そしてベジータは大人になった

そしてベジータは大人になった

上田啓太さんによる、大人気シリーズ “『ドラゴンボール』に登場するベジータについての考察” 後編。これまでの考察については「前編」「中編」をどうぞ。

 ベジータに関する話の後編である。

 前編では、残忍な男として登場し、あらゆる命をゴミのように扱う初期ベジータを見た。そして中編では、悟空に敗北したことで劣等感をかかえ苦悩するベジータを見た。

 今回は、作中最後のシリーズである魔人ブウ編を見ていく。前編と中編で提示したベジータの問題、すなわち残忍性と悟空へのコンプレックスは、ふたつの有名なセリフとして結実する。

「トランクス、ブルマを、ママを大切にしろよ」

「がんばれカカロット、おまえがナンバーワンだ」

 どちらも名場面として語られることが多い。ベジータという男が葛藤の果てに辿りついた場所だからだろう。しかしまあ、あせる必要はない。まずは魔人ブウ編におけるベジータをゆっくり見ていくことにしよう。

 

ベジータ本人はぜんぜんゆっくりしてませんけど。(『ドラゴンボール』36巻120p)

 

 魔人ブウ編の序盤、ひさしぶりの天下一武道会がある。悟空はセル編で死んでしまったが、武道会に出場するために一日だけ現世に戻ってくるという。当然ベジータも参加することになる。悟空と戦うチャンスだからだ。

 パンチングマシンを叩くという茶番めいた予選もこなし、悟空との対決にそなえるベジータ。いよいよ悟空と決着をつける時が来たと期待している。しかし期待はすぐに打ち砕かれる。武道会の序盤で新たな地球の危機が発覚し、大会どころではなくなるからだ。ベジータとの対決を前にして、悟空はあっさりと大会を離脱しようとする。

 前回、私はベジータの一方的なライバル視を「片想い」と表現した。ベジータは強烈に悟空を意識しているが、悟空はそれほど意識していない。今回もそれが明らかになる。ベジータは「オレたちの対決はどうなるんだ」と悟空に詰め寄る。地球の危機などどうでもいい、おまえと一対一の決着をつけたい、そのためにこんなくだらない大会にまで出たのだと。ベジータの執着は相当なものである。

 しかし、これにたいする悟空の返答は、テキトーなものだ。

「わかったわかった
 天下一武道会じゃなくても 後でぜったいに試合してやっから」

 覚えておいてほしいことがある。人が本当に何かをわかった時、「わかった」を二度繰り返したりしない。面倒だからわかったことにしたい時だけ、人は「わかった」を二度繰り返すのである。悟空のこの発言はその場しのぎの思いつきにすぎない。それはベジータの指摘ですぐさま露呈する。

「くそったれ…
 きさまは一日しか この世界にいられないんだろ……」

 この瞬間のベジータは、たんなる口の悪い乙女である。ベジータは悟空以上に悟空の状況を把握している。そしてマイペースな悟空に振り回されている。悟空と戦いたい気持ちは空回りしてばかり。それが乙女としてのベジータだ。

 しかし、乙女も度が過ぎれば狂気をはらむ。

ベジータの暴走と残忍性のゆくえ

 コミックス38巻、ベジータは魔導師バビディにわざと操られることで、悪としての自分を取り戻そうとする。そのプロセスは鬼気迫るものである。ベジータは悟空たちの前で、武道会の観客をつぎつぎと殺しはじめる。すべては「悟空と戦うため」である。戦ってくれないなら観客を殺す。悟空はベジータと戦うことを了承するしかない。

 荒野に移動して二人きりになった時、ベジータは悟空に言う。オレは地球でおだやかになっていく自分が気に入らなかった。昔のような残忍で冷酷な男に戻りたかった。バビディに操られることでその願いが叶った。残忍な自分を取り戻すことができた。おかげで今はいい気分だ、と。

 悟空はニヤリと笑って切り返す。

「ほんとにそうか?」

 悟空というのは不思議な人で、ベジータの気持ちに鈍感なわりに、肝心なところではあっさりと本質を突く。悟空はベジータの強がりに気づいている。今のベジータは「残忍な男」ではない。すでにベジータは優しさを知っている。ブルマという女と出会い、トランクスという子を持った。家族の存在がベジータを変えた。悟空はそのことを見抜いているのだ。

サイヤ人の王子ではなく一人の父親として

 コミックス39巻、ついに誕生した魔人ブウに仲間たちはなすすべがない。ベジータはつぎつぎと攻撃をくりだすが、魔人ブウは傷ついた身体を一瞬で修復してしまう。このままではトランクスもふくめ、全員が殺されてしまうだろう。絶望的な状況のなか、ベジータは魔人ブウを倒す唯一の方法を思いつく。全エネルギーを凝縮して自爆することで、魔人ブウをこなごなに吹き飛ばしてしまうしかない。

 自分が死ぬことを知った時、頭に浮かぶ相手がいるか。初期のベジータにはいなかった。「ほしいのにいない」のではない。「そんなものは平気でいない」のである。だからベジータは自分の命すらゴミのように扱うことができた。しかし今のベジータは違う。すでに彼には死の際に思いを寄せる相手がいる。自分の命は自分だけのものではない。自分の死後も愛する者が生きる。

