——今回は、ありま先生の初期麻雀漫画『御意見無用』がこのたび、KADOKAWAさんのヒューコミックスから40年ぶりに復刊されたということで、インタビューをさせていただきます。これ、最初の掲載誌は『近代麻雀オリジナル』(竹書房)じゃなくて『スポコミ』(一道社※1)ですよね。作品タイトルも「苦労賭けます」で。
※1 81年6月号創刊。一道社は元『少年画報』編集長・金子一雄氏が経営していた会社で、70年代は編集プロダクションとして活動していたが、この年で会社解散。
ありま そう、出してた会社がすぐ潰れちゃったんですよね。
——2号くらいで。
ありま 「創刊号」「廃刊号」みたいな。「何だ、せっかく描いたのに」って思ってたら、竹書房の方で「うちでやりましょう」って言ってくれたんです。この作品のおかげで今があるようなものかもしれないですね。私はデビュー自体は早かったけど(※2)、ネタを考えるとかなんとかそんな経験がなかったので、すぐ行き詰まりました。漫画描くことだけに興味があって田舎から出てきたけど、「絵が上手ければなれる」と思ってたのがとんでもない間違い。17でデビューして自分のバカさ加減に気がつけたのが一番良かったですね。それまで本なんて1冊も読んでなかったんですよ。デビューして、描けばジャンプで買い取ってくれるってなったけど2作しか描けなくて。それから、小説を読むクセをつけるようにしました。でも何の小説を読んでいいのかわからない。当時は横溝正史が流行っていたので、手に取り読み始めたんですが、読み終わるまで苦しかった。それでも読みグセをつけるために、片っ端からいろんな小説を読みすすめましたね。
※2 1971年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された「よい子」でデビュー。このあたりは「あだち勉物語」第2話にも描かれています。
——赤塚さんから「映画を見ろ」と言われたというお話を、『天才バカボンの時代なのだ!』に収録の「真面目に遊んだ日々」で描かれてましたね。
ありま そう。今みたいにレンタルビデオなんてないじゃないですか。ロードショーは見たくても高くて見れないから、毎週土曜はオールナイトで三番館行って3本立てくらいのを見て。しょちゅう見に行ってましたね。
——「あだち勉物語」でも描かれてましたけど、それでデビュー後、あだち勉さんに誘われて赤塚不二夫先生のフジオプロに入って。
ありま そうです。それで、赤塚先生が麻雀打つ時に、後ろで「違う違う、これこれ」とかコーチをやることになって。「代わりにやんない?」「いやいや、こんな高いレートやれないですよ」「負けたら俺が払うから、勝ったら折半な」「わかりました(笑)」って感じで、結構おいしい思いもしました(笑)。だから、古谷(三敏)さんのとこにいたんだけど、麻雀始まると呼び出しがかかってましたね。
——「真面目に遊んだ日々」にも描かれてますね。
ありま そうそう。赤塚先生が電話してきて、仕事の途中でも「先生が言ってるんだから仕方ない」って(笑)
——古谷さんは、この頃だと『ダメおやじ』(※3)の頃ですよね。あとは『マンダム親子』(※4)とか……。
※3 1970〜82年に『週刊少年サンデー』で連載された古谷氏の出世作。ダメおやじこと雨野ダメ助が徹底的に虐待されるブラック・ギャグ作品だったが、後半は作風が変わります。電子書籍版では前半が『元祖ダメおやじ』、後半が『ダメおやじ』のタイトルで配信。
※4 1971〜72年『週刊少年キング』連載。金がありすぎて困っている親子が主人公のギャグ漫画。白木みのるのシャウトが異常に印象的なイメージソング「銭$ソング」が「伊集院光 深夜の馬鹿力」で紹介されたため一部で有名。
ありま 『ドテかぼちゃん』(※5)とか色々やってましたね。結構忙しかった。でも、ファミリー企画も、フジオプロ時代もそうだったんですけど、アシスタントっていうのは待つのも仕事ですから。先生の原稿が上がってくるのに、ヘタすりゃ一日待ったりとかあるわけで。その間、手持ち無沙汰だから、麻雀やったり花札やったりトランプやったりサイコロやったり……。とにかく室内のバクチは全部やったんじゃないかな(笑)。特に麻雀は勉さんですよ。
※5 『マンダム親子』の後に『週刊少年キング』連載。とてつもなく「ブサイク」な顔の少女を主人公としたブラック・ギャグ。
——それは有名な話ですね。
