フォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』は不思議な構造を持った名曲である。取り立てて難しいコードやメロディがあるようには聞こえないけれど、流行歌によくある8小節ではない。4拍子で始まる前半は7小節、後半は7小節ののちにふいに「告げようか」と2拍子が差し挟まれて、また4拍子に戻る。あえて4拍子として数え上げるなら、7小節+9.5小節ということになる。なかなかに変則的だ。
そしてメロディ。わたしがとりわけ惹きつけられるのは冒頭の旋律だ。「胸に」の「に」。この粘りのある「に」の持続音によって、聞き手の精神はぐっと引き伸ばされる。その十分伸び切った精神に、「しみる空の輝き」という粒立ちのよいメロディが降ってきて、まさしく空の輝きを沁ませる。歌はいつの間にか水の上を滑るような推進力を得て、聞き手をやりきれなさへと誘ってゆく。悲しくて悲しくて、しかし、その悲しさを何度でもたどりたくなってしまう。
『悲しくてやりきれない』は、諸事情あって発売直前に発売中止となった『イムジン河』のかわりに加藤和彦が作曲したものであることが知られている。
加藤和彦がTV出演したときの談話によれば、『イムジン河』が出なくなった直後にレコード会社に呼ばれた彼は、ギターを渡されて3時間くらいとある会社の社長室に缶詰になったのだと言う。そこで彼は『イムジン河』のメロディをちょっと譜面に書いてから、「音符をさかさまからやったらどうだろうかなと思って、全部逆にたどってメロディを作ったらモチーフが出てきて」10分ほどで作ったのだという。
ほんとかなと思って、試しに『イムジン河』のメロディを譜面に書いてみたのだが、どう逆さに読んで口ずさんでも『悲しくてやりきれない』にはなりきらない。コードが逆、というわけでもなさそうだ。では、加藤和彦は出まかせで聞き手を煙に巻いたのだろうか。いや、これは律儀に音符を逆に並べて曲を作ったという話ではなく、「逆にたどる」という行為によってインスピレーションを得たということではないか。言い換えれば、『イムジン河』の流れを遡るという試みが、あの不思議なメロディをもたらしたのではないだろうか。
『イムジン河』は四分音符と八分音符で構成された粒立ちのよいメロディで「イムジン河水清く~」と歌い出される。この冒頭を、「とうとうと」流れにまかせるのではなく、河を遡るように思い浮かべてみよう。流れに逆らうのだから、最初は音符をすらすらと流すようにはいかない。舟が推進力を得るまで、そこに力を込め続けなくてはならない。そういう歌だと思って『悲しくてやりきれない』の冒頭を思い出すと、まさしく、『イムジン河』の最初の二小節を遡るしくみになっていることに気づく。
イムジン河 フォーク・クルセイダーズ
テレビに出てたときの映像。CD特典
まず歌い出しの二音は「イム」(『イムジン河』)も「胸」(『悲しくてやりきれない』)もまるで同じ所作で岸から離れるがごとく、全く同じ音、同じリズムだ。けれど、そこからが違う。『イムジン河』の「イムジンがわみずきよく~」の末尾、「く~」という持続音が、ちょうど『悲しくてやりきれない』の「むねに~」の末尾、「に~」に当てられている。これがあの「胸に~」の持続音だ。さらに「ジンがわみずきよ」の部分も「ジンがわ」「みずきよ」とバラして逆さまにすると、ちょうど「そらのか」「がやき」の部分に対応することがわかる。つまり、『悲しくてやりきれない』の最初の二小節は、『イムジン河』の最初の二小節を遡るように始まるのである。
『イムジン河』に似ている箇所は冒頭だけではない。『イムジン河』には、前半部に、ちょっと息を継ぐような2拍子が表れるのだが、『悲しくてやりきれない』でも、メロディの終わり、「告げようか」のところでひょいとこの2拍子が表れる。
もちろんこれらは出来上がった『悲しくてやりきれない』を吟味したときに発見される照応であって、加藤和彦が『イムジン河』のこうした要素をひとつひとつばらし、理詰めで逆順につなげて作ったのだとここで言いたいのではない。おそらくは、『イムジン河』の音符を逆にたどるうちに、河を遡行するような感覚が生まれ、「胸に」の「に」の音が得られた。そして、まるで逆向きにたどる風景のひとつひとつがいつもとは違う輝きを帯びてくるように、メロディやリズムは新鮮な空気を纏い出し、あちこち拾い上げられて、『悲しくてやりきれない』がみるみる綴られていったのではないだろうか。
『この世界の片隅に』は、川を遡ることから始まる。わずか12ページのマンガ版「冬の記憶」では見開き2ページを使って、この遡行の時間が描かれる。海の近くでは、川の流れは緩やかだ。すずが砂利に耐えながら船頭にかしこまって話す時間、二十銭の使い道をあれにしようかこれにしようかと思い描いている時間とともに読者は川を遡り、あたかもすずの傍らに置かれた海苔のように、海辺の村から街へと運ばれてゆく。このゆったりとした遡行の時間を経ることで、わたしたちは、昭和9年1月へといつの間にか滑り込むことができる。カケアミで描かれた川辺の景色は、夢の影絵のようだ。
アニメーションでも、この冒頭の遡行の場面にはたっぷりと時間が費やされているが、そこにはちょっとした変更が為されている。
船頭がすずに声をかけると、物語の始まりを示すように端正な洋風のメロディが流れる。雁木に着いたすずが船を下り、石垣に背を当てて風呂敷包みを背負い直すその愛らしい所作の間にも、音楽は流れ続けている。すずが商店街に出ると、そこにはサンタクロースに扮したサンドイッチマンが左右に揺れている。おや、これはクリスマスの季節なのか。戦前の広島にもこんな洋風のクリスマスの風景があったのか。いや目で見えることだけではない。見る者はここでようやく、さきほどから耳に聞こえていた音楽は賛美歌であり、それはクリスマスの音楽でもあったのだと気づく。さらにあとでマンガを読み返したなら、この場面が原作の昭和9年1月から昭和8年12月22日に変更されていることにも気づくことになる。すずの行く手をささやかに祝福するような賛美歌、そしてクリスマスの光景は、アニメーション独自の演出だったのだ。アニメーションのすずは、きっと大人になっても、戦前の広島で見た、このクリスマスの光景を記憶しているに違いない。
そのクリスマスで華やいだ街で、菓子店に並んだおいしそうなキャラメルの箱やヨーヨーに気を取られているうちに、賛美歌は小さくなり、すずはどうやら迷ってしまったらしく、ショウウィンドウの前で途方に暮れている。不意に、映像がゆっくりと空へ向かい、遡行のメロディが口ずさまれる。胸に。そして見る者は、世界へと誘われていく。
「アニメーション版『この世界の片隅に』を捉え直す」の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行