あなたはベンガル語雑誌が初出の漫画を読んだことがあるか—古代インドを舞台にゾウと人間の戦いを描く、山松ゆうきち+沢本英二郎『ヴァラナシの牙』

『ヴァラナシの牙』3巻21ページより。

漫画というものが日本にだけあるものではないことは、筆者に言われなくとも皆さまご承知のことと思います。日本語に翻訳されているものも多いわけで、アメコミやバンド・デシネを読んだことがある方は少なくないでしょう。

その他の国のものでも、韓国漫画だと、創刊当初の『コミックバンチ』(筆者は『屈辱er大河原上』『男たちの好日』『ワイルドリーガー』『ガウガウわー太』あたりを目当てに読んでました)を読んでいた方なら韓国でベストセラーとなった全克瑨+梁載賢「熱血江湖」が連載されていたのを覚えているでしょうし、最近だとチート転生もののJUN+tomassi「華山転生」がピッコマで人気だったりします。

中国本土発だと、幽・霊によるコメディ『兄に付ける薬はない!』がショートアニメ版もあわせて人気で、今年の10月からはTOKYO MXでアニメ第4期がスタート予定となっていますし、香港漫画だと、金庸の武侠小説を李志清がコミカライズした『射鵰英雄伝』の邦訳版が全19巻となかなかの大著として09年に一気に出たのがインパクトありました。台湾漫画だと、唐靉『ボウリングキング』の邦訳版が、ゾッキかなんかなのか一時期どこのブックオフに行っても並んでいたのが筆者には印象深いところです。同人なんかにも目を向けますと、筆者はコミケでフィンランドのサークル「さんま雲」さんの本を買ったことがあります。

とまあつらつら書きましたが、マンバ通信では原正人氏が筆者なんかよりもはるかに詳しく海外漫画について書かれた連載をされていますので、いろいろ知りたい方はそちらをぜひ読んでください。

ここからが本題。それだけいろいろある海外の漫画ですが、インドの漫画、これを読んだことがあるという日本人はかなり少ないのではないでしょうか。

そもそも、インドに漫画があるのかといえば、そりゃあります。

筆者は高校時代に英語の成績が進級点に足りず留年しかけたことがあるくらい英語が駄目で、ましてやヒンディー語やベンガル語といったインドの諸語には全く明るくないので、あまり歯切れのよいことは言えないのが申し訳ないところですが、ある程度ウェブで調べてみたところによりますと、マーベルやDCなどのアメコミは普通に入っていたらしいですし、また、そこからの影響を受けて、『Chacha Chaudhary』や『Nagraj』といったインド独自のキャラクター漫画や、クリシュナ神などインドの文化を漫画で子供に教えることを目的としたAmar Chitra Katha社の教育漫画シリーズなどがヒットしていた(これらは英語版Wikipediaには記事が立っているので、そちらをご参照ください)という歴史があるようです。

そして、今回紹介する、原作:山松ゆうきち+作画:沢本英二郎『ヴァラナシの牙』は、『Kriyetic Comics』というベンガル語の雑誌が初出という、おそらくこの世で唯一の「日本人作家によるインド人読者向け漫画」なのです。や、『Kriyetic Comics』という雑誌もちょっと筆者の英語力ではあまり深く調べられなかったのですが(沢本氏にかつてインタビューした際に訊ねたところ、1号目は出たが2号目以降は資金不足で出なかったらしいとは聞きました)、こういう記事も見つけられましたので、少なくとも1号目が出てそれに本作が掲載されたのは間違いないようです。

さて、本作の内容を紹介していきましょう。とその前に、一点注意書きを。本作はベンガル語(横書き)雑誌用に描かれた作品であるため、日本の一般的な漫画のような左開きではなく、右開きを前提としてコマが割られています。そのため、本記事で引用するコマも、左から右へと読んでください。これ、Kindleなど右開きに対応した電子書籍プラットホームだと問題ないんですが、スキマなど左開きを前提した電子書籍プラットホームでは、見開き使われてるところが分かりづらくなっちゃってたりしてちょっと問題なんですよね……。