ありま 勉さんが持ち込んでフジオプロに広めて、古谷さんや芳谷(圭児)さん(※6)にも広めていったんですよね。
※6 1937年生まれ。54年に貸本でデビュー後、『りぼん』などの少女誌を中心に活躍。69年にフジオプロ劇画部が設立された際に参加し、74年に古谷三敏と共にファミリー企画を設立して独立。81年にはさらに独立してスタジオ画を設立しました。70年代に発表した『高校生無頼控』『ぶれいボーイ』『カニバケツ』といった小池一夫原作作品が特に有名。
——北見けんいちさんが描かれているフジオプロの実録漫画にも「フジオ・プロの雀鬼」と。「漫画界の屈指の強豪」と。
ありま 強いことは強かったんですんだけど、そんなにめちゃくちゃ強いかって言うとどうだろう(笑)。みんな麻雀やってるから、それなりに腕上がってくるんです。最初のうちはそりゃカモれるけど、そこそこみんながうまくなってくるとあとはツキじゃないですか。どんなにうまい人でもツキがない時は勝てない。勉さんもそういう時は当然あるわけですけど、そういう時は勉さんグレちゃうんですよ(笑)
——(笑)
ありま 本人はもうフジオプロの編集相手やアシスタント相手じゃつまらないって、「相変わらず下手くそ」とか言いながらフリーで雀荘へ打ちに行くことが多かったですね。高田馬場へ無理やり連れて行かれて、よく後ろで見てたんです。
——その頃の早稲田界隈で麻雀打ってた人で、プロや原作者になってた方もいらっしゃいますね。でもその頃は、雀荘もフリーはそこまでおおっぴらじゃない時代ですよね。
ありま そうそう。『御意見無用』にも書いてるんだけど「徹夜殺し」だのなんだのそういう人がいっぱいいたんです。その時のネタなんですよね。まあ自分もその一人のうちですけど(笑)。どうしたんでしょうねあそこの人たちは。変な人達がいっぱいいた。あそこは早稲田の学生で麻雀うまい人が多いんだけど、学生殺しみたいな人がよくいましたね。レートを上げると学生は打ち方が変わっちゃう。学生はお金がないから。
——ああ。
ありま 最初は勝たしといて、「じゃあレートを上げるか」ってそういう例をいっぱい見ましたねえ(笑)。雀荘も、うまい人が集まってるから勝ったり負けたりやってるんですけど、勝った人も次の日負けたってお金持ってない。「どうしたの」って訊いたら、サウナだのソープだの、そんな人ばっかりだから(笑)。結局ない金をどっかでかき集めてやってるって感じでしたね。記憶によく残ってる人だと、山が向こうにある時に女性っぽい手の動きでツモるんで「オカマの〇〇ちゃん」なんて呼ばれてた人がいたけど、この人がイカサマめちゃくちゃうまかった。イカサマをやれなさそうな牌のつまみ方してツモってきながら、牌を河から拾う(笑)。それを勉さんが掴まえて「コラーッ」なんてやった(笑)。
——麻雀劇画の話ですね(笑)
ありま その頃はまだ全自動卓じゃないから、牌をかき混ぜるのも伏せ牌にして対面同士だけでかき混ぜる。脇は手を出さない。それでも積み込みをやるんですよ。どうやるんだっていうくらい凄いのがいるんですよね。いかさま師は結構いた。後ろで見てたときに、ドラもなんにもないどう見てもクズ手なんだけど、親のリーチにバンバン押していく人がいて。何やってるんだろと思って、本人も後ろで見られてるのわかってるからちらっとこっち見るんですよね。で、流局の時に裏ドラをちょろっと見せるんです。そしたら9筒が寝てて、自分は1筒を暗刻ってる。どうやってわかるんだろうって思いました。なんにも言わないでやっちゃう。すごいなあと思ってね。そういうのがいっぱいありましたね。いい大学出て大手銀行員になった人が虜になっちゃって、お決まりの雀ボーイに落ちるとか。そんな人がいっぱいいました。吉沢やすみさんが、アシスタント3、4人連れて来てたのもよく見ましたよ。向こうはこちらを知らないけど向こうは有名な人だから。アシスタントがみんな下手で、負け分を吉沢さんが払うんです。それから十何年かして吉沢さんと会ったときに、「むかし高田馬場の◯◯という雀荘で打ってたでしょう」「なんで知ってるんですか!?」「自分も行ってたので。吉沢さんと打ったこともあるんですよ」「ええっ!?」ってことがありました(笑)。
——吉沢さんのその辺の話は大月悠祐子さんが『ど根性ガエルの娘』に描かれてましたね……。
ありま そうそう、注文して読みました。面白かったですね。
