アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(8)虫たちの営み

アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(8)虫たちの営み

 さて、正月早々、これはトリならぬ虫の話。

 「戦争しよってもセミは鳴く。ちょうちょも飛ぶ。」

 そう物語った19年夏のある日、すずは晴美がしゃがんで「ありこさん」を見ているのに気づく。二人はアリの行列をたどってゆくのだが、そのアニメーションの描写に、わたしは思わず笑ってしまった。アリの行きと帰りが描かれていたからだ。

(図1 『この世界の片隅に』中巻 p. 12)

 原作のマンガでは、アリの行列は一列に描かれている。アリをマンガ的に描くときのお約束だ。しかし、アニメーションではアリは二列になっており、しかも片方は逆向きに動いている。さらにその片方をよく見ると、それぞれの小さなからだが何ものかを運んでいる。晴美とすずは、マンガでは一列のアリの向かう先をたどるのに対し、アニメーションではアリの行き帰り、すなわち収穫の営みをたどる。この間鳴っているコトリンゴの音楽は、ピアノ、木琴、弦のピチカートによってスティーヴ・ライヒのような緻密な繰り返しを奏でているのだが、これがあたかもありこさんの規則正しい連なりがそのまま音符になっているようで実に楽しい。二人はありこさんによって(そして音楽によって)台所へと導かれ、その収穫先が、北條家の大事な砂糖壺であったことを知る。

 群がるアリから砂糖を隠すべく、水がめの中に砂糖壺を隠すという名案を思いついた晴美とすずだったが、あわれ壺は水がめの中で沈没、砂糖はすっかり水に溶けてしまう。消沈したすずと晴美を見かねたサンは貯めていたお金を渡し、砂糖の買い出しを頼む。

 砂糖を買いに出たすずは、闇市でそれまで見たことのない賑わいを目の当たりにする。戦時中にはぜいたく品とされている物品も、ここではあちこちで売られている。「戦争前の夏休みみたいじゃねえ」。この賑わいを表現するべく、音楽は先ほどの「ありこさん」のテーマを変奏するようなピチカートを鳴らす一方で、この映画には珍しいアコーディオンの響きを入れている。その洋風の響きはあたかも日常とは違う風通しのよさ、内外から集った品物で高揚する闇市の気分を表しているようだ。ピチカートに乗って市に集い、それぞれの品を抱えて帰る人びとの営みが、まるでアリの行き帰りのように感じられてくる。音楽の力のなせる技だ。

 すずもまたこの闇市で、とんでもない高値のついた砂糖を一斤買う。小さな一斤を大事に抱えて歩く、一匹のアリ。

 虫のアリは、前をゆくアリの残した匂いをたどって巣に帰り着く。しかし、人のすずにはそのような先達がいない。それどころか、帰り道がわからなくなって遊郭に迷い込んだ彼女の鼻を、花びらのようないい匂いがくすぐる。遊郭には人を帰さない匂いが漂っている。帰るための匂いと帰さないための匂い。アリの帰りを表したアニメーションからはそんな対比も感じられる。

(図1 『この世界の片隅に』中巻 p. 21)

 遊郭で出会ったリンの道案内を手がかりにようやく家にたどり着いたすずは、遅い帰宅を径子にくどくどと説教されるのだが、このあと、アニメーションは原作にはない句読点を入れている。それは棚に置き直された砂糖壺のショットだ。そばにはすずの買ってきた砂糖袋も添えられている。そして心憎いことに、その脇で、一匹のアリがうろついている。詰め直された砂糖の匂いを早くもかぎつけてやってきたのだろうか。アリはまるで砂糖を購ってきたすずの似姿のようでもあり、小さな斥候のようでもある。貴重な砂糖は、果たしてこの探索者のアンテナを逃れたのであろうか。


 さて、たかが虫の話だと思って油断しておられるかもしれないが、ここから先は物語の重要な部分に触れていくので、ぜひともアニメーションとマンガを最後までご鑑賞の上、お読みいただきたい。


 20年8月、玉音放送の日。わっと飛び出して畑で突っ伏しているすずの上で、トンボが飛んでいる。マンガでは、トンボは一方向を目指している。この光景に重ねられた「この国から正義が飛び去ってゆく」ということばは、あたかも「アキツシマ=トンボの国=日本」から「アキツ=トンボ」が飛び去って行くことと呼応するかのようだ。トンボの飛び去ったただの島にようやく呼吸を始める場所を見いだしたかのように、太極旗が翻る(この一つのコマは左右の見開きにまたがっており、左にトンボが、右に太極旗が描かれている)

(図1 『この世界の片隅に』下巻 p. 94)