『ヴァラナシの牙』3巻10〜11ページより。本来は画像下部のような見開きを意図しているところが、左開きプラットホームだと画像上のように表示されてしまいます。

本作の舞台は古代インド。この広大な大地の主は、トラでもライオンでも、ましてストロー(黄色い人、山の民)やドラッタ(黒い人、海の民)といった人間でもなく、大きくて力の強いゾウでした。中でもひときわ大きくて力強いゾウの中のゾウ、それがタイトルにも冠されている「ヴァラナシ」です。ゾウの世界の思想は原始共産制に近く、土地を所有して自分たち以外の立ち入りを禁止しようとしたり、収穫物を貯め込んだりしようとするストローやドラッタの在り方は、ヴァラナシにとって許せるものではありませんでした。

『ヴァラナシの牙』1巻20ページより。

「夜露に濡れぬ家がほしい」「食べ物は蓄えておきたい」と人間としては割と普通の欲求を持つストローはヴァラナシ暗殺を試みますが、彼の圧倒的な力の前にあえなく失敗。ヴァラナシは妻・ガンジスと息子・ジャムナーという愛する家族やゾウ仲間たちとともに、平和な時を過ごしていました。

しかしある日、ドラッタの軍勢がストローのシマへ攻め込んできたことで状況が変わります。ドラッタは、金属製の矢じりや毒といったストローにはない優れた武器を備えており、瞬く間に土地を制圧。そして、彼らが次の標的と定めたのは、邪魔者であるヴァラナシでした。森で火を焚いてヴァラナシをおびき寄せると、落とし穴や毒矢などの罠で彼を追い詰めていきます。

『ヴァラナシの牙』1巻58ページより。

そして翌日、仲間のゾウからの急報を受けてガンジスが目にしたのは、変わり果てた夫の姿でした……。さらに、ヴァラナシと一緒に居たはずの最愛の息子・ジャムナーの姿も見当たりません。ガンジスはジャムナーがどこかで生きているはずと信じ、彼を探すあてどもない旅に出ます。

月日は流れ幾星霜、ヴァラナシを斃したドラッタやストローたち人間は、森を焼いて畑にするなど我が物顔でのさばり、その版図を拡げていました。そして、ジャムナーを見つけられない失意のまま数年ぶりに故郷に帰ってきたガンジスは、ドラッタによって大きな城塞が建てられ、その門にヴァラナシの牙が飾られているのを目にします。もう許せない。このままではゾウはドラッタの奴隷とされてしまう。ガンジスはゾウたちに呼びかけ、ヴァラナシの牙と、そしてこの大地をゾウの手に取り戻すための戦いを始めます。

『ヴァラナシの牙』2巻15ページより。

こうして数万頭のゾウ軍団はドラッタの城塞を攻めますが、その守りは堅く、毒などによって逆にゾウたちは次々と倒れていきます。さらに城塞からは、ドラッタの王・リンガをその背に乗せたジャムナー—彼は父・ヴァラナシをも凌ぐ巨ゾウへと育っていました—が現れ、「もうゾウの時代は終わった」と母に告げるのでした。果たしてゾウと人間の戦いの行方はどうなるのか——。

『ヴァラナシの牙』2巻39ページより。

どうです、絵柄は日本漫画のものですが、設定などは日本ではあまりお目にかかれないようなもので、気になるでしょう。ここから先の展開と、無常感あふれる結末はぜひご自身で確かめてみてください。

さてさて、それにしても、「なぜ日本人がインドの雑誌で漫画を?」と思われる方は多いと思います。これについて説明するには、原作の山松ゆうきちについて説明しなければなりません。