——そういう体験が作品に生かされてるんですね。『スポコミ』での著者コメントでも、「カケルみたいなギャンブラーは、ダメなことは自分で一番よくわかってるんだ。ギャンブラーの悲哀を描きたいんだ」ということを書いていらっしゃいましたね。
ありま そんなこと書いてましたっけ(笑)。まあ、麻雀もそうですし、『連ちゃんパパ』も台よりも打つ人のドラマを描きたかったんですよね。台のことは他の作家さんが描けばいいと思ってましたから。
■『御意見無用』のころ
ありま 麻雀もパチンコもそうだけど、全部勉さんから。拒否できない。拒否してもよかったんですけど、こっちも興味あったから(笑)。「遊びっていうのは、知らないものがあっちゃいけない」というのが古谷さんの教えでしたから。
——それは以前のインタビューでもおっしゃってましたね。
ありま 「娯楽を提供する物書きが娯楽を知らないで、なんで漫画を描けるんだ」って感じで。「なんでもいいから広く浅く、でも深入りだけは絶対するな」って。「25まで描かなくていい。お前たちはもともと絵がうまいからここに来た。絵のうまさってのは仕事やってればそのうちうまくなる。でも中身のアイデアとかは経験だ」と。「だから25までは遊べ。28くらいになったら月刊誌に連載を持てるように、30になったら隔週誌に持てるようになれ。その頃には結婚とかもしてるかも知れない。目標はそこだよ」と。みんな、「描くな」って言われると描きたくなっちゃうもんですが、私の場合は勉さんに付き合わされて25まで遊んでた(笑)。この生活を抜けるため『御意見無用』を描いたんです。アシスタントを長くやると、それが職業になる可能性があるので。
——それは色々なところでよく聞くお話ですね。
ありま 新人の原稿料は当然安い、独立して一人でこなせる量はせいぜい月刊誌一本が限界。アシスタントで給料を頂いてるほうが生活は楽で独立するタイミングが実に難しいんです。また先生も優秀なアシスタントに抜けられても困るのでかなりの高給を払う。こういう事情をお互い承知の上で判断しなくてはいけないんですよね。若い時はお金はない、ないから知恵を出す、その経験が後に利益を生む。こういう話を聞く耳がある人とない人では大きな差が出てくると思いますよ。古谷さんからは「いずれはみんな俺のところ抜けて社長になるんだ。大企業か中小企業かはともかく。どういう企業になりたいんだ」って言われてましたね。古谷さんはそういう事業家みたいな感覚を常に持ってて、いい勉強になりましたよ。ちなみに勉さんはフジオプロの収入の他に学研の連載もあって、お金は持ってましたね。
——ありま先生もファミリー企画時代、「ありゃま猛」名義で学研の、充さんが「ヒラヒラくん」(※7)とか描いてた雑誌に描かれてますよね。
※7 原作:佐々木守。ブレイク前のあだち充氏が、学研『中一コース』で、76〜78年にかけて「ヒラヒラくん青春仁義」「ヒラヒラくん青春音頭」「ヒラヒラくん青春太鼓」と年度が変わるごとに仕切り直して連載していたシリーズ。タイトルは主人公の名前が平平(ひら・たいら)なことによる。
ありま もともと勉さんが学研で描いてたんです。それで充さんも引きずり込んで、そのうち自分も引きずり込まれて、「ずうとるび」(※8)の漫画を描くことになりました。こっちにはなんにも言われてなかったのに始まっちゃう。勉さんが「うん、これはありまに描かせたら」ってなんか言ったんでしょうね。それで、「おい、来週だから」「ええっ!?」って(笑)。ちょうどファミリー企画で、九州に一ヶ月くらい社員旅行兼ねて民宿で仕事するというのをやろうっていうときだったんで「無理」って言ったら、「しょうがねえなあ」って1回目は勉さんが自分で描いてる。2話目からは「これだからな、よろしく」って勉さんからバトン渡されて(笑)
※8 「笑点」の座布団運びで知られる山田隆夫氏を中心に結成されたバンド。74年デビュー、82年解散。2020年に再結成。
——今じゃ考えられないですね(笑)
ありま あと、てらしまけいじ(※9)さんも勉さんが学研に引きずり込んで、これみんな身内じゃないかよって(笑)。古谷さんの手伝いを徹夜で終わらせたら、勉さんが「おい、こっち来いよ」って感じで手伝いに行かされたりと……。
※9 1950年生まれ。70年にフジオプロに入社し、72年にデビュー。75年に独立。作品に、フジオプロ時代の思い出を漫画化した『赤塚不二夫の旗の下に フジオプロの青春』など。
——名前を「ありゃま」にしてたのはなにか?
