残忍だった頃のベジータの圧倒的キャラ立ちについて

残忍だった頃のベジータの圧倒的キャラ立ちについて

 ベジータについてならばいくらでも書ける。そんな確信がある。

 孫悟空については書けない。孫悟空は空白だからである。内面がないからである。無について何かを書くことはできない。しかしベジータについては書ける。ベジータほど作中において変化していった人間はいないからだ。その変化を追っていくだけで文章は生まれる。

 

(『ドラゴンボール』22巻p.131より)

 

 我々はベジータのことを何だと思っているか? 妙なハゲ方をしたサイヤ人だろうか? そうかもしれない。しかし今は髪型にはふれない。私が考えるのはベジータという男の内面である。そのためにベジータを前期・中期・後期に分ける。

 それはベジータが「人間性」を獲得していく過程である。しかし焦るのはよそう。とりあえず今回の記事では前期だけを扱う。作中でいえばサイヤ人編における初登場からフリーザ編中盤あたりまでのベジータ。この時期のベジータには一切の「人間性」がない。それが圧倒的なキャラ立ちを生んでいる。

前期ベジータの口の悪さ

 この時期のベジータは、圧倒的な口の悪さでも特徴付けられる。たとえばコミックス25巻162ページの小さなコマ。ドラゴンボールで生き返ったピッコロが悟飯とクリリンを助けにきた時の発言を見よう。目立たないが前期ベジータを象徴するセリフだと考える。下線部は私が勝手に入れた注目ポイント。

「ちっ… だれかとおもえばオレたちが地球でぶっ殺したヤローか…! そうか…くそったれが…ドラゴンボールでなにをたのんだかとおもえばこんな役にもたたねえカスを生きかえらせやがって…」

 たった1コマでここまで人をボロクソに言えるのかと感動する。とにかくどこを切っても罵倒しかない。

 

ベジータの口の悪さにクリリンもドン引き。(『ドラゴンボール』25巻p.162より)

 

 まずは「オレたちが地球でぶっ殺したヤロー」としてピッコロを定義。これは説明と罵倒を兼ねた名ゼリフ。クッションがわりの「くそったれ」を挟み、「こんな役にもたたねえカス」とダメ押しの一言。神経をさかなですることしか言ってない。現代のネット空間に流せば二秒で炎上する。しかしこれがベジータなのだ。

 考えてみればコミックス19巻、ナッパが天津飯の腕をもぎ取ったのを見た時のベジータもひどかった。「もろいやつらだ」と血も涙もない感想を述べていた。あれは本当にどうかと思った。人の腕をもぎ取っておいて、もろさを笑う。やはり二秒で炎上する。ミラーニューロンはどこに忘れてきた。

とにかくいつ見ても口が悪い

 コミックス22巻にもひどい発言がある。ここでベジータはナメック星人たちの村を発見する。さっそくベジータはドラゴンボールを渡せと迫るが、長老に拒絶されてしまう。

「帰るがよい………ドラゴンボールをわたすわけにはいかん…おぬしには邪悪なものが感じられる…」

「じゃあ 死ね!」

 とにかく突き抜けるほどに口が悪い。「じゃあ」から「死ね」につながることありますか。ナメック星人サイドは渡せない理由を喋っているのに、ベジータが返すのは身もふたもない五文字。コミュニケーション不成立。そして次のシーンでは実際に村人たちを殺している。本当にムチャクチャ。やってることが信じられない。善悪の観念がパッカパカ。

 

この話の通じなさ!(『ドラゴンボール』22巻p.96より)

 

 前期ベジータは「共感」や「気遣い」と無縁である。まさに戦闘民族たるゆえんだ。相手を殺す以外の発想がない。だからこの男に戦闘以外のことはできないだろう。この時期のベジータに市役所職員はできない。カフェ店員もできない。編集者もできない。

