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水木しげる(本名:武良 茂)は1922年に鳥取県で生まれます。太平洋戦争の時期に20歳となり,21歳の時に南方戦線に配属されます。太平洋戦争の主要年表を拾ってくると次のようになります。
1941年12月:真珠湾攻撃,太平洋戦争開戦
1942年02月:シンガポール陥落
1942年03月:バタビア沖海戦,連合国のアジア艦隊はほぼ壊滅
1942年05月:フィリピン米軍降伏
1942年05月:珊瑚海海戦,日米の空母機動部隊同士の海戦
1942年06月:ミッドウェー海戦,日本は主力正規空母4隻を失う
1942年08月:米軍ソロモン諸島のガダルカナル島に上陸
1943年02月:日本軍ガダルカナル島から撤退
1943年07月:ニューギニア島で日本軍と連合軍が戦闘
1943年09月:御前会議で絶対国防圏構想を決定
1943年12月:ニューブリテン島の西部のアラウエに連合軍上陸
1944年06月:マリアナ沖海戦,日本は空母3隻を失う
1944年07月:サイパン島玉砕
1944年10月:レイテ沖海戦,米軍フィリッピンに上陸
1944年11月:B-29マリアナ諸島より東京を初空襲
1942年6月のミッドウェーの海戦が太平戦争のターニングポイントとなります。1943年に入ると日本と連合軍の力関係は逆転しており,日本軍はソロモン諸島のガダルカナル島から撤退し,主戦場はニューギニア島,マリアナ諸島に移っていきます。
水木が配属されたニューブリテン島東端には南太平洋戦線での最大基地であるラバウルがあり,連合軍はここを迂回して前進します。それでも12月にはニューブリテン島西部には連合軍が上陸し,日本軍との間で戦闘が行われます。
圧倒的な武器と物量をもつ連合軍の攻撃により,連隊支隊長は玉砕の命令を出しますが,水木の所属する中隊長は遊撃戦に転じ,水木は一命を拾うことになります。九死に一生を得て部隊に戻ると国から与えられた武器を捨てて逃げたことを上官にとがめられます。
その後,水木はマラリアを発症し,療養中に爆撃により左腕に重傷を負い,軍医の手で切断手術を受けます。水木は傷病兵部隊に送られ,そこで親切な島の先住民との交流がはじまります。
この暖かい交流は水木のこころを動かし,現地で敗戦の報告を聞いた水木は現地除隊により永住することも考えましたが,家族に会うために1946年に帰国しています。現地に残っていたなら漫画家水木しげるは存在しなかったかもしれません。
帰国後は絵で身を立てようと武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入りますが,生計を立てるためにいろいろな職業を経験することになります。最終的には「水木荘」というアパートを経営するようになります。美術学校は数年後に中退しています。
アパートの住人の紹介でしばらくは紙芝居作家となります。このときのペンネームがアパートの名前をとって「水木しげる」となっています。しかし,アパート経営も紙芝居作家もしだいにうまくいかなくなり,1957年にアパートを整理し,上京して貸本漫画家となります。
しかし,収入は少なく原稿料を値切られたり,版元の倒産で原稿料をもらえなかったこともしばしば起きていたようです。この貧乏生活の中で両親の勧めで「布枝」さんと見合い結婚します。このとき29歳の彼女は2008年に自叙伝「ゲゲゲの女房」を刊行し,NHKの連続ドラマにも取り上げられています。ちなみに,水木本人が自伝的漫画のタイトルは「私はゲゲゲ」となっています。
長女が生まれて生活がさらに困窮します。しかし,1964年に「ガロ」で雑誌デビューを果たします。さらに少年マガジンから執筆依頼が来て,別冊・少年マガジンに掲載された「テレビくん」が1965年に講談社児童漫画賞を受賞します。
水木は40歳を過ぎてようやく一流作家の仲間入りを果たします。少年誌に掲載するときに貸本屋時代の絵柄から子ども受けのするものに変更していますが,本人は大変な努力が必要だったと語っています。
少年マガジン掲載時のタイトルは「墓場の鬼太郎」でしたが,私のもっている復刻版では「ゲゲゲの鬼太郎」と改題されています。これはアニメ化するときに墓場ではさすがにまずかろうということで改題したものです。この復刻版が出たのは1996年のことであり,第1巻の最後に水木は「鬼」と題した次のような一文を寄せています。このとき水木は74歳になっています。
最近アニメがリメイクされて、猫娘が萌え萌えすぎてムフフなのですが、漫画版は全くムフフなシーンはありません。 結構怖い感じですね。 「妖怪」を日本に流行らせた張本人。 この漫画がなかったら、可愛い猫娘がいないと思うと水木先生には感謝です。