皆さん、『漫画ゴラク』好きですか。好きですよね。筆者は好きです。筆者のこのコラム、初回では『男!日本海』を紹介しましたし、前回は『優駿劇場』を紹介しました。今後紹介しようかなーと何となく思ってる作品の中にもいくつかゴラク作品があります。ゴラク編集部の方には足を向けて寝れる気がしません。
さて、それとは別に、筆者はいま家の片付けに追われています。しばらく前に借りてる家の大家から「老朽化ひどいんでそこ取り壊すから」と通達を受けまして、こっちとしてもそろそろ引っ越そうかと思ってたんでOKはしたんですが、本やら同人誌やらで床が見えないゴミ屋敷のようになってる家をなんとかしないといけない。そうして家を片付けていると、「あーそういや俺こんなの買ってたなー」というものが出てくる出てくる。そうやって出土したものの中に、『漫画ゴラク』の創刊号(1964年1月1日号)というものもありました。
というわけで、今回は作品単体ではなく、それを紹介します。はい画像ドン。
見ての通り、名前が違いますね。創刊当初は『漫画ゴラク』ではなく『漫画娯楽読本』という名前だったのです。また、発行会社は「株式会社相互日本文芸社」となっています。ニチブン、なぜか一時期だけこの社名にしてたみたいなんですよね(保険会社でもないのに、何が「相互」なのかはよく分かりませんが……)。
続いて目次です。
現代のゴラク読者はあまりにも違いすぎる感じで驚かれることでしょう。淡谷のり子・宮城千賀子・戸川昌子という女性芸能人3人の座談会をはじめ、読み物記事だらけです。ひっそりと都筑道夫がテレビ評を書いてたりしますね。また、右下、「女性風俗」のところの見出しにある「BG」というのは現代読者には通じないと思うので解説しますと、これは「Business Girl」の頭文字で、つまり現代で言う「OL」のことです。当時はこう呼ばれていたのですが、「BGというのは英語で売春婦を指す」という特に根拠のない噂が広まり、70年代には「OL」が定着しました。
そんな感じで漫画の目次は4分の1くらいのスペースしか与えられていませんが、この部分を拡大してみましょう。
何しろ60年近く前の雑誌ですから、「載ってる名前、ひとりも知らない……」という方も少なくないのではないかとは思います。全員を紹介はできませんが、何人か解説してみましょう。
まずはおおば比呂司。この人については、名前を知らなくても、絵を見たことがある人はかなり多いはずです。「『ホテイのやきとり缶詰』の絵」と言えば「ああ、見たことある」となるのではないでしょうか。他にも、北海道・洞爺湖温泉の「わかさいも」、岩手県二戸市・巖手屋の「南部せんべい」、京都・美十の「おたべ」、松江・中浦本舗の「どじょう掬いまんじゅう」などなど、亡くなって30年以上が経つ現代でも、全国各地の土産菓子等でそのイラストは未だ現役です。
福地泡介、この人は早稲田漫研のほぼ創設期のメンバーであり、現在でもエッセイ「丸かじり」シリーズで名を博す東海林さだおとは、同時に入部したこともあってその後福地が57歳で急逝するまで親友であったといいます。この雑誌では、ご覧のように読み物ページの下部を埋める6コマ漫画を描いていますね。ちなみに漫画界屈指の雀豪として知られ、双葉社がかつて主催していた「麻雀名人戦」で2年連続タイトルを獲得したこともあって、麻雀戦術書やエッセイなども多く残しているマルチな人です。
富永一朗は、一定以上の歳の方なら「『お笑いマンガ道場』(76〜94年と長期にわたり放映されたテレビ番組)の人」で通じるのですが、これも若い人には分からないですね。御年95の今でもまだお元気だそうで、昨年は故郷に近い別府市美術館で作品展が行われていました(https://www.city.beppu.oita.jp/doc/gakusyuu/kouza_event/museum_exhibition/20200512_01.pdf)。この時代の漫画家の中では最大級の人気作家で、『週刊漫画サンデー』(少年サンデーじゃないですよ。実業之日本社の『マンサン』の方です。為念)創刊直後の1960年から連載された『ポンコツおやじ』は雑誌の最大人気作品となり、同誌の売上を大きく伸ばしたそうです。そのため一気に各雑誌から仕事の依頼が舞い込み、断りきれない性格だったこともあって1ヶ月に200ページ以上の原稿を描く羽目になってしまい、「このままでは潰れてしまう」と見かねたマンサン編集部が専属契約を結んだというエピソードを持つ、「漫画家の雑誌専属契約」システムの嚆矢となった人でもあります。