ありま ちゃんとした連載じゃないし、あまり考えてなくて「ありゃま」とか「あほま」とか色々やってたような気がする(笑) 別にそっちの方に変えようというのじゃなくて。
——ちなみに、「ありま・猛」と中黒が入ってたりすることがあったのは何かあったんでしょうか。
ありま そのへんは編集さんが勝手にやった感じですね。
——なるほど。なにはともあれ、そうして「苦労賭けます」を描かれたわけですね。
ありま 描いたら、「ジャパニーズドリームってあるんだ」と思いました。6社くらいの出版社から話が来るようになった。「へーっ」て思いました。だから、漫画家としてやれると思ったのは『御意見無用』かもしれないですね。こういう方向にして初めてネタの引き出しが出きたなという感じです。
——ちなみに、『スポコミ』って一応スポーツメインという雑誌だったんでしょうけど、そこで麻雀漫画となったのは。
ありま 『スポコミ』って名前だったけど、完全にスポーツオンリーだったわけじゃなくて……考えようによっては、麻雀も頭脳スポーツという感じだったんですかね(笑)
——本作、第1話の、「灯油をお兄さんの家に撒く」というシーンはすごいインパクトがありました。
ありま 今回『連ちゃんパパ』がバズって、「邪悪」「飲みやすい猛毒」「サイコパス」等といろいろ煽られていますが、この類の作品は『御意見無用』と『連パパ』2点だけなんですよね。どうして描いたか? 自分はプロの漫画家だと思ってますからね。大工さんが家を建ててと言われて「この設計、気に入らないから作らない」とは言えないでしょう。描くんだったら徹底的ですよ(笑)
——このあたりのブラックさは、最初の頃の『ダメおやじ』とか、ファミリー企画の系譜という感じもありますね。
ありま これのネームを古谷さんに見てもらった時に「面白いね。ここはもうちょっとこうやったら」みたいに言ってもらって。やっぱり古谷さんの影響下にいたから考え方もそうなってたんですね。まだどういうのが描きたいという確固たるものもなくて、手探りでしたたから。
——灯油のシーンは本当インパクトがあって、最初読んだとき表紙の絵柄からは想像つかないと思いました。
ありま このネタやるんだったら今の絵で描いてみたいですね。この頃の絵は見たくもない(笑)
——漫画家さんはそういう、昔の絵を見たくないという方多いですね。
ありま このシーンがガソリンってネットで言われてるけど、自分では灯油のつもりなんですよ。ガソリンならライターつけたとたんにドカンじゃないですか(笑)
——ですよね(笑)。私はガソリンスタンドで灯油買ったというシーンなんだなと読んでいました。
ありま みんなガソリンだと思ってる(笑)
——あと私は、4話の、「子供が生まれたのを機に麻雀やめる」って仲間に言ったテッちゃんがわずか2コマで約束を破ったエピソードとかが好きで。
ありま どんな話でしたっけ。絵が本当見たくない(笑)
——ちなみに、声をかけたという竹書房の編集さんは尾沢(工房)さん(※10)ですかね。
※10 1956年生まれ。明大漫研卒業後に竹書房へ入社し、80年代前半の『近代麻雀オリジナル』編集長として片山まさゆき『スーパーヅガン』(本作の作中に登場するキャラ「尾沢竹書房」は彼がモデル)、かわぐちかいじ『プロ』などの作品を送り出したほか、読切でつげ忠男や安部慎一などが掲載されるなど野心的な誌面を作っていました。『風の谷のナウシカ』を読んで感嘆し、徳間書店を通じて宮崎駿に執筆を依頼するも断られたというエピソードも。その後は竹書房を退社し、フリーの編集者兼デザイナーとして竹書房の漫画に深く関わり続けました。漫画家としても『ガロ』『漫画アクション』などに掲載作があり、まとめたものを同人誌として発売中。
ありま あっ、そうでした。知ってるんですか。
——尾沢さんにはインタビューに行ったことありまして。麻雀漫画の歴史的にも非常に重要な方ですので。
ありま 尾沢さんはいまどこに?
——竹書房辞められてからはずっとフリーで編集・デザイナーをやられてます。この頃は明大漫研出たてなのにすぐ編集長になって、雑誌を新しく変えようとしてた頃ですね。
ありま 竹はしょっちゅう編集長が変わってたから。有名でしょう。
——そうですね。80年代の竹は本当に、大学漫研を出たばっかりの人が上がいなくなってすぐ編集長になるという環境でしたそうですから。そういえば、竹書房版の『御意見無用』単行本の著者紹介ページで「フィリピン通でタガログ語を話せる」と書かれてますが……。
ありま ここで書かれてるのが広がって、ネットで色んな事めちゃくちゃ言われて……(笑)
——すみません、ネットに上がってるこの画像の元、私のtwitterですね……。
ありま 「よく見つけてきたなー」と思ってました。あなたが犯人ですか(笑)
——私以外でこの単行本持ってるという人、今まで一人しか会ったことないですね。国会図書館にもなくて、明治大学現代マンガ図書館が唯一収蔵してるくらいですし……。
ありま 持ってる事自体が不思議だから見てびっくりしましたよ。私も人に貸したまま返ってきてないから持ってない。
——『御意見無用以外』もこの頃の近代麻雀コミックス自体が少ないですね。よく見かけるのは片山まさゆきさんの『スーパーヅガン』とかわぐちかいじさんの『プロ』くらいで。
ありま かわぐちさん、あとはほんまりうさん(※11)とかがメインですよね。あと当時といえば北野英明さん(※12)。
※11 1949年生まれ。明大で1年先輩のかわぐちかいじ氏の絵を見て漫研に入部し、かわぐち氏に漫画を教えてもらったという経歴を持つため、画風が似ています。筆者はこの人のめちゃくちゃファンでして、80年代に『近代麻雀オリジナル』で連載された『よんぶんのさん』(麻雀漫画史に残る傑作)をはじめどれ読んでもだいたい面白いと思っているのですが、中でも最大傑作である青春漫画『息をつめて走りぬけよう』が今年に入ってついに電子書籍化されたので、これはもう皆さん読んでいただきたい。
※12 1941年生まれ。手塚治虫門下であり、アニメーターとしては『どろろ』の作画監督などを務めました。70年代に入ると麻雀劇画というジャンルの開拓者となり、70年代麻雀漫画雑誌のほとんどで表紙を飾る売れっ子に。現在、麻雀関係者や虫プロ関係者のどなたに聞いても行方が知れない状態となっているため、連絡先をご存じの方がいたらぜひ筆者に教えて下さい。
——尾沢さんが、北野さんメインからかわぐちさんとかの新しい世代に切り替えた感じですね。ちなみに北野さんはいま全く行方がわからなくて……。でも、当時の近代麻雀系列の連載って全部単行本になってたわけじゃないですから、やっぱり『御意見無用』も結構評判があったから単行本になったんですよね。単行本ラインナップ見ると、かわぐちかいじ・どおくまん・片山まさゆき・山松ゆうきち(※13)・ありま猛と並んでますし。
※13 氏については筆者が以前書いた『ヴァラナシの牙』の記事を読んでください。
ありま 山松さんは競輪もよく描いてましたよね。あの人もギャンブラーで全国回ってたような人でした。
——インドにも行きましたしね。
ありま インド?
