グルメマンガを読んで食欲をそそられる。よくあることだ。作中に登場した料理を見て、「自分も食べてみたい!」と読者が思う。これはグルメマンガとして「成功」だと言える。
さて、それよりはマイナーだが、私が個人的に好きなものとして、バトルマンガの「修行欲をそそる描写」がある。仕組みはグルメマンガと同じである。登場人物がきびしい修行によって成長していく。その過程をみた読者は興奮しながら思う。
「俺もこの修行がしてみたい!」
そう思わせられれば、これもやはり「成功」なのである。
この記事で扱うのは、冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』である。この作品を読みながら、「修行欲をそそる描写」とは具体的にどのようなものなのかを見ていきたい。
修行シーンの二種類
『HUNTER×HUNTER』における修行シーンとして、グリードアイランド編の序盤が挙げられる。ここではゴンとキルアが修行によって少しずつ強くなっていく。その内容は冨樫義博らしいロジカルなものである。これはかなり良いものである。
しかし、私がもっとも修行欲をそそられるのは、何といってもキメラアント編で描写された「ネテロの過去」である。ネテロとはハンター協会の会長であり、キメラアントの王であるメルエムをして「個の極地」と言わしめた男である。作中における「人類最強の男」だと言ってもいい。そんなネテロの若き日の修行が、10ページに渡る回想として描かれるのだ。
ネテロの修行シーンにおける修行欲のそそりかたにはすさまじいものがあり、私は読むたびに、「俺もこの修行がしてみたいッ……!」と悶絶させられている。
グリードアイランド編でのロジカルな修行シーンを「ウンチク系グルメマンガ」とするならば、ネテロの修行シーンは「ハッタリ系グルメマンガ」である。前者は、データや知識を利用して食欲をそそる。しかし、後者はとにかくインパクト勝負。分厚いステーキをドカンと描写し、肉の焼けるジュージューという音や大量にあふれだす肉汁によって、暴力的に読者の食欲をそそるのだ。
ネテロの修行はどのようなものか
ネテロの修行シーンは次のようにはじまる。
ネテロ、46歳、冬。
私なんかは、すでにこの見開きだけで修行欲をそそられるが、これはまあ、パブロフの犬のようなもの。何度も読み返しているからこそ起きる現象だろう。「ネテロ、46歳、冬」。名前、年齢、季節とシンプルに並べただけで、こんなにもぞくぞくさせられることがあるか!
しかし落ち着こう。まだ何もはじまっていない。ここから本格的にネテロの修行が描かれる。修行欲を刺激するすばらしいナレーションの数々を引用しながら、具体的に見ていきたい。
己の肉体と武術に限界を感じ
悩みに悩み抜いた結果
彼がたどり着いた結果(さき)は感謝であった
限界を感じるところからはじまっている。ここでまず、ぞくぞくする。やはり限界を感じるところからはじめたいじゃないか。悩みに悩み抜くところからはじめたいじゃないか。修行といえば苦悩、苦悩といえば修行。さすがは冨樫義博。的確につぼを突いてくる。
ネテロが苦悩の先にたどり着くのは「感謝」である。苦悩の果ての感謝。ぞくぞくする。私の心の胃袋はすでに修行をもとめてグウグウ鳴っている。ネテロは何に感謝したのか。「自分自身を育ててくれた武道」に対してだ。そしてネテロの編み出した修行法がたまらない。
一日一万回 感謝の正拳突き!
この圧倒的なわかりやすさが、グルメマンガにおける「分厚いステーキ」なのである。こまかい理屈は要らない。とにかく一日一万回、正拳突きをすればいい。正拳突きがどんなものかはだれでも想像できる。「一万回」のインパクトも瞬時に理解できる。これを読んでいる自分だって、やろうと思えばいますぐ正拳突きができるのだ。もしかして、それだけでネテロのようになってしまうのか!
苦悩の果てに感謝にたどり着き、感謝の果てにシンプルな修行法が出てくる。この点も非常にぞくぞくする。なにが興奮するって、達人が基本の型に戻りはじめたときほど興奮することはないでしょう!
気を整え 拝み 祈り 構えて 突く
一連の動作を一回こなすのに当初は5-6秒
一万回を突き終えるまでに
初日は18時間以上を費やした
こまかく数字を出してくる。感謝の正拳突きはとても時間がかかるのだ。18時間、すなわち睡眠以外のすべてである。このあたりで私の口にはよだれが充満している。自分もはやくこの修行がしてみたい! もう十分に修行欲は刺激された!
しかし、冨樫義博はまだまだ手をゆるめない。
突き終えれば倒れるように眠る
起きてまた突くを繰り返す日々2年が過ぎた頃 異変に気付く
一万回突き終えても 日が暮れていない
このあたりで私は「冨樫ずるいよ」しか言えなくなっている。次々と修行欲をそそるフレーズを打ち込んでくる。「倒れるように眠る」にそそられる。「起きてまた突くを繰り返す日々」にもそそられる。すでに修行欲で心がパンパンだ。はやく俺もこの修行がしたい。毎日正拳突きするだけの生活がしたい。そして2年過ぎたあたりで異変に気づきたい!
齢50を越えて 完全に羽化する
感謝の正拳突き一万回 1時間を切るかわりに 祈る時間が増えた
最後の着地点まで完璧なんだから、たまらない。きびしい修行の果てに何が起きたか。「祈る時間が増えた」のだ。そうこなくっちゃ、と思わされる。それこそが修行だ。俺だって、最終的に祈る時間を増やしたいよ!
モブキャラまで修行欲をそそってくる
その後、ネテロは山を下りて道場破りに行く。そして男たちの前で正拳突きを披露する。「ネテロの拳は音を置き去りにした」というハッタリのきかせかたも最高だ。
しかし、ここではなによりも道場破りをされた館長がよい味をだしている。ネテロの正拳突きをみた瞬間、館長は戦うまでもなく敗北を確信し、涙を流して土下座するのである。館長は言うのだ。「ネテロの背後に観音さまが見えた」と。
全国のトレーニング・ジムは、こういう男をさりげなく館内に配置しておくべきじゃないのか。ダンベルを持ち上げた自分をみて、涙を流しながら「観音さまが見えた」と言ってくれる男。それだけで、全国の男たちの修行欲は際限なく刺激されるはずだ。
こうして、10ページに渡るネテロの回想は、館長の号泣を経て、「怪物が誕生した」という一文でみごとに終了する。いやあ、最後の最後まで最高ですね。怪物が誕生しちゃいましたよ!
マンガと現実のちがい
修行欲をそそられた私はコミックスを閉じる。
そして、さっそく部屋で感謝の正拳突き一万回をしてみるわけだが、まあ、いちおう言っておくと、運動不足の人間がこれをやると一回目の正拳突きで骨と関節に異常な違和感を覚えるのでやめたほうがいいです。一万回というか一回です。一回で肉体にガタがきます。慣れない人間が本気の正拳突きなんかするもんじゃない。
ということで、修行欲をそそられることと実際に修行することは別物なんですが、そこはまあ御愛嬌ですね。修行欲をそそられるのは本当によいものです。ちなみに、「かわりに祈る時間が増えた」のほうは簡単にできましたよ。私の祈りはサボリと見分けがつかないのが難点でしたけど。