アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(11)こまい

アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(11)こまい

 こまい、ということばは懐かしい。

 子供の頃、呉出身の両親の知り合いたちと久し振りに会うと決まり文句のように「おおきゅうなったのう」「こまいころようあそんだのう」と言われた。「こまい」は、背丈の小さい人にも小さいものにも使う呉弁だけれど、わたしが印象に残っているのはこの「こまいころようあそんだのう」だ。たいていはそのあとに「おぼえとるか?」という問いがきた。わたしはなんとなく面映ゆく、居心地が悪くなった。その居心地の悪さというのは、自分がその人と遊んだことを覚えていないバツの悪さもさることながら、自分の外見の成長が、もう「こまいころ」のようには遊べないという感慨を相手にもたらしていることからきていたのだと、今にして思う。

 そうした思い出のせいだろうか、「こまい」ということばには、ただ小さいというよりは、どこか「成長によって失われてしまう子供の属性」がちょっぴり含まれている気がする。実際、誰かのことを「こまい」というときには、単に相手の小ささだけでなく、その人の動作のちょこまかとしたすばしこさや、そのふるまいからもたらされる愛敬に、感ずるところがあるのではないだろうか。

(図1:『この世界の片隅に』 下巻 p. 19)

 だから、周作が「すずさんは小まいのう」「立っても小まいのう」と言うとき、そこに物理的な小ささ以上の意味を読み取ってしまう。それは、しゃがんでも立っても変わることのないすずの属性を指しているようであり、それはかつて径子がすずのことを突き放すように言った「放っとき、まだ子供なんよ」ということばに含まれる「幼さ」に通じているようでもある。義父の円太郎が居なくなったあとに家を三ヶ月空けることになった周作は「大丈夫かのすずさん こがいに小もうて こがいに細うて わしも父ちゃんも居らんことなって この家を守りきれるかの」とすずの手を握るのだが、ここで「細い」という女手を思わせることばと組み合わされている「小まい」にも、ある種の非大人性が表されているように思う。

 そう考えると、周作を見送るすずが唇に紅をさす行為(第7回「紅の器」参照)に、「小まい」ということばに対する対抗を見ることもできるだろう。紅は、女性を強調する化粧であると同時に、子供のような属性を否定してみせる化粧でもある。

 しかし、呉弁に多少触れたことのある人ならともかく、そうでない人にこの「小まい」の感じは伝わるだろうか。まして漢字表記を用いることのできないアニメーションで、「こまい」という音から「小まい」という意味を即座に思い浮かべることができるだろうか。


 周作の「すずさんは小まいのう」ということばをきいて、わたしたちは、確かこれと似た言い回しを前にも見たことを思い出す。それはかつて水原がすずを抱き寄せながら言った「すずは温いのう」である。そしてどちらのことばも、すずの体に触れながら言われていることにも気づく。周作の言う「小まい」は、視覚的な小ささではなく、すずに触れその感触によって実感される体性感覚を言い当てている。それが、水原の「温い」を思い出させるのだ。

(図2: 『この世界の片隅に』中巻 p. 86)

 そしてこの二人の似たことばを並べるとき、わたしたちはもう一つのことに気づく。それは周作がずっと「すずさん」とすずをさん付けしているのに対して、水原が「すず」と呼び捨てにしていることだ。周作にとってすずは「すずさん/あんた」であるのに対し、水原にとってすずは「すず/お前」である。

 北條家に現れて自分を「すず」呼ばわりする水原に対して、すずは「キザもたいがいにし! すずすず呼び捨てしくさって」と言う。水原は「もう浦野じゃなかろうが」と反論するのだが、実はこの反論は、なぜ名前で呼ぶかには答えているものの、なぜ呼び捨てにするかには答えていない。水原は、彼女を「すずさん」と呼ぶ北條家に居ながら、彼らにならって「すずさん」とよそゆきの呼び方にするのではなく、あえて「すず」と呼ぶ。そういうすずと自分との近さを巧みに守っているのである。

 しかし、二人の人間の近さは、どちらか一方の振る舞いのみによって決まるわけではない。羽ペンを動かす手を止め、水原に抱き寄せられたすずの目に、ふと棚の上のりんどうの柄の茶碗がとまる。床に目を落とすと先ほどまで右手で持っていた羽ペン、水原がくれた羽ペンが落ちているのが見える。周作を遠ざけ、水原を近づけるはずの二つのものを見ながら、すずの右手はここにはない何かをつかむようにぎゅっと握られる。「うちは今 あの人にハラが立って仕方がない…………!」そして右手は、ここにはない何ものかの手応えを求めるように、蒲団をぎゅっと握りしめる。二人のやりとりの間に繰り広げられる、この右手のサスペンス!

 そして、すずの激情のあとに続くコマ運びにも、読者は何か不思議な感情を抱かされる。水原は、「あの人が好きなんじゃの」「あーあー普通じゃのう」などと言いながら、あっけなくすずの膝の上で膝枕をされるからだ。水原はさばさばした様子ですずを抱くことをあきらめながら、吹きだしが次から次へと進むその力に乗って、いつのまにかちゃっかりすずの膝にたどりついてしまうのである。

 おそらくこの場面を演出しようとした片渕監督は、マンガ通りの体の動きでは膝までたどりつけないと判断したのではないだろうか。アニメーションでは、まず水原は蒲団に対して縦にからだを投げ出してから、カットをはさんで少し時間を置いてから、膝枕をするすずと水原のショットを描き直している。

 さきほどまですずに迫っていた水原の頭は、いまやすずの小さな膝の上に乗り、両手で抱えられるほどだ。水原の独白は、幼い頃の記憶をたどり始め、男女の睦み合いのことばというよりは、子供の頃を懐かしむ大人のことばになる。

 二人の人間の近さは、どちらか一方のことばづかいによって決まるのではない。納屋で夜明かししたあと、すずは明け方に旅立とうとする水原に、なんと三点リーダ11個分の沈黙のあと、やっとこう言う。

(図3: 『この世界の片隅に』中巻 p. 89)

……………………………て」

 「て」とは何か。それはすずが手帳に描いた文字に記されている。しかし、すずは「て」で始まる名前を言うことなく、こう続ける。「……水原さん 羽 ありがとう……………」。相手を名字で呼ぶすずの距離に割り込むように、水原の吹きだしが隣から親しげに呼ぶ。「すず お前べっぴんになったで!」

(図4: 『この世界の片隅に』中巻 p. 90)

 すずは水原を見送りながらこう言う。「難しいわ 口に出すんも 顔に出すんも」。何を口に出すのが難しいのか。「思ったことを」というのが、穏当な答えだろう。しかし、わたしたちはそれが「て」に続く名前でもあることを知っている。

 なぜ難しいのか。その理由は、アニメーションではこんな風に声にされる。そのことばが子供の記憶と結びついていることは、呉弁を知らない人にもわかるのではないだろうか。

 「こまいころからあんたには、かんじんなことがいえんくせがついとんじゃもん」

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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