——仕事がなくて困ってた頃に、インドで日本の漫画を翻訳すれば売れるはずだと考えて、英語もなんにもできないのにインドへ行って、平田弘史先生の『血だるま剣法』を翻訳して売ったけど全然売れずに帰ってきたという……。
ありま (笑)
——話を戻しまして、タガログ語を話せるのは本当なんでしょうか。
ありま 話せますよ、日常会話なら。フジオプロの社員旅行で何回かフィリピンに行ってた頃に覚えたんです。そういえば、香港、フィリピン、タイなどでも麻雀はやりましたね。向こうはゲタ牌なんですよね。
——あの大きいやつですね。
ありま ルールがぜんぜん違うから何が役なのかわからない。点棒もないし、花牌は入ってるし。ルールは最後までよくわかりませんでした。ゲタ牌のルール分かります?
——私も中国の政府認定の国際公式ルール(※14)は分かりますけど、四川とかの地方ルールはうっすらと知ってるというくらいで打つのは無理ですね。
※14 一般に「中国麻将」「ちゅんま」などと呼ばれるルール。中国政府の公認ルールですが、プレイ人口は実のところそれほど多くない(最近は「雀魂」とかもあるし、日本式のプレイ人口の方が多そうな気も)。日式との違いとして、「リーチやドラ、フリテンが存在しない」「点数の計算方式が違う」「役の数が多く、点数もある程度難易度に応じたものとなっている(例えば三暗刻は日式だと対々和と同じ点数だが、ちゅんまでは2倍以上の点)」「和了るための縛りが日式の2〜3翻程度に相当するため、役牌ポンや平和のみでは和了れず、三色や清龍(日式で言う一気通貫)を軸に狙っていくのが基本戦略となる」などの点があります。筆者は鳴いて手作りするの大好き人間なため日式よりこっちの方が好きだったりするので、雀魂で実装してくれないかなーと思っています。
ありま 中国の麻雀は料理と一緒で、場所によって全然別のゲームですもんね。まあ日本でも関西だとツモ平和なかったりしますもんね。
■その他の作品について
——私、『そこそこ草野球』の原作をやられた東史朗(※15)さんにもインタビューに行ったことがあるのですが。
※15 1943年生まれ。『地獄の戦鬼』(作画:前田俊夫)のようなハードな作品から『バンザイお料理パパ』(作画:やまだ三平)のようなほのぼのしたものまで幅広く手掛けている原作者。本名の西脇英夫名義では『キネマ旬報』などで映画評論を長年執筆してもいます。
ありま 東さん、藤みき生(※16)さんとよく組んで描かれてましたよね。藤さんはああいう料理描かせるとうまいから。
※16 1957年生まれ。82年にデビュー後、『味なおふたり』『釣ったら食わせろ!』(ともに原作:東史朗)などの料理漫画や釣り漫画などを多く手掛けています。ありま氏とは『つりコミック』誌上で長年同時に掲載されていました。
——ありま先生のも『道連れ弁当』の弁当とか美味しそうですよ。
ありま アシスタントさんの力です。懐かしいね。
——これはどういった経緯の企画で。編集サイドからの要請でしょうか。
ありま そうです。「駅弁物をやらないか」って。きり・きりこさんはもともと仮面ライダーだったかなんかの特撮のシナリオを書いてた人で、漫画原作の人ではなかったですね。きりさんが弁当を実際に行って食べて、その土地のパンフレットとかも集めてきて、それをもとに私と編集で打ち合わせして話を作っていた感じでした。
——もう今はないような駅弁も多いですね。第一話の高崎駅からして、「だるま弁当」や「まいたけ弁当」は今もありますけど、「上州の朝がゆ」は先日なくなりましたし。1巻収録だと軽井沢駅の「ゴルフ弁当」とかももうないですしね。
ありま そういう意味では結構貴重な資料になってるかなとも思いますね。
——そう思います。駅弁漫画のまさに草分けですしね。これ以降はいくつかそういう漫画も他にありますけど。
ありま あと、弁当だけだとつまらないかと思って、主人公の設定に「弁当の取材にかこつけて各地のギャンブル場へ行く」というギャンブル要素を入れました。
——実際、「競輪の旅打ち」とかやってる人っていますもんね。私、鉄道マニア(※17)でもあるんで、この作品はすごく楽しく読ませていただいたんですよ。
※17 筆者、kashmir氏の架空鉄道漫画『てるみな』の単行本幕間コラムを書いていたり、『本の雑誌』で「鉄道書の本棚」という鉄道書書評連載を始めたりしてますんで、そちらもぜひよろしくお願いします。ちなみに一番好きな駅弁は、小淵沢駅の「高原野菜とカツの弁当」です。
