超人生に、無駄という文字はない。──なぜ今の「キン肉マン」に心を揺さぶられてしまうのか?

『キン肉マン』

自分でもちょっと驚いているのだが、50歳になっても「キン肉マン」を読んでいるとは思わなかった。しかも惰性ではなく、面白いと思いながら読んでいる。今年から始まったアニメも、もちろん見ている。

キン肉マン」の連載が復活したのは2011年なので、すでに約13年経過していることになる。昭和期の連載は8年間だったので、もうあの頃の連載期間をとうに超えている。
*いちおう補足しておくと、いま連載している「キン肉マン」は、「2」のような扱いではなく、あくまでも「キン肉マン」本編として描かれている。

キン肉マン」を読まない人からすると、この現象は「昔ファンだった人がノスタルジーで飛びついているんでしょ?」と見えているかもしれない。かくいう自分自身、連載復活当初はそう思っていたところがあった。

でも違うんだよ。ノスタルジーじゃない、今の「キン肉マン」が好きなんだ。

正直な気持ちを言わせてもらうと、昭和期の「キン肉マン」をずっと好きだったわけではない。リアルタイムで読み始めたのは「7人の悪魔超人編」から。団体戦でのバトルが盛り上がっていくのはこのシリーズからなので、読み始めた時期も良かったのだろう、夢中になって読んだ。

ところが、昭和期最後のシリーズである「キン肉星王位争奪編」の決勝・フェニックスチームとの戦いで、なんとなく惰性で読んでいる自分に気づいた。具体的に言うと、キン肉マンがディフェンドスーツを着用したあたりから。見た目もカッコいいとは言えないし、何より「自分の肉体で戦ってこそのキン肉マンだろ、なにギミックに頼ってるんだ」とガッカリしてしまった。

そして終盤におけるフェイスフラッシュの濫用。キン肉マンがマスクをめくって素顔をチラ見せすると、奇跡が起こるやつね。今やすっかり日常語となった「チート」という言葉は、当時まだ定着していなかったものの、概念として「チート」にあたる感情を抱いたのは、フェイスフラッシュが初めてだったかもしれない。
「こんなにたやすく奇跡が起こせるなら、今までの苦労はなんだったんだ……」
当時の読者は全員、マジで全員そう思ったに違いない。そうやって昭和期の「キン肉マン」は終わりを迎えた。だから2011年に連載が復活したときは、テンションは上がったものの、思わぬニュースを聞いた興奮を差し引くと、「まあ読んでみるか」くらいの気持ちだった。

ところが復活した「キン肉マン」は、確かに「キン肉マン」でありつつ、かつての「キン肉マン」よりも面白かった。たぶん小学生の自分より、今の自分のほうが「キン肉マン」を好きなんじゃないか。同じように感じている読者は、きっと少なくないと思う。

で、改めて考えてみた。

なぜ自分は今の「キン肉マン」を好きなのか。
何を面白いと思っているのかと。

復活して最初のシリーズ「完璧超人始祖編」のように、かつて正義超人の敵だった悪魔超人が新たに襲来した完璧超人と戦っていて、(目的はともかく構図的には)正義超人の味方のようになっていること。その面白さはある。完璧超人、オメガ・ケンタウリの六鎗客、さらには地上に下天し超人化した神々「超神」……と、シリーズを追うごとに強大な敵が登場すること。もちろんその面白さもある。作者の作画力が上がっていることも見逃せない。

しかしそれ以上に心を揺さぶられたのは、かつて情けない存在だった、あるいはふがいない姿をさらけ出していた超人たちが奮闘する姿だった。

たとえばステカセキング。
正義超人と悪魔超人の壮絶な試合が続く「7人の悪魔超人編」であるが、その初戦であるキン肉マンVSステカセキング戦は、ちょっとテイストが違っていた。「超人大全集」という過去の超人たちのデータ(カセットテープ)を入れ替えることで、その超人に変身するという、ものすごい技を持っているステカセキングだったが(一部では「ステカセ最強説」もある)、うっかりまだ弱かった時代の「3年前のキン肉マン」のカセットを装着してしまい、キン肉マンに破れてしまう。このシリーズ中で……いや、それ以降のシリーズも含めて、突出してマヌケな負け方である。

