アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器

アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器

 アニメーション版『この世界の片隅に』を見ていると、マンガにそんなことが描かれていたのかと虚を突かれることがある。たとえば画帳だ。

 19年5月、径子たちが街に戻って再び食事の支度をすることになったすずは、刈谷さんから教えてもらった料理を試みるのだが、なぜか広島に帰ったときに描いた街のスケッチを広げており、めくると、続くページに調理法を描いた絵が現れる。この画帳は、すずが実家に帰ったとき父親にもらったおこずかいで買ったものだ。物資不足の時代だから、いくつものノートを使い分けるゼイタクはできなかったのかもしれない。それでも、街の景色も料理の方法も一つの画帳に収まっているのを見ると、すずの絵心の分け隔てなさが表れているようで温かい気持ちになる。すずにかかると、「かく」ことのもとですべてがそれぞれの価値を持っているかのようだ。

 おそらくすずは事あるごとに、こんな風に身の周りのできごとを画帳にしたためていたのだろう。そう思うと、のちに憲兵にその画帳が押収されてしまう場面は、あとで笑い話になるとはいえ、なんともかわいそうに思えてくる。

 はて、すずは画帳に料理のメモをしていたっけ、とマンガを読み直すと、あったあった、第8回、配給所のそばで刈谷さんの話をききながらせっせとリング付きの画帳にメモしているすずの姿が描かれている *1。

(図1 上巻 p. 113)

 ちなみに、第8回の冒頭のコマは鉛筆で描かれており、コマの上にはリングが付いている。おそらく片渕監督はこれらの手がかりをもとに画帳の演出を考えついたのだろう。マンガに忠実な表現とも言えるが、じっさいに広島の街をめくられ次に野草の調理法が現れるのがアニメーションになると、何か新しい詩でも見ているような気になってくる。


 20年5月、兵隊へと配属され、三月(みつき)は戻れないという周作に寝顔を、すずは周作からもらったノートに鉛筆で描いている。「どれ見してみ」と言う周作に、すずは「いけんいけん こりゃ重要機密じゃ……」と応じてから、愛用する木口かばんにノートと鉛筆をしまう。

 次の朝、同じ木口かばんからすずは、丸い紅入れを取り出し、右手の指で唇に紅を引く。とても印象的な場面だ。木口かばんという同じ器から出し入れされることで、ノートと鉛筆、そして紅は、あたかも同じ種類の道具、すなわち「かく」道具であることを感じさせる。そして、そのことはマンガの読者に、ある痛みを感じさせもする。すずの唇に引かれた紅はリンの、そしてテルのことを思い出させるからだ。

(図2 下巻 p. 26)

 アニメーション版で原作のリンのエピソードが削られていることは、すでに多くの人が指摘しているが、もう一人、アニメーションにはほとんど描かれない重要な人物がいる。それはテルだ。テルはリンと同様、朝日遊郭にいるお女郎さんである。リンの不在時に遊郭を訪ねたすずは、親切なテルにリンの行き先を教わるのだが、テルの手首にまかれた包帯に気づいたことをきっかけに、彼女の身の上に起こった思いがけない事件を知る。テルは彼女に言い寄った「若い水兵さんにくくられて境川へ飛び込んだ」というのだ。寒い冬の川に入ったおかげでテルは風邪をひいている。「うちゃ冬は好かんとよ」という(どうやら呉ではなく九州の生まれらしい)テルのために、すずはりんどう柄の椀に雪をとってきてやる *2。そして、雪道のお伴に持ってきた家から持ってきた竹で、南の島の絵を雪の上に描いてやる。その竹はおそらく、周作とリンの秘密に気づいたときに切ってきた竹だ *3。

(図3 中巻 p. 112)

 すずは、単に絵を描くことが好きなだけでなく、誰かに宛てて絵を描くことが好きな人だ。あわただしい嫁入りの日に、出征した兄のためにその日の膳をはがきに描いて送った。リンのために、すいかとわらび餅とはっか糖とあいすくりーむの絵を描いてやった。水原にもらった羽でサギを描いてやった。下関にいるという径子の長男久夫のために軍艦を描いてやろうとした(そのために、憲兵に画帳を取り上げられることになった)。広島の街をスケッチするときですら、すずはこう呼びかけずにはいられない。「さようなら 広島」。そしてテルには南の島。すずの右手が描く絵には、まるで手紙のように宛先がある。

 春、二河公園に花見に行ったすずは、偶然再会したリンから、テルの死を告げられる。テルは風邪をこじらせ、肺炎にかかってしまったのだった。リンはテルの使っていた口紅を紅入れとともにすずに渡す。そして、謎めいたことを言う。

 ねえすずさん

 人が死んだら記憶も消えて無うなる

 秘密はなかったことになる

 それはそれでゼイタクな事かも知れんよ

 自分専用のお茶碗と同じくらいにね

 「自分専用のお茶碗」とは、すずがリンにあげたりんどう柄の茶碗のことを暗に指しているのだろう。しかし、わたしはこのことばを、茶碗とは別の、もう一つの器と結びつけたくなる。というのも、桜の樹の上でりんどう柄を着たリンを見送りながら、紅入れの蓋を開けるすずの手は、ふとテルの姿と交錯するからだ。それだけではない。リンはどうやら桜の下で周作らしい人影と出会い、ことばを交わしており、すずはその様子を垣間見ている。紅入れに桜の花びらがひとひら落ちる。すずはいま、頭に過ぎったこと、目の前で起こったことをすべて閉じ込めるように、花びらをのせた紅の蓋を閉じる。まるで記憶の器をそっと閉じるように。

(図