ありま そうなんですか。しかし今じゃ、弁当も高くなってますもんね。これの連載の頃は1000円出すといったらかなりの弁当だったけど……。
——いまは1000円以上のばっかりですしね。昔のようにホームの立ち売り(※18)もほとんどなくなりましたし。
※18 はるか昔は、駅弁の入った木箱を肩から下げた駅弁売りが停車中の列車の乗客に売りに行く「立ち売り」というのが定番でした。現在では北九州市の折尾駅などごく限られた駅にしか残っていません。なお、アダルトビデオなどで「駅弁スタイル」と呼ばれる体位の名称は、この「立ち売り」に似ていることが名の由来です。
ありま 北海道なんかはちょっとだけ一緒に取材に行ったことあります。函館行って、森駅のいかめし行って、長万部に行って。そうしたら森駅でホームにそんなに売ってない。デパートの物産展とかのほうがメインになってるって聞きました。
——そうですね。昔みたいに特急の窓も開かないし、長時間停車もないですからね。
ありま 『道連れ弁当』は結構いい作品だと思うから、電子書籍とかでもっと読めるようになってほしんですけどね。『御意見無用』よりこっちを復刊してほしい(笑)。『御意見無用』、ネタはまあ面白いかなと思うんですけど絵が下手すぎて(笑)。描き直せるなら描き直したいくらいです(笑)。『道連れ弁当』は『船宿 大漁丸』『ほっこりゴルフ屋さん』とかとともに、自分でも好きな作品ですね。『連ちゃんパパ』もそうかな。あとにもまだあるはあるけど、長期でやってたというのもあるので。
——私は『きっといつかは幸福寺』も好きなんですよね。私の知り合いの中でも、読んで「いい話だ……」と感動してた人が多いです。あれ『連ちゃんパパ』とちょうど同じ頃の作品ですよね。
ありま あれ2巻で終わりですよね。最後の終わり方どう思いました? 違和感なかったですか?
——もしかして、あのあとまだ未収録があるんですか。
ありま そう。1巻分くらいはあるんじゃないかな。
——それは残念です。幸福寺の、バクチ仲間が死んじゃったのをみんなで弔う話とか大好きなんですが。
ありま そうなんですか。自分で描いたのあんまり見返さなくて……(笑)。でも『幸福寺』も自分でも結構好きな作品ですね。あと『歓迎たけや旅館』も……。
——あれもいい話ですね。
ありま あの話はほとんどモデルがいるんです。
——あっ、そうなんですか。
ありま 最初はスナックのマスターで、田舎に帰って老舗旅館に勤めたって人がいて、「◯◯の役になった」なんて連絡を送ってくるから「本当か?(笑)」っておどかしに訪ねていったら、本当に老舗旅館だったんです。役は嘘だったけど(笑)。でも最終的に常務まで行ってましたね。
——本当に漫画のとおりですね。
ありま 旅館の名前とかは変えましたけど、外見はそこが完全にモデルだから、見る人が見たら「ここだ」って分かっちゃう。長野県知事御用達の、サマランチIOC会長が泊まるくらいのところ。それで、売店で『たけや旅館』の単行本を売るってことになっちゃって、結構はけたって聞きました(笑)。『たけや旅館』でも描いた主人公像として、ポジティブ、どんな目にあってもくじけないっていうのがあったんですよね。まあ『連パパ』の場合、依存症は依存症として描いたから、くじけないってのが合わさって余計不気味になっちゃったかなというのがありますけどね(笑)
■ファミリー企画、フジオプロの人たち
——芳谷さんが描かれてた、当時のファミリー企画の実録漫画があるのですが……。
ありま よくこんなの持ってますね。確かにここ麻雀部屋でした。
——ファミリー企画でボクシングの試合でどっちが何Rで勝つのかに描けてたというの、この「有馬」が当時のありまさんですよね。
ありま 凄いな、これみんなそのとおりの名前じゃない。みんないたスタッフですよ。
——「野島」は原作者の野島好夫さん(※19)ですよね。
※19 プロフィールが1948年生まれとなっている書籍と1950年生まれとなっている書籍あり。アニメーター、漫画家、漫画原作者を経て、90年代以降は主に架空戦記小説のジャンルで活動。
ありま もともとは漫画家だったんですよ。それで「どっちかといえば原作のほうが向いてるんじゃない」と芳谷さんが言ったんです。
——「一ノ瀬」は一の瀬正さん(※20)ですかね。『雷電』の。
※20 1950年生まれ。初期は「一ノ瀬」表記でしたが現在は「一の瀬」表記。後の絵ではあまり面影が見られませんが、初連載の『雀鬼千羽鶴』(原作:速水駿)などは芳谷絵の影響が見えます。現在も『漫画パチンカー』で連載が続いている『雷電』(原作:北鏡太)は、連載30年に突入(当初は『パチンカーワールド』連載)したパチ漫画界の最長不倒。