そのステカセキングが、連載復活の新章「完璧超人始祖編」で完璧超人ターボメンと対戦する。過去にぶざまな負け方をしたことをターボメンに揶揄されるが、なんと技巧超人キン肉マンゼブラに変身し、ターボメンを圧倒する。

「キン肉マン」39巻より

一時は試合を優勢に進めていたステカセキングだったが、ターボメンの反撃を食らい、もはや試合続行が不可能な状態になる。しかしステカセキングはそれでも立ち向かっていく。残った命を全部使い切るまで戦い続ける。

「キン肉マン」39巻より

最終的には完膚なきまでに破壊されてしまうのだが、ステカセキングは確かに「7人の悪魔超人編」より成長していた。弱い自分を克服していた。連載が復活して最初の試合は、テリーマンVS完璧超人マックスラジアル戦なのだけど、個人的にはこのステカセキングVSターボメン戦こそが「キン肉マン」復活後の実質的な初戦、「今回の『キン肉マン』は一味違うぞ……!?」と読者に知らしめる一戦だったと思っている。

*ステカセキングについては、そのあとのスプリングマンの試合、さらには現在単行本未収録の外伝「ステカセキング&ス二ゲーター外伝」でも印象的に描かれており(「ジャンプ+」で432話と433話の間に掲載中)、それらを読むと、ステカセキングがどんな思いでターボメン戦を戦っていたかをより深く理解することができる。

 

「完璧超人始祖編」に続く「オメガ・ケンタウリの六鎗客編」で、パイレートマンと戦うことになったカナディアンマンの姿も、胸を打つものがあった。

カナディアンマンといえば超人強度が正義超人最大の100万パワー、数字だけ見ればキン肉マンやロビンマスクよりも上である。超人オリンピックで、スタジアムごと持ち上げて登場したシーンは非常にインパクトがあった。

しかし彼の「スペックだけ見れば最強」という特徴は、結果的に「相手の強さを際立たせるための踏み台」になってしまっていた。決定的だったのは「夢の超人タッグ編」。カナディアンマンはスペシャルマンとタッグを組みトーナメントにエントリーしていたが、飛び入りで参加したアシュラマン・サンシャイン組に「弱体チームには大会参加をご遠慮願おうか」と言われ、「弱体チームだと その言葉とりけせーっ」と激昂。しかしいとも簡単にやられて、自ら弱体ぶりを証明する形になってしまった。

「威勢がいいけどあっさりやられる」

いつしかそれがカナディアンマンのパブリックイメージとなっていた。

で、話を戻してパイレートマンとの一戦。スペックのわりに実績が伴っていないことを、パイレートマンからズバリ指摘されてしまうカナディアンマン。

「キン肉マン」62巻より

かつてのカナディアンマンなら、ここで威勢よく反発して、あっさり返り討ちにあっていたはず。しかしこのときのカナディアンマンはその指摘をすでに自覚していた。世間からどう思われているかも。それを認めた上で、その評価をくつがえすためにリングに上がっていた。

「キン肉マン」62巻より

その覚悟を叫びながら、驚異的な粘りを発揮するカナディアンマン。試合結果がどうなったかはあえて書かないけれど、結果はどうあれ、もうカナディアンマンをバカにする者は誰もいないだろう。世間の、カナディアンマンに対する評価はガラッと変わった。そう思わせるに十分なほど、今までのカナディアンマンらしからぬ壮絶さにあふれた試合だった。

 

次に紹介するのは、オメガ・ケンタウリの一人・ギヤマスターと対戦したキン肉マンビッグボディ。

「キン肉星王位争奪編」では、「剛力の神」から力を得て1億パワーの超人強度を誇っていたものの、同じ超人強度のキン肉マンスーパーフェニックスに、あっさりやられた過去がある。何の技も出すことなく、しかも「オレにもよくわからないんだ 剛力の神にそそのかされてムリヤリ出場させられたんだ」という泣き言まで言って。