「トランクス、ブルマを……ママを大切にしろよ」

 

(『ドラゴンボール』39巻101p)

 

「ブルマを……」と言ったベジータは、すぐに「ママを」と言いなおす。それは「トランクスの頭の中にあるだろう呼び名」である。この言い換えの自然さに、私はベジータの成長を見る。ブルマという女は、自分にとっては愛する妻であり、目の前のトランクスにとっては大切な母親だ。その関係のなかに自分はいる。関係のなかで、はじめて命は命としての価値をもつ。それを知ったベジータは、もう残忍であることができない。

 ベジータはトランクスに対し、「一度も抱いてやらなかったな」と言う。「本当は抱いてやりたかった」ということだ。それを邪魔していたのは、サイヤ人としてのプライドだろう。死を覚悟したベジータは、サイヤ人の王子ではなく、ブルマの夫、トランクスの父として自己を定義する。だからこそ、トランクスに素直に言うことができる。「抱かせてくれ」と。

 そしてベジータは、自分以外の者を避難させ、魔人ブウもろとも自爆するのである。

 

(『ドラゴンボール』39巻110p)

 

 もっとも、この感動的な場面のあと、魔人ブウはあっさりと復活する。このあたりの展開は、いかにも鳥山明的なドライなものだ。ベジータが強い想いを背負って自爆しようが、勝てないものは勝てないのである。気持ちじゃ力の差を埋められない。それが『ドラゴンボール』という作品の、ミもフタもないところだ。

 初期にあったベジータの残虐性は、こうしてひとつの結末を迎えた。では、中期に芽生えた悟空への劣等感は、どのように着地するのか。

長い片想いの終わり

 コミックス42巻、悟空とブウの最後の戦いがはじまる。激闘を見つめるベジータは、ゆっくりと語りはじめる。そこで語られるのは、ベジータによる「自己分析」である。なぜ自分は最後まで悟空に勝つことができなかったのか。自分と悟空は、いったい何が違っていたのか。

 ベジータの出した結論は、「勝つこと」と「負けないこと」の違いである。

 ベジータには「最強の証明」が必要だった。「オレは誰よりも強い」と証明するためにベジータは戦い続けた。だからこそ悟空を敵視した。ベジータは悟空もまたそのように考えているはずだと思っていた。悟空も自己の強さを証明するために、自分が優れていることを知らしめるために戦っているのだろうと。

 しかし、そうではなかった。悟空はそもそも、「勝つこと」にこだわっていない。ただ「負けないため」に戦っている。そのことに気づいた時、ベジータは「片想い」の理由を知る。自分のライバル心が一方通行にしかならないのは、悟空が自分を軽視していたからではなかった。戦う理由そのものが、自分と悟空ではちがっていたのだ。

 強くあることと、相手を支配することは別だ。作中における「悪」とは、この違いを見失った存在のことである。「力」が「支配」に直結した時、「悪」が生まれる。ベジータが最後に気づいたのは、そのことである。強くあることと相手を支配することは関係がないのだと、誰よりも強くありながら「支配」という発想をまったく持たないのが、自分が勝つことのできなかった孫悟空という男なのだと。

 こうして、長く続いた一方的なライバル関係は終わる。同時に、かかえこんだ劣等感も消える。

「がんばれカカロット、おまえがナンバーワンだ」

 

(『ドラゴンボール』42巻113p)

 

 この言葉は、戦いの渦中にある悟空には届かない。それでいいのだろう。悟空はそもそも「誰がナンバーワンか」など気にしない男だ。この言葉は、ベジータが自分自身のために、言う必要があったものなのだろう。

 その後、ブウに苦戦する悟空に、ベジータは元気玉を使うことを提案する。地球の人間たちからエネルギーを集め、そのエネルギーで魔人ブウを倒せばいい。この戦略は過去のベジータには絶対に浮かばないものだっただろう。ベジータは最後の最後で、すこしだけ「別の戦い方」を身に付ける。もっとも、地球人にたいする頼みかたが異常に下手であるところは、いかにもベジータらしいのだが。

そしてベジータは大人になった

 最終回近く、ベジータはサイヤ人なりに老けた顔で、ブルマの隣に当たり前のように立っている。そして、あれだけ敵視していた悟空に、「おたがい我が子の軟弱ぶりには苦労するな」と自然に話しかけている。これはまさに、ひとつの「成熟」だろう。ベジータは大人になった。ライバルのすごさを受け入れ、妻と子を愛する自分を認めた。そこにもはや、初登場時の残忍な姿はない。

 

とても良い顔のベジータ。(『ドラゴンボール』42巻216p)

 

 最後に、完全版での修正についてふれておく。

 完全版では、コミックス版からいくつか修正されたコマがある。とくに大きな修正は、最終話の最後のコマだろう。コミックス版では鳥山明のコメントが入っていたコマが、完全版では武道会場におけるベジータのつぶやきに差し替えられている。そのセリフは「そのうちかならず勝ってみせるからな、カカロット」である。完全版では、すこしだけ「ベジータらしさ」を取り戻した姿が描かれているのだ。未読の方は、コミックス版と読み比べてみると面白いかもしれない。