山松は1948年鳥取県生まれ。64年に大阪の貸本出版社・日の丸文庫に持ち込みをし、漫画家兼編集者としてデビューします。その後は、一時期漫画をやめて郷里に帰り競輪選手を目指すなど紆余曲折あったのですが、麻雀や競輪などギャンブルを題材にした漫画を中心として長く活躍を続けています。作風は、インタビューで自ら「にっちもさっちもいかない人間のやるせなさ、ああいうのを描きたい」と言っているように、「どうしようもない人間が、どうやってもうまくいかない」さまを時にユーモアを交えつつ描く、「ペーソス」という言葉がまさに似合うような感じが特徴で、80年代の『近代麻雀オリジナル』で連載された『エラヅヨの殺し屋』や『西子』などは特に傑作です(特に後者はユーモア成分を抜いてひたすら乾いた話にしているので、読んだあと腹に鉛のような重いものがずしりと残ります。どちらも一部の電書プラットホームにはあるので、気になる方は読まれるとよいでしょう)。

で、03年になって「仕事がなくて金もない、困ったな」となった彼は、突然「日本の漫画がない土地に漫画を持っていって翻訳版を売れば儲かるのではないか」と思い立ち、翌04年、「ツテがないどころか英語も全然しゃべれないのにそれは無謀だろ……」という周囲の心配をよそに単身で渡印、日本の漫画をインドで売り始めるのです。この様子は、自身による実録漫画『インドへ馬鹿がやって来た』で詳しく描かれていますので、詳細はそちらを読んでください。

『インドへ馬鹿がやって来た』3ページより。

ちなみに、山松がインドで最初に売り出した漫画は、平田弘史の『血だるま剣法』です。

……初手に『血だるま剣法』!?

知らない方のために説明しましょう。『血だるま剣法』は62年に日の丸文庫(先述の、山松の就職先ですね)から刊行された貸本劇画で、「被差別部落出身であることにより苛烈な差別を受けていた主人公が、剣の道で身を立て自分と同じような境遇の人を救おうと修行に明け暮れるが、信じていた師に裏切られたことで復讐の鬼と化し、最終的に四肢切断の身体となりながらも編み出した剣法で、かつて自分を差別していた他の門弟たちを殺害していく」という凄惨なストーリーの時代劇です。平田弘史初期の、そして貸本劇画を代表する傑作の一つですが、刊行直後に部落解放同盟から抗議を受けたことで、04年に青林工藝舎から復刊されるまで40年以上にわたり「封印作品」となっていました(後の12年にもラピュータからも復刊)。

山松が本作をなぜ初手に選んだのかは、『インドへ馬鹿がやって来た』の巻末インタビューでも当然訊かれていますが、「(血だるま剣法は)やっぱり面白かったからさ」と答えており(先述の通り、当時の日本では「出せない」作品と思われていたから、「場所がインドでであっても再び世に出したい」という気持ちもあったそうですが)、「初手だから万人受けしそうなものを」とか全く考えなかったようです。

いや、気持ちはわからいでもないです。筆者もどちらかといえば「ヘタに『初心者向け』とか考えず、一番凄いものをぶつければええんや!」の考えの持ち主であり、今までも、「SFを読んでみようと思うんですが、何から読むのがいいですか」と訊かれたときには「グレッグ・イーガンかテッド・チャン。アレが一番凄いから」と答えてきましたし(これは後日「『宇宙消失』読んでみたらめっちゃ面白かったです、他のも読みます!」と答えが帰ってきたので成功体験です)、「麻雀漫画を読んでみようと思うんですが」と訊かれたら「来賀友志+甲良幹二郎『麻雀蜃気楼』。アレが一番凄いから」と答えてきましたし、「『HiGH&LOW』シリーズを見てみようと思うんですが」と訊かれたら「『THE MOVIE2』から。全体の話の途中から見ることになるけど、アレが一番凄いから」と答えてきました(あ、でもこれは今なら「作品として独立してる上に完成度も高い『THE WORST』から」って言いますかなー)。でも「インドに紹介する漫画の初手で『血だるま剣法』」ほどの思い切りは無理です。「四肢切断は流石にショッキングだし、時代劇はインドの人には状況設定わからないかなー」とか日和ったこと絶対考えてしまいますもん。本当に凄い人はやっぱ違います。『血だるま剣法』を読んだことがないという方は、二回の復刊(これもどちらも絶版なのでちょっと古書価格高いですが……)のおかげで昔に比べると多少読みやすくなっているので、これを機にぜひとも読んで「たしかにこれは凄い漫画だ……」「でもインドに紹介する初手でこれを!?」「どうでもいいけど、『いい人の皮をかぶった悪い人だったのだ』というセリフはなんかバカボンのパパっぽくなってちょっと面白くなっちゃってるよな……」といった感情を筆者と共有していただきたい。なお、『血だるま剣法』ヒンディー語版は、50部くらい売れたそうです。

