アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(14)食事の支度

アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(14)食事の支度

 アニメーション版「この世界の片隅に」では、場面の変わり目で、動物たちが句読点を入れるようにさっと画面を過ぎることがある。冒頭からして、すでにそうだ。「うちはよう、ぼーっとした子じゃあいわれてじゃけえ」。すずのゆっくりした口調にさっと読点を差し挟むように、カモメが飛び過ぎる。

 19年5月、径子が嫁ぎ先に帰ると、すずの声は急に気分が変わったよう張り切ってきこえる。「おねえさんもお嫁入り先へ帰っていきんさって、さあほいじゃあうちがご飯の支度を!と思うたときにゃあ、配給がだいぶ減っとった」。配給が減ったのは残念だが、それでもこのセリフの「さあ」にはどこかすがすがしさが感じられる。最初に観たときには、それは「径子がいなくなった解放感」からくるのだろうと思っていたのだが、繰り返し見て、もう一つの理由にはたと気づいた。ちょうど「さあ」の掛け声のところで、一羽のツバメがついと過ぎるのだ。おまけに、画面には映っていないけれど、セリフにかぶさるようにぴいぴいと鳴くヒナの声もきこえる。餌を求めるヒナのために飛び回るツバメの忙しさが、配給を求めて行列に並ぶすずの姿に重なっているのだ。

 刈谷さんに「はあ…なるほど」と新しい献立を教わるすずの頭上でも、またもやツバメがまたついと過ぎる。そのすばやい飛翔に魔法をかけられたかのように、すずの進む道ばたに次々と食べられる草が現れる。すみれ、はこべら、すぎな、たんぽぽ、かたばみ。もうこのあたりから、アニメーション屈指の名場面は実に調子がいい。

 さつまいもを切ろうとして包丁は少しく停滞し、中程まで入ってからすぱんと切れる。それが、さつまいも独特の質感と包丁に込められるすずの力を表している。微妙なスピード変化を表現する見事なコマ割り。そこへ、さつまいもの繊維を包丁が擦ってからまな板に当たる一瞬を鳴らし当てるように、すこん!といい音がくる。動きと音響によって、観ているこちらにも包丁の前にいる体感が立ち上がる。

 コトリンゴの音楽は、木琴のソロで始まり、冨田勲「きょうの料理」を思わせる音色で聞く者の耳を楽しませながら、三連符で転がるように昼ご飯の調理をあっという間に奏で終えるので、すずの芋餅づくりは実に愉快に見え、こんなに簡単なら自分でも作ってみようかしらと思ってしまうのだが、本当はたいそう面倒なのだろう(すぎなが入った餅がはたして美味しいのだろうか…)。

 昼ご飯が済むと弦楽器が入って音楽の気分は変わり、すずは「さあてまだまだ」と夕食の準備に入る。はこべのざく切りを加える所作で、まるでまな板のバイオリンを包丁の弓で奏でるかのように高みから鍋にざく切りを落とす。音楽はこの落下を祝するようにざっとピアノと弦で上昇する。高々と掲げられた手からはたんぽぽのざく切りがぱらぱらと落ちる。一片一片の受ける空気抵抗まで感じられる、行き届いた動画だ。

(図1: 『この世界の片隅に』上巻 p.115)

 そして、映画を見終わってからいつまでもわたしの頭にこびりつくように残るのが、ぴゅ~という音。ぴゅ~、とは、梅干しの種といわしを煮るときに後ろで聞こえるスライドホイッスルのような音のことで、これがぴゅっぴゅっぴゅ~と汽笛のごとく鳴っているのを思い出すだけで、梅干しの匂いがする湯気をかぐようで、ああ腹が減ったな、飯でも作ろうかなという気になる。鍋底から沸き立つあぶくまでが細かくアニメートされているのも楽しい。

 そしていよいよ「楠公飯」の場面。ここで音楽の上下動は少なくなり、この奇妙な名称の食べものが「待ち」の料理であることが感じられる。「火なしコンロ」にまかせる段になると、さきほどの「ぴゅ~」がきこえてきて、火のないただの新聞紙を敷いただけの「コンロ」から、幻の湯気でも立っているのかしらんと思われる。そして、翌朝、それを火にかけ直すだけといういたって地味な過程も、弦とピアノと木琴がそろい踏みで伴奏を奏で出すので、華麗なる調理のクライマックスが訪れたかのようだ。すずが釜の蓋を開ける所作には、ただゆっくり開けるというよりは、いったん蓋を押してからその反動でえいやっと持ち上げるかのような勢いがあって、待ちかねたように立ち上がる湯気も温かく、周到にもお父さんの弁当まで用意されるのだから、もうこれで十分アニメーションのご馳走をいただいた気分になる。


 マンガ版の楠公飯の回にも画面構成にさまざまな工夫が凝らされており、画面を読み解く楽しみがそのまま調理の楽しみに重なるようなのだが、それを逐一説明するのは野暮なのでぜひ原作をあたっていただきたい。ここでは、ちょっと瑣末だが興味深いことを指摘しておこう。それはいわしの干物の配分である。マンガでは、天井から食卓を見下ろすアングルが繰り返され、北條家の食卓の変化が図面でも見るように把握できるのだが、よく見ると、干物を夕餉に出すとき、円太郎とサンには一匹ずつが具されており、一方、周作には頭が、すずには尾の側が具されている。こんなところに、北條家の食事に老夫婦と若夫婦の間で差が付けられていることがさりげなく示されている。

(図2: 『この世界の片隅に』上巻 p.116)

 1+1+0.5+0.5=3。四匹のうち使われたのは三匹。では、残る一匹はどうなったかといえば、翌日の円太郎のお弁当に尾かしら付きで入れられている。円太郎の食事を思いやるすず渾身の力作だが、その下に敷かれているのは、なんと楠公飯。朝食のあと力なく家を出た円太郎は、はたして昼食の弁当にまたしても楠公飯が待っていることを知っているのだろうか。

(図3: 『この世界の片隅に』上巻 p.119)

 アニメーションが食事の場面に特に力を注いでいることは、20年8月15日の描写にも顕れている。原作は畑にいるすずを描いたところで終わっているのだが、アニメーションには同じ日の夕方の活動が加わっている。この日の夕餉のために、サンが大事にとっておいた白米を久し振りに炊くことになり、すずと径子がかまどの前で忙しく働く。ここで、実写では見られない変わったアングルが用いられる。ふいに画面が暗転してから明るくなると、湯気があがり、その向こうからすずと径子が覗き込んでいる。あたかも釜の中にカメラが仕込まれたようなアングルだ。

 二人の表情の変化から、観客の側にあるのはどうやら炊きあげられた白米であり、その出来は、二人の目を見張らせるほどであることがわかる。そして映画館にいるわたしたちは、見られている自分たちがまるで白米であるかのように、不思議と誇らしくなる。もし部屋で一人で見たならば、この「炊きあがった米粒のようなわたしたち」の感覚は得られなかっただろう。映画館の醍醐味である。


「アニメーション版『この世界の片隅に』を捉え直す」の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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