ギヤマスターもそのことを知っていて、ビッグボディを揶揄する。

「キン肉マン」65巻より

さっきのカナディアンマンもパワーが自慢のわりに勝てなかったわけだが、ビッグボディに至っては1億パワーを誇りながら何もできずに負けているので、負けっぷりはこちらのほうがひどいとも言える。実際、ふがいない負け方をしたことは、ビッグボディの中にトラウマとして深く刻まれていた。

「キン肉マン」65巻より

あの日のトラウマを乗り越えるために、この試合に臨んだビッグボディ。
彼は悔いていた。ビッグボディチームのメンバーに自分の実力を見せられないまま、現在に至っていたことを。

「キン肉マン」65巻より

必殺技を繰り出す直前、ビッグボディはチームメイトの超人たちの名前を叫ぶ。

「キン肉マン」65巻より

キン肉マン」はもともと「友情」をストーリーの前面に押し出していた(今でもそうなのだろうが)。それはこのマンガの中心テーマであるとはいえ、小学生時代の自分はどこかそれを「ふーん」と思いながら見ていたところがあった。否定まではしないけれども、道徳的・教科書的な匂いを感じてしまって、そこまでリアリティを感じることができなかったからだと思う。

しかしこのビッグボディのチームメイトに対する思いには、グッと来てしまう。同じトーナメントに臨んだマリポーサ、ゼブラ、フェニックスは、試合の勝ち負けはともかく、皆それぞれ必殺技を試合で披露している。ビッグボディだけ、何もできずに負けてしまった(ソルジャーのことはいったん置いておく)。その後悔をやっと晴らせる。作品世界ではそこまで時間が経っていないのかもしれないが、われわれのいる世界では、ビッグボディが無様に負けてから35年近い時を経ての、この叫び。復活後の「キン肉マン」の中でもっとも快哉を叫んだシーンの一つである。

 

 

ビッグボディチームといえば、レオパルドンの存在を忘れるわけにはいかない。フェニックスチームの先鋒・マンモスマンに「次鋒レオパルドンいきます!」と立ち向かうも、0.9秒で倒されたことで、あまりにも有名な超人である。「水曜日のダウンタウン」にも「レオパルドンよりも一瞬で殺されたものなどいない説」として取り上げられたほど、「秒殺といえばレオパルドン」は一つの定説のようになっていた。

「超神編」で、そのレオパルドンがビッグボディのピンチに駆けつける。

「キン肉マン」73巻より

しかし相手は超人化した神「超神」の一人、ランペイジマン。おそらくマンモスマンよりも強い。どう考えてもレオパルドンがかなう相手ではない……というのはビッグボディはもちろん、レオパルドン自身もおそらくわかっている。それでも戦いを挑むのは、あのときの屈辱をずっと引きずっていたから。レオパルドンはビッグボディに、あの時の号令を再びかけろと請う。レオパルドンの思いをくみ取ったビッグボディは、「つぎ次鋒でろ!」の号令をかけ、レオパルドンは再び突進する。

「キン肉マン」73巻より

かつて0.9秒で敗れ、さんざんネタにされてきた……いや、笑い者にされてきた超人に、ここまで心を揺さぶられるとは思わなかった。彼の乾坤一擲の覚悟が、この迫力ある作画に表れている。

とはいえ、超神ランペイジマンとの実力差は明らか。すぐに劣勢に立たされてしまう。それでもレオパルドンは、笑いながらこう言うのだ。

「キン肉マン」73巻より

このあと、レオパルドンはランペイジマンにボロボロにされてしまう。それでも彼は、この戦いであの日の自分を乗り越えることができた。もし、今の世の中でレオパルドンの秒殺をネタにして笑う者がいたとするなら、「お前、いつまでそんな古いネタこすってんの?」と逆に笑われてしまうだろう。

ここで余談。レオパルドンを考案し超人募集で採用されたのは、清水くんという少年である。彼の同級生という人物が、ブログで採用後の彼の境遇について語っている。
https://ameblo.jp/kobe1te2/entry-10714428669.html

レオパルドンの秒殺シーンの後、清水くんは「キン肉マン」に対してどんな思いを抱いただろうか。嫌いになったかどうかまではわからない。しかしさすがに採用前と同じ感情ではいられなかったのではないか。

大人になると、彼をレオパルドンの生みの親だと知る者は、周囲にほとんどいなかったはず。レオパルドンの思い出は、きっと彼の記憶の深い地層に沈んでしまっていただろう。そんなとき、ふいに登場したレオパルドンの勇姿を見て、彼はどう思ったのだろうか。レオパルドンは大人になった彼に、力を与えただろうか。いろいろ想像してしまう。

 

過去のふがいなさを引きずりながら、復活後の「キン肉マン」で見違えるほどの奮闘を見せていた超人は、ここに紹介した例だけではない。まだまだいる。

彼らの活躍を見ていると、過去のふがいなさや過ちは「伏線」に過ぎなかったんだな、と思う。伏線というのは、一般的にはその先の展開を見据えた上で仕込むものだ。しかし当時、彼らは将来の活躍を見据えてふがいなさを見せていたのではない。作者のゆでたまごにしても、そんなことは考えていなかったはず。

ただ彼らが、「過去の過ちが、伏線になるような生き方を選んでいる」というだけだ。あのときのふがいなさは、その後の活躍の呼び水になるための布石だった。そうなるために、そう思わせるために、彼らは超人としての生をまっとうしようとしている。

かつて取るに足りない存在だと思っていたステカセキング、カナディアンマン、ビッグボディ、レオパルドンのことが、こんなに好きになるとは思わなかった。それは復活後の「キン肉マン」を読んでの、もっとも大きな心境の変化だと言っていい。

彼らの活躍を見ていると、どこか自分の世代と重ねあわせて見てしまうところがある。

昭和の時代、「キン肉マン」に熱中していたのは「団塊ジュニア」と呼ばれる世代。その世代が成長し、インターネットに親しむようになると、今度はかつて熱中していた「キン肉マン」をツッコミどころの多いマンガとして、ネタとして消費するようになった。

やがて彼らを就職氷河期が襲う。該当する年代が完全に一致するわけではないけれど、かつて「団塊ジュニア」と呼ばれていた世代は、いつしかざっくり「氷河期世代」と呼ばれるようになった。同じ世代の中でも、氷河期の捉え方はさまざまある。「あの頃は氷河期で大変だった」と過去の出来事として捉えている人もいれば、氷河期の名残が完全には消えておらず、現在進行形で苦しんでいる人もいるだろう。

そういう経験をしている世代だからこそ、余計に今の「キン肉マン」が刺さる。
過去の痛みを現在の伏線にしてしまうような生き方がある、と思わせてくれる。1回こっきりではない、たびたびそう思わせるシーンが登場することで、それはより強いメッセージとして響く。

作者のゆでたまごがそのことを意識して描いているとまでは思わない。けれど、取るに足りない存在だった超人たちが、過去の傷を単なる傷として終わらせない生き方をしている。その姿はとても胸を打つ。マンガを単なる暇つぶし、単なる楽しみとして消費する以上の意味まで感じてしまう。

 

超人生に、無駄という文字はない。

 

ここで挙げた超人たちが体現しているのは、そういうことなのだと思う。だから、今の「キン肉マン」を読んでいるのは、過去のノスタルジーからではない。人生経験を詰んで大人になった今だからこそ、より楽しめている。自分の中で「キン肉マン」を好きな理由を突き詰めると、そういう結論になった。こうやって書いてみると知らず知らずのうちに、自分は「キン肉マン」の影響を受けていたのだな……と、今さらながら気づかされている。まあ「心に愛がなければスーパーヒーローじゃない」という意識を、少年時代にインストールされた世代ですからね。

というわけで、かつて読んでいた世代には特に、今の「キン肉マン」を読むことをすすめたい。今から「キン肉マン」を読み始めたいけど、1巻から読むのは長すぎるという人は、「7人の悪魔超人編」から読むのをおすすめします。

 

 

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