ありま そうそう。いまだに連載続いてますね。
——初期作品が芳谷さんの絵に似てるなーと思ってたんでファミリー企画出身かなと思ってたんですが、やっぱりそうだったんですね。「人見」は人見恵史さん(※21)ですかね。
※21 1954年生まれ。古谷氏の流れをくむデフォルメの効いた作画が特徴。代表先に『コンビニいちばん!!』(原作:末田雄一郎)など。
ありま そうそうそう。しかし今だったら描けないでしょうこんな漫画。ボクシングで賭けやって(笑)
——「フィクションです」ということになってますから(笑)。それにしても、フジオプロ自体もそうですけど、ファミリー企画もアシスタントからちゃんと独り立ちした方が多いですよね。
ありま 今このへんで頑張ってるのは北見さん、人見さん、一ノ瀬さん。赤塚さんのところで言うとしいやみつのり君(※22)、あと峯松(孝佳、※23)か、あとてらしま(けいじ)さんがたまに描いてる、そんな感じじゃないかな。フジオプロは人の出入りは多かったですね。スタッフいっぱいいて。よその先生のところで「あれは使えないな、変わってて。何考えてるかわかんない」って断ったって人の話を聞いて、どういうところが変わってたのか聞いてみたら、「ああ、それだったら、フジオプロ来たら変わってるってだけでOKだよ」って、そういうところでした(笑)。先生がそういう人だから。スタッフがいっぱいいすぎて、知らない人までいました。
※22 1954年生まれ。『まんが・のべおか歴史物語』『〈マンガ〉インターネット入門』など、学習漫画や実用漫画に作品多数。フジオプロでは1973年からアシスタントを12年務めており、第3期のチーフアシでもあったことから、『赤塚不二夫先生との下落合呑んべえ日記』などの作品もあります。
※23 別名義に吉勝太。4代目チーフアシスタントであり、87年のアニメ『天才バカボン』再放送をきっかけとした赤塚リバイバルブームの中でボンボンKCから出し直されたコミックスなどでは表紙画も担当していたとのこと。作品に『少年バカボン』など。
——その話はてらしまさんも描かれてましたね。「いつの間にかいた」って。
ありま 一緒に飯食ってたけど、「誰?」って感じで。
——みんな、誰かの知り合いだと思ってたと。
ありま 先生だって知らない人いたから。峯松だってそうじゃないですか。
——峯松さんご本人が『天才バカボンの時代なのだ!』に収録の「ミネ松くん」で描かれてましたね。
ありま 先生がそういう人だったから。赤塚さんの作風ってのは、絵は絵心がある人なら誰でも真似できるかもしれない。だけど中身のギャグは赤塚さんが体を張って仕入れたのだから、二度とそんな人は現れないでしょう。一ノ瀬さんとは会ったことあります? 私は今でもあの人とはしょっちゅう会いますよ。
——麻雀漫画を結構描いてる方ですし、一度お話を伺いたいとは思ってるんですがまだです。漫画界であまり話題にならないところでひっそりと30年続いている『雷電』のお話も伺いたいですね。
ありま あれ、パチンコ漫画界の『ゴルゴ13』みたいなもんですもんね(笑)。優しい人だから頼んだら喜んで受けてくれると思いますよ。人の悪口も言わないし、何を言われてもニコニコしてる。だからいまだにモテる人ですよ(笑)。一ノ瀬さんと私はほぼ同じくらいにフジオプロに入ったんです。1週間差くらいかな。一ノ瀬さんは芳谷班で。途中でフジオプロからファミリー企画が分裂して。分裂は、フジオプロの会計担当が使い込みをやったのが原因で、会計だけは別にしようって。だから仕事場の移転とかがあっても、やってることはそれまでとあんまり変わらなくて、交流も普通にありました。
——使い込みのことは武居俊樹さん(※24)とか周囲の方の本にも書いてありましたね。
※24 1941年生まれ。『少年サンデー』の赤塚担当であり、キャラクター「武居記者」のモデルでもある編集者。著作に『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』。
ありま 赤塚さんは結局その人のことを訴えなかった。だから借金を返すためにものすごい大変でした。ほとんどの週刊誌でやってましたね。芳谷さんにも、1年に1回くらいは一ノ瀬さんと一緒に会いに行ってたんですけど、さすがにコロナ騒ぎになってからは遠慮しようってなってます。芳谷さん、この人はジェントルマン。バカはあんまりやらない(笑)。劇画班だから。ギャグ班は馬鹿をやるけど(笑)