なお、後述する峯島本によれば”(1957年ごろに)「大将さん」という四コマの傑作も描いた”という記述があることから、掲載されているこの漫画はおそらくその再録だと思われます。
歌川大雅。この人だけは「絵物語」として、昔のアメコミのような感じの漫画を描いています。
この人も現代ではその名前はほとんど知られていませんが、実は結構な大人物です。もともとは岡友彦名義で児童雑誌に絵物語などを描いていたのですが、こっちの方向では弟子に桑田二郎(次郎)、一峰大二、森田拳次(この人のさらに弟子としてジョージ秋山がいるわけですね)と錚々たるメンバーがいまして、間接的に日本の漫画にめちゃめちゃデカい影響を及ぼしているんです。また、歌川名義ではSMなどエロ方面に作品を残しており、こっちの弟子としては前田寿安というSM画の大家がおります。
なお、70年代に入ってからは、性的儀式で知られる密教・立川流(これもなんか複雑で、最近の宗教学の研究によれば、本来の「立川流」と「性的儀式を行う密教集団(正式名称が不明のため便宜的に”「彼の法」集団”と呼ばれる)」は別の流派であり、複数の流派がまとめて「邪教」として批判されたために後世で混同されることになった……らしいです)の研究に没頭していたため、まとまった著作として残っているのはそっち方面のものがほとんどですね。
漫画以外の部分についても少し触れておきましょう。まずは読み物記事。
これは、香月久という人が提唱している「金鈴法」という健康法の紹介記事で、具体的には、入浴時などにキンタマを温める→冷やす→温める→冷やす……というローテを繰り返すというものです。近年ブームの「サウナでととのう」のキンタマオンリー版という趣ですね。香月氏の談話によれば、この「金鈴法」を行う「金鈴会」には外国人300万人を含めて1000万人の会員がいるそうですから、当時の日本人成人男性の5〜6人にひとりはキンタマを冷やしていた勘定になります。おそろしいですね。
これは、表紙の最上部でも謳われている「破天荒の割引券」の内容の一部です。どちらも西武グループがやっていた施設で、品川のはプリンスホテル内に、池袋のは現在の豊島清掃工場の土地に90年代まで存在していました。一定以上の歳の方には懐かしいのではないでしょうか。
これは漫画雑誌によくある怪しげな広告ですね。メッセージが「君も太ろう」という内容なのが現代との差というものを強く感じさせます。ダイエットとかそういうことは言わない、恰幅の良さが健康の証という趣です。
さて、ここまで紹介してきたのを読まれた皆さんは「今のゴラクとぜんぜん違う!」とかなり困惑されたことでしょう。しかし、この当時、大人向けの「漫画」というのはこういうものだったのです。先にちょっと名前を出しましたが、2013年に休刊するまで長く『ゴラク』および『週刊漫画times』と並ぶライバル雑誌だった『週刊漫画サンデー』の初代編集長である峯島正行(この人、筆者の偏愛するSF作家のひとりである今日泊亜蘭の評伝を書いた人でもあるんですよね。今日泊亜蘭、とにかくベラボウに文章がうまい人でして、短編の代表作である「縹渺譚(へをべをたむ)」とか読んでて目眩がしますよ)がこの頃の漫画家について書いた『ナンセンスに賭ける』という本があるのですが、その「まえがき」よりちょっと引用しましょう。
“こういう場合の「漫画」という言葉は線画、あるいはデフォルメされ、滑稽化された絵をコマ割りにして表現するものすべてを言っているが、これに対し、狭い意味に「漫画」が使われる場合がある。いや、本来の漫画は狭い意味の方の言葉であった。私のような戦前、戦後のマスコミを知ってきた者には、こんにちでも「漫画」という言葉から直ちに表象されるのは狭い意味の方である。
