来年還暦の私ですが、幼少期の記憶って意外と残ってるもんですね。
就学以前、幼稚園での出来事など結構憶えている事にちょっとした不思議さを感じます。
その遠い昔の記憶の中で、現実だったはずなのに何かがぼやけて夢だったのかもしれないと思う出来事。
一つ紹介させてください。
傷痍軍人さんという方を3歳の頃なのか、4歳か5歳なのか一度だけ見た記憶があります。
催しなのか定例の行事なのか定かではありませんが、夜に大きなお寺へ行った時の事。
本堂へ向かう道の両脇には裸電球が中に入ったぼんぼりが連なり、周りは混雑しているほどではないけど多くの人。
縁日の雰囲気も醸し出してました。
途中の空いた場所に松葉杖を抱えて立っている男性。お二人だったように思います。
どちらも白装束に包帯やガーゼ。
大きく書かれた子どもには読めない漢字混じりのメッセージのたすきと立て看板。傍らで流れる軍歌。
正直に言います。何がってわけではなく、子供心に怖さを感じました。
だから今も記憶に残っているのでしょう。
しかし一つ腑に落ちないことがあります。
傍らで流れていた軍歌。ラジカセなどない時代にどうやってずっと音楽を流し続けていたのか。
ポータブルのレコードプレーヤーでは曲が終わったらその都度かけ直さなければいけません。
ラジオに軍歌専用のチャンネルがあったのでしょうか。今も謎です。
そしてこのお寺。どこのお寺なのかは憶えてません。隣県の母方の実家に滞在していた夏休みの出来事だとずっと思ってました。
しかし10数年前父が亡くなった時斎場から帰って家族で話した際、母から幼少期の私は体が弱く住んでいた地元の大きなお寺によくお参りに連れていったと聞かされます。
あれ、ではあの傷痍軍人さんはその時に見たのだろうか。
その地元の大きなお寺に母に連れられて行った記憶はありません。しかし他のお寺の催しに行った記憶はいくつか残ってます。
歳とともにぐんにゃりとぼやけた映像になっていく記憶。実は夢だったんじゃないか、との疑念が湧いてきます。
流れていた軍歌の謎もあって、夢と現実がごっちゃになっているのではないか。
傷痍軍人さんの姿は心に残っていますが、この夢だったのか現実だったのかわからないふわふわした気持ち。
前置きが長くなりましたが、これこそが数多く描かれた水木しげるさんの短編での魅力でしょう。
朝日ソノラマから出版されたサンコミックス。水木しげるさんの秀逸な短編が収録されてます。
現在私の手元にはこの『死者の招き』1冊しかありません。
世代的に他の漫画家さんも含めてサンコミックスは馴染み深いのですが現在は廃刊。
しかし水木さんの短編は様々な書籍に収録され続け今も読むことが出来、不滅です。
私にとって最初の水木しげる作品は少年マガジンの『墓場の鬼太郎』です。ゲゲゲではありません。墓場です。
後にマガジンの連載も『ゲゲゲの鬼太郎』と改題されますが、墓場時代の鬼太郎は怖かったですよ。
幼稚園児が読む内容ではないのに漫画だからページをめくってた、といったほうが近いですね。
手塚治虫さんや藤子不二雄さんとは全く違う絵柄。妖怪が怖かったというよりはまずその画風に恐怖を感じたのかもしれません。
何よりねずみ男や、出てくる大人たちが怖かった。
他人を利用し「イヒヒヒヒ」と笑う狡猾な大人。
今だからこうやって分析してますが当時はこの水木版ずるい人々を「なんか怖い」、と水木作品を少し敬遠していた様に思います。
ゲゲゲに改題されて以降はそこまで怖さを感じなくなりました。
マガジンのグラビアも大伴昌司さんという方の手によって魅力ある展開を見せる様になります。子どもにとって鬼太郎も妖怪も、とても迫力がありました。
アニメにも熱中して毎週見てましたよ。
ところがガロや大人向けの雑誌に載った短編群は大人になるまで触れる機会がありませんでした。