「本人確認書類を忘れてしまったんですが」「じゃあ、死ね!」

「すみません、ドリンクをこぼしてしまいました」「じゃあ、死ね!」

「原稿が少々遅れそうでして……」「じゃあ、死ね!」

 何だろうが即座に「死ね!」という結論に至る。そこに話し合いの介在する余地はない。それが戦闘民族の論理なのか。

前期ベジータは何だろうと平気で殺す

 前期ベジータはとにかく平気で人間を殺す。それどころか、部下の栽培マンも殺すし、仲間のナッパすら殺す。助けを求めたナッパに対するベジータの無慈悲な一言を記憶している人は多いだろう。

「動けないサイヤ人など必要ない!!!」

 まさに前期ベジータを代表するセリフだ。本当に口が悪い。しかし私がしびれるのは、ベジータがこの考え方を自分自身にも適用しているところである。それはコミックス24巻、対リクーム戦を読めば分かる。

 

リクームとベジータの戦い。(『ドラゴンボール』23巻p.150より)

 

 ベジータはリクームの前に歯が立たない。クリリンと悟飯も手も足も出ない。もはやベジータは瀕死の状態だ。リクームはベジータにとどめをさそうとする。その瞬間、悟飯はベジータを救出し、クリリンはリクームに攻撃を加えた。不意打ちは成功した!

 しかし助けられたベジータは「おまえたちの甘さにはヘドがでる」と二人を罵倒するのだ。これは照れ隠しではない。ベジータは本気で言っている。瀕死の自分を助けるくらいならば、二人でリクームを攻撃するべきだった。これがベジータの価値観だ。なぜか? 自分はもはや「動けないサイヤ人」だからである。

 動けないサイヤ人など必要ない。たとえ自分自身でも。すなわちベジータには「保身」もない。自分すら無用となれば切り捨てる。この徹底ぶりによって、ベジータは単なるクズではなく、「地球人とは別の行動原理を持った魅力的な男」としてキャラ立ちした。私は、前期ベジータを愛している。

前期ベジータの格好よさと、その終わり

 フリーザ編序盤、キュイ、ドドリア、ザーボンを次々と撃破していく時のベジータは格好いい。そこにいるのは単なる傲慢な男ではなく、自分の強さと相手の強さを計りながら生き延びていく男だからだ。

「俺はこれだけの強さになった。今ならあいつに勝てる」と常に計算していく。「闘争」と「逃走」を使い分ける。その底にはサイヤ人としてのプライドがある。プライドを知性によってコントロールするのも前期ベジータの魅力である。

「へっ! きたねえ花火だ」

 罵倒芸も冴えわたっている。爆発したキュイを見た時の有名な発言である。これはもはや挑発ですらない。たんなる感想だ。個人の感想がそのまま罵倒にもなっている。それがベジータである。

 そしてこの魅力的なベジータは、やはり、フリーザ戦で涙を流したときに終わったのだと思う。ベジータは泣きながら、殺されたサイヤ人たちのカタキを取ってほしいと悟空に頼んだ。かくして「ベジータらしさ」は崩壊し、前期ベジータの物語は終了した。

 中期以降のベジータを特徴づけるのは、孫悟空への強いコンプレックスと、徐々に芽生える「人間らしさ」である。しかしとりあえず今回はここまで。平気で残忍だった頃のベジータに乾杯。

▼ベジータについての考察「中編」へ

記事へのコメント

ダークヒーロー 輝いてたベジータですね
3編で分けるのは確かになるほどと思いました
ブウ編であの頃に戻りたかったという気持ちも半分本当というのが分かります

「汚ねぇ花火だ」は今思えば
「花火」がなんたるかを認識してないと言えないセリフであり
見たことがある…はず。
戦闘民族サイヤ人が花火を作ってあげるというのは文化的にない気がする。
となると…フリーザの元でなんかのお祝いか祭りとかで花火文化があったと言うこと?だろうか…

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