この狭い意味の漫画とは、読者を笑わせるために作られた作品である。(中略)当時(筆者注・昭和初期のモダニズムの時代)、横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄ら欧米のナンセンス漫画の影響を受けた若い漫画家が集まって「漫画集団」を結成し、若々しいナンセンス漫画を発表して(中略)以来ナンセンス漫画という言葉が定着し、漫画といえば、漫画集団の描くようなナンセンス漫画をいうようにさえなった。この漫画イコール漫画集団的なナンセンス漫画という観念は、それこそ昭和40年ごろまで続いた。
それがビジュアル化時代に入って、少年少女漫画、劇画、ストーリー漫画の隆盛、それから分化した解説漫画など、絵による新しい表現形式の出現、発達に伴い、これらをすべて抱合して漫画というようになってしまったのである。”
これだけだと誤解する人がいるかもしれないので一応補足しておきますと、戦前に少年漫画やストーリー漫画がなかったわけではありません(宍戸左行『スピード太郎』などが有名です)。ただ、「大人の読む漫画」というのはこういうものだったのですね。「大人の読む漫画」が現在のような形に近づくのは1966年、芳文社が『コミックmagazine』(〜88年)を創刊してからで、以後は『漫画アクション』(67年創刊、双葉社)や『プレイコミック』(68年創刊、秋田書店)など青年漫画誌が次々と生まれ、その流れの中で『漫画娯楽読本』も青年漫画(劇画)誌化していき、68年には『漫画ゴラクdokuhon』、71年に『漫画ゴラク』と名前も変え、現在に至るというわけです。なお、70年代のゴラク、表紙を脂の乗っていた時期の松本零士が担当していたりして、割とヤング向けの雑誌ではあったんですよ。この辺の事情が変わるのは79年に『ヤングジャンプ』、80年に『ヤングマガジン』が創刊されたあたりからで、90年代に入ると、ごぞんじ『ミナミの帝王』などの連載が始まって、いま皆さんが知ってるポジションになるのです。
というわけで今回は、雑誌にも、漫画という言葉にも、歴史の変遷というものはあるものだというお話でした。
■おまけ
えーと、これも部屋の片付けしてたら出てきたんですが、漫画そのものではないのでこれ一本で原稿書くほどでもないですし、かといって世に紹介しないのも惜しいのでついでに紹介します。
『サーキットの狼』というのは、74〜79年に『少年ジャンプ』で連載されてヒット、スーパーカーブームの火付け役となった池沢さとし(現・早人師)の漫画でして、そしてこれは2007年に「いま、父となった当時のチビッコのみなさん、(中略)スーパーカーのすばらしさを、次の世代に伝えてください。『サーキットの狼』とスーパーカーは、永久に不滅です」というメッセージとともに、ロコモーションパブリッシングという出版社から発行されたものです。
しかし表紙、「ぬりえ」なのに「エンピツ一本でぬれる」とはどういうことなのか、みなさん謎に思われることでしょう。その意味は中を見ると分かります。
……こんなぬりえ見たことねえ。いや、確かにエンピツ一本で塗れる、塗れるかもしれませんが、写植や効果音や効果線やスクリーントーンや背景まで全部描けと!? 「日本一やさしい」どころか日本一難しいぬりえですよ!
しかしここで驚くのはまだ早い。
本は「ぬりえ」の常識を塗り替える「なぞり描き編」に突入します。そしてさらにページが進むと……。
ついに絵でさえなくなった「写経編」に突入してしまいます。何も言えねえ。
我々が「ぬりえ」というものに抱いている固定観念を粉々に打ち砕いてくれるこの本、筆者は10年ほど前に、川崎市産業振興会館で行われた咲-Saki-オンリー即売会の帰りに寄った川崎駅前ブックオフのゾッキ本コーナー(出版社にとって、売れない本の在庫は資産として税だけはかかってしまう厄介者なので、大抵は断裁処分してゴミにしてしまうのですが、一山いくらで古本屋等に流すこともあり、こうして古本屋に並ぶ新品同様の古本をゾッキ本、新古本、バーゲンブックなどと呼びます)で買いました。そりゃゾッキに流れるとしか言いようがない。
※本記事アイキャッチ画像は「週刊漫画ゴラク」No.2749(2021年3月5日(金)発売号)の表紙を引用しました(編集部注)