——なるほど(笑)
ありま 赤塚先生がまた変なこと言って挑発するんですよ。「お前とお前がケンカしたらどっちが勝つかな」とか。
——(笑)
ありま で、バカが乗っかってこっちを挑発してくるから、あまりに腹たって「この野郎」ってなりそうになったら、隣の芳谷さんがこっちの手を止めて、それ見て赤塚先生がつまんなそうな顔をする(笑)。赤塚先生が本当にろくなことをしない(笑)。仕事やってる最中にトランプを配ってくる。要するに、数字の大きいほうが勝ちという賭けなんですよ。やめましょうよって(笑)
——トランプの話はてらしまさんも漫画で描かれてましたね。
ありま 人が困ってるところが面白いんですね。勉さんと同じタイプ。困ってるのを見るとすごい楽しそうにする(笑)。勉さんと赤塚先生は似てた。だからすごい仲が良かったですね。赤塚先生と勉さん、一緒に立川流にも入門してますしね。赤塚先生が立川不死身、勉さんが立川雀鬼って。
——はいはい。
ありま 勉さんと赤塚先生は歳も離れてて、しかも大巨匠でしょ。でもその人の頭叩いたりとか平気でやっちゃうんですよ。あんなふざけた真似できないですよ普通(笑)。それを楽しむんですよね。
——赤塚先生の器も大きい話ですね。
ありま 体張ったギャグですからね。中途半端にふざけてると凄い怒られました。
——まさに「真面目に遊んだ日々」にも描かれてた「真剣にふざけるんだ」という話ですね。
ありま そうそう。先生は賭け自体が好きなわけじゃなかったんですよね。みんながワイワイやってるのが好きだったわけで。勉さんとは本当にウマが合っていました。勉さんは大きな子供でしたからね。寂しがり屋でわがままでトラブルメーカーで……。
——そのあたりのことはこれから「あだち勉物語」で描かれるわけですね。楽しみにさせていただきます。
ありま 「あだち勉物語」、知り合いはみんな「面白かった」みたいに言ってくれてはいるけど、自分を全く知らない人が読んでどうなのかは知りたいですね。
——私の漫画好きの知り合いの間では更新のたびにtwitterで評判になってはいます…。twitterってのもだいぶ偏った場所ではありますが(笑)。でも、前にやられてたインタビューで「あだち勉」っていう存在自体がクローズアップされた感じはありますから、興味を持ってる方は多いと思いますよ。
ありま 「あだち勉物語」、一話目はアクセス数割と良かったとは聞きますけど、人のふんどしで商売してるみたいな感じですね(笑)。あだち充ファンが見てるのかもしれない。題字も充さんに描いてもらってますし。「協力」という形で、変なこと描いてないかネームもチェックされてます(笑)。「今のところは大丈夫だな」って。「まあ今のところは大丈夫でしょうね」って感じですが(笑)
——ギリギリのところを楽しみにしております(笑)。そういえば、北見さんが漫画で描いてますが、勉さんが捨てた牌で国士無双のダブロンあがられたという話は本当でしょうか。
ありま 聞いたことありますね。麻雀の話はありすぎて。一番ひどいのは「ダブリー事件」なんですが、これも「あだち勉物語」でいずれ描きます。
——楽しみです。
ありま ちなみに充さんも麻雀とてもうまいですよ。
——それは意外な感じなしますね。
ありま うまいっていうか、勝つんですよ。とにかく負けない。あだち兄弟との麻雀歴はとても長いです。私が20歳のときから40年間、毎年正月は充さんの実家に泊まって、そこで麻雀やってました。あとの二人は充さんの地元の同級生で、徹マンやって。20代前半の頃はみんなお金ないから必死でした。まあでもそうやって麻雀やってきてましたから、普通にうまいですよ。あだち兄弟って上州、国定忠治の国の人だから、ギャンブル好きなんですよ(笑)。あだち兄弟にギャンブル漬けにされたようなもんです(笑)
——(笑)
ありま でも、そのおかげで『連ちゃんパパ』や『御意見無用』みたいな作品も生まれたし、古谷さんの言ってたことは間違ってなかったですね。ただ、いくらなんでも遊びすぎてたんで、「この中で一人だけ漫画家になれないやつがいる」って言われたことがあります(笑)。「誰ですか?」「お前だよ」「ですよね」って(笑)。でもやっぱり、若いうちはなんとかなるんだから、いろんなチャレンジしてみるのがいいと思いますね。それが一番大事ですよ。
——本日は本当にありがとうございました。今後の「あだち勉物語」も楽しみにしております。