 これに対して、アニメーション版ではトンボはすずの頭上で旋回、上昇するように舞っている。このトンボは絵コンテでは「ナツアカネ」と記されているのだが、わたしはこの場面につい別の意味を読み取ってしまった。すずの突っ伏すこの場面は、一種幻想的でもあるので、以下の考えはいささか描かれた姿に即し過ぎているのだが、ここは筆者の正月の夢と思ってお読みいただきたい。


 すずの頭上で旋回するように舞っているこのトンボは、8月15日という季節、そしてその生態から見て、ナツアカネやアキアカネというよりは、ウスバキトンボのように見える。

 ウスバキトンボは南方生まれ。夏の高校野球の中継で、外野でトンボが舞っているのがカメラに映っていることがあるけれど、あれがこのトンボだ。ちょうど盆の頃に現れるので精霊トンボと呼ばれることもある。昔、ボルネオ島の街中で昆虫の調査をしていた頃、サッカーグラウンドの上空をウスバキトンボがたくさん舞っていて、こんなところにいるのかと改めて驚いたことがある。

 ウスバキトンボの成虫やヤゴは熱帯では年中見かけるが、日本では寒さに耐えることができないため、冬には死に絶えてしまうと言われている。ではなぜ毎年現れるかと言えば、どうやら夏前から秋、ちょうど熱帯性の低気圧が移動するのに合わせて南から徐々に移動してくるらしい。嵐の翌日の日盛りによく見かけるのはそのせいかもしれない。夏、集団で空中を乱舞するようにして餌を食っているので、暑い盛りが苦手なアカネ類に比べてよく目立つ。アニメーションの飛翔ぶりはまさに、このトンボの特徴に当てはまる。

 仮にウスバキトンボだと考えると、アニメーションには別の含意が出る。畑にすずは突っ伏しながら言っている。「海の向こうから来たお米、大豆。そんなもんでできとるんじゃなあ、うちは!」。セリフは、闇市ですずが見かけた外地の食べものを想起させる。一方、すずの真上では海の向こうから来たウスバキトンボが、空中で小昆虫を悠然と食べている。日盛りを舞うその姿は、すずの頭上を舞った機影の「暴力」を思わせる一方で、海の向こうから来たものを食べて生きているすずの営みを反転させたものに見える。そう考えるとき、機影の「暴力」はすずの営みの「暴力」に裏返る。ならば、すずの唐突な叫びは、この「暴力」の反転と呼応していると言えるだろう。「じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね!」


 

 さて、初夢はこれくらいにして、もう少しだけ虫の話を。

 たとえ知らなくてよいことを知ってしまったとしても、人は食べることを止めることはできない。8月15日の夜、北條家ではサンの貯めておいた米を使って、「輝くように真っ白な」ご飯を食べる。

 虫もまた、食べることを止めることはできない。アニメーションは虫の旺盛な食欲を残酷な形で示す。原爆の投下された広島での母娘の来歴を描いたある一コマで、動かなくなった母親に寄り添おうとした子の目の前で、母親の耳からウジ虫がわき出す。実はマンガでこのコマを最初に見たとき、わたしはそのさまから死を示す残酷な記号以上の何かを読み取るのが怖くて、思わず次のページへと急いでしまった。しかしアニメーションでは、虫の動きが描かれている間、ほんの1,2秒とはいえ、その蠢く時間と付き合わねばならない。それは残酷な時間であると同時に、人を食い物にしてまで続く虫の営みの確かさを、目の当たりにする時間でもある。

 そして、わたしたちは、再び虫の蠢きを目撃することになる。それは、映画の最後の場面、呉に連れ帰られた子が、北條家の人びとに痒みをもたらすところだ。アニメーションではあろうことかその痒みの原因であるシラミがわらわらと娘からわいてくる様子が、克明に描かれている。しかしこの克明な描写に、わたしはなぜか快活な生を感じている。まったく、アニメーション史上、これほど子細なシラミの描写があっただろうか。この子はまるで帽子から万国旗を出すように、シラミを体からぽろぽろ落とす。虫に自らの体を食わせてなお、生きている。二つの営みが両立しうるほど、この子は生命力に溢れている。

 マンガの最後のコマでは、円太郎が「ものすごいシラミじゃ!!」と叫ぶものの、シラミの姿は描かれていない。そのかわり、ページ半分に満たないコマの中に、にわかに活気づいた北條家の人びとの吹きだしが、所狭しと並んでいる。吹きだしたちは、まるで人間の発したシラミのように、快活な声となって一つのコマの時間を動かす。虫も人も営んでいる。

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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漫画も映画もすごい この記事も良かった http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12250426/

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