本格的に読むようになったのは古い漫画を集めだした20代後半からです。
元々大人向けな内容なのもあってか面白くて買い漁りましたよ。そして水木版ずるい人々が出てくる出てくる。
もう怖いとは思いません。でも子供の頃はこの人たち怖かったよなぁと感慨を感じます。
そして多くの短編に共通する独特の無常感。
あれは何だったんだろう、夢だったのか。登場人物たちは最後にうなだれたり、あるいは忘れようと思ったり。
ハッピーエンドでもバッドエンドでもない終わり。ミズキエンドとでも言いますか。
水木さんの作品ですから短編といえども妖怪たちはたくさん出てきます。
水木さん独特の無邪気な妖怪たちももちろん魅力的ですが、私はこの無常感と現実と夢の境目のような読後感がたまらなく好きです。
今回もこの本をだいぶ久しぶりに引っ張り出して、久しぶりすぎて内容をあまり覚えてないこともあって新鮮に面白く読めました。
最初の「死人つき」は30数ページですが他の短編は10ページから20ページ前後。
この短さで不思議で奇妙な物語を凝縮させる水木さんの手腕は言わずもがなです。
50数年漫画を読み続け、水木作品も相当読んできました。
なのに今更? と言われても仕方ないのですが改めて気が付いたことがあります。
どの作品も黒の使い方が絶大な効果を生み出しているという事です。
何故今そこに着目したのか自分でも不思議ですが、背景や妖怪の描写に配置された黒の位置と割合。
これはほぼ全てが手書きの迫力ある画だからそう感じるのでしょうが、塗りつぶされた箇所が丹念に描かれている箇所を浮き上がらせる立体感。
水木さん、どこまで計算して描かれていたのでしょうね。紙芝居、貸本漫画と苦労を重ねながらも戦後一貫して画を描き続けた巨人のなせる業。
短い短編でも全力を注いでいるのが充分伝わってきます。
表題作の「死者の招き」は最後に収録されてますが、今回私が一番目を引いたのはその前に収録された「やまたのおろち」です。
やまたのおろち伝説と山びこを組み合わせた23ページの作品。最後の「死者の招き」が8ページなのに比べると少し長めです。
描かれたオロチの迫力たるやもう。絵画と言ってもいいのではないでしょうか。
展開される摩訶不思議な世界。
そして自分の現状を受け入れた主人公のふんわりした結末。まさにミズキエンド。
水木作品の魅力がたっぷり入った秀作です。未読の方はぜひ読んでみてください。
20代後半に水木短編を読み出しますが、1988年に『コミック昭和史』が刊行され始めます。全8巻全て発売される毎に順を追って新刊で買いましたよ。
この『コミック昭和史』で水木しげるという漫画家の壮絶な人生を知ってからが私の本当の水木作品の受け入れです。
昭和という時代を生き、軍隊、過酷な南方戦線、片腕の喪失、失われた多くの命。
鬼太郎も悪魔くんも河童の三平も数多くの短編群も合わせて水木さんの原点に触れ、驚愕しました。
ふわふわしたなんともいえない奇妙な雰囲気の短編は、生きて帰ってきた喜びに勝るものは無いではないか、何をあがいてもどうにもならん事ばかりが世の中なんだよ。
過酷な人生を歩みながらも本来の鷹揚な性格もあって、作品の裏側からそう主張する水木さんが垣間見えます。
サンコミックス収録の昭和40年代に発表された水木短編は今読んでもたっぷりの無常感を感じます。
いつの世も厭世観が消えないからなのか、水木作品が色あせないからなのか。
きっと両方正解なのでしょう。
*スタッフ註…「死者の招き」は『怪物マチコミ 【水木しげる漫画大全集】』に、「やまたのおろち」は『テレビくん 他 【水木しげる漫画大全集】』にそれぞれ収録されています。なお、『フーシギくん他 【水木しげる漫画大全集】』には「神話 やまたのおろち」という作品が収録されていますがそちらは別作品となっていますのでご注意ください。