『血だるま剣法』(青林工藝舎版)7ページより。

 

で、この活動が、後にNHKがインドで漫画のワークショップを行う際に「インドにいちばん通じた作家」ということで山松が起用されることにつながり、これが『Kriyetic Comics』創刊時に『ヴァラナシの牙』が掲載されるということにつながるわけですね。人間何がどうなるか分からないものです。

作画の沢本は1951年愛知県生まれ。あすなひろしのアシスタントを経て71年にデビューし、週刊少年ジャンプで「保安官ジョー」(原作・まつしまとしあき)を連載。80年代以降は主に麻雀漫画やパチンコ漫画などで活躍しました。このプロフィールだけだとパッとはわかりませんが、麻雀漫画時代の代表作に「犬が麻雀を打つシリアス劇画」としてマニアの間で伝説的に語られてきた『無法者』(原作・五條敏(来賀友志)、『漫画タウン(ガッツ麻雀)』連載。長く未単行本化でしたが、筆者がインタビューした際に「原稿はほとんど処分してしまったが、本作は自分の麻雀漫画の中で一番面白かったので取っておいた」という答えが返ってきたというミラクルにより、筆者が同人単行本化しました)があるほか、「恐竜の島」「キングコング」などの映画をコミカライズした(いずれも未単行本化)という実績もあり、実は動物漫画もかなりいける人なんです。なので、ゾウが主役の本作にはまさにベストマッチな作画家だったわけですね。

『無法者』上巻232ページより。なお、この8コマめで犬のジョーが「リーチ」と喋っている画像がtwitterでバズっているのを見たことがありますが、それはコラです。常識的に考えて、犬がしゃべるわけありませんやろ!

ちなみに、先述のインタビューした際に本作についても訊いたところ、インドの出版社からは一銭も原稿料が入ってこなかったとのことなので、皆さまぜひとも本作を読んで沢本先生に執筆分のお金を入れてあげてください……。

余談:

「『無法者』連載の『漫画タウン(ガッツ麻雀)』ってどういうこと?」と思われる方がいるかもしれませんが、同誌は徳間書店が80年代に出していた麻雀漫画雑誌で、正式名称は『漫画タウン』だったのが、雑誌のキャッチコピーであった「ガッツ麻雀」の文字が次第に大きくなっていき、最終的に『ガッツ麻雀』に正式に誌名を変更したという「そんなことってあるの!?」としか言いようのない雑誌です。「タウン」というのは徳間書店がまだ「アサヒ芸能出版」という名前だった67年に出していた雑誌『月刊タウン』に由来するもので、なんか徳間的にはすごく思い入れのある名前だったらしいです。徳間のムックが現在でも「TOWN MOOK」というレーベル名なのもこの名残ですね。

『漫画タウン』87年7月号表紙。右上に小さくある「漫画タウン7月号」というのが雑誌名で、デカいロゴは雑誌名ではないんですね。まんだらけで1500円出して買いましたが、その価格に釣り合う面白さがあるのかという質問にはムニャムニャとしか答えられない。

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