ベジータへの想いはマンバにどうぞ!記事の感想やメッセージもお待ちしております。

記事へのコメント
チーパッパチーパッパ

子どもの頃は、ただベジータのカッコよさに惹かれていました。
大人になり完全版を買い揃えて何度も読み直すうちに、子どもの頃に感じていたのとは違う魅力をベジータに感じるようになりました。
今回の記事でも触れられた、ベジータが人間性を獲得していく姿に感動していたのです。
しかし、この度のベジータに関する考察を全編拝読させていただき、改めて自分の感動の理由を認識させてもらえた、という思いです。
なんて魅力的なキャラなのでしょうか。
そして、長く愛読してきたにもかかわらず、長くベジータに魅力を感じていたにもかかわらず、ここまでの考えに至らなかった自分が、少し悔しいです。

とても、良い読み物でした。

上田啓太さんによる、大人気シリーズ “『ドラゴンボール』に登場するベジータについての考察” 後編。これまでの考察については「前編」「中編」をどうぞ。
ベジータに関する話の後編である。
前編では、残忍な男として登場し、あらゆる命をゴミのように扱う初期ベジータを見た。そして中編では、悟空に敗北したことで劣等感をかかえ苦悩するベジータを見た。
今回は、作中最後のシリーズである魔人ブウ編を見てい... 続きはこちら 

記事の感想はコメント欄にどうぞ!

島耕作君に届け、桜木の恋とバスケット、とても面白かったです。ベジータについての3部作は圧巻でした。深い洞察と愛に、ドラゴンボールもベジータもあんま知らんおばちゃんさえ涙しそうになりました。上田さんのベジータ愛に完敗です。もっと他のマンガの話も読みたいなあ。更新お待ちしてます!

後編のタイトルを見かけて約一年、ずっとブラウザで開きっぱなしにして読むのを楽しみに取っておいたのですが、前中後編まとめて読みました!ベジータの執念を愛してる自分に最高の記事でした。前編の保身をしない、という観点は目からウロコでした。そうだだからかっこいいんだ。これからもベジータを好きなこと、誇らしく思って生きていきたいと思います。

ベジータにはサイヤ人再興
とぃぅ王族の責があり。
悟空には其れが無かった。

正式な王の嫡子として生まれた
ベジータと傍系から生まれた
悟空、だがしかし始祖の王、
サイヤの血を濃く受け継いだ
のは、
同じ初代、悟空だったト。

ずっと楽しみにとっておいて、後で読もうと思ってたアラフォーです。ありがとう。面白かった。ベジータが何故死んだのか、が分からなくてヲタクになったといっても過言ではない人生。紆余曲折の末に田口淳之介くんのファンになり、今絶望の淵にいる。ベジータファンらしく(?)一途なファンです。そんな夜に、ふとまた記事に出会って前中後編を読みました。私、ベジータが自爆したジャンプを読んで泣きわめいた高校生の頃からある意味変わっていない…でもベジータは大人になった。成長した。だからなんとかなるかもしれないと思った。もし気が向いたらKAT-TUNという漫画も読んでみてください。漫画にはなってないんだけど。

「おまえには負けない!」「オレが勝つ!」
このやうな科白は幾千万ものシィンで見聞き致しまするが似ていて非ず総局にあるやうにわたくしは思ふのです。
真実(ほんとう)にツヨイのはだぁれ。
それは(愛の)言霊。
森羅万象。
理。
そなたの文才もまた然り。
我の生きる糧となる有難き説法であるのです。

大人になったというより、単に極悪人だった奴が人並みの幸せを手にしただけではないでしょうか。
それってそんなに美しい感動的なものでもないでしょう、こち亀の両さんもそう言ってましたし。
初期の残酷なベジータが大好きだった私は正直中期・後期の無様なベジータは見るに堪えないです。
あんな風になるならナメック星編までで終わりにしておけばよかったのではないかといまでも思います。

遅ればせながら、最近再燃した者です。
私は後期に当たるブウ編でベジータを好きになりましたが、サイヤ人の戦士らしく荒々しいところ、自爆前に不器用な家族愛を見せたところ、ライバル視していた悟空を認めるところ、そのバランスが絶妙で個人的には一番魅力を感じます。
その上で悪役だった前期の、他者は勿論自分自身にも情けをかけないところも魅力的だと再認識しました。
中期は確かにドヤ顔でスーパー〜と調子に乗り過ぎだし、やらかしも多くて当時の人気投票で順位が下がったのも頷けます。
(中期以降のベジータに魅力を感じない人の気持ちもわかります。原作から離れますが、アニメ続編はネタに振り切りすぎてもっと正視できません)
でも、ベジータは全編通して心身を追い詰められても(または自ら追い込んでも)闘い抜くキャラだと思います。口の悪さも相変わらずですが。

コメントを書く

おすすめ記事

コメントする