『あしたのジョー』をプロデュースした「少年マガジン」の宮原照夫にも「マンガで純文学をやりたい」という思いがあったというが、いわば文芸誌のようなマニア向けのマンガ誌も出てくる。

その代表格は64年に創刊された「月刊漫画ガロ」(青林堂)だろう。『カムイ伝』(白土三平)、『ねじ式』(つげ義春)、『赤色エレジー』(林静一)など、知る人ぞ知る名作を発表し続けた「ガロ」は今でも“伝説の雑誌”となっている。『釣りキチ三平』で知られる矢口高雄は60年代当時、秋田で銀行員をしていた。「ガロ」に衝撃を受けてマンガ家への転身を決意し、30歳で妻子を残して上京したという。

「ガロ」が注目されてくると、マンガ界の巨人・手塚治虫は虫プロ商事を設立し、67年にこれも伝説となった「COM」を創刊する。こちらも『火の鳥』(手塚治虫)、『章太郎のファンタジーワールド ジュン』(石森章太郎)、『フーテン』(永島慎二)、『ライク ア ローリング ストーン』(宮谷一彦)といった話題作を量産している。

火の鳥、フーテン
左:『火の鳥』1巻 手塚治虫(手塚プロダクション)
右:『フーテン』1巻 永島慎二(グループ・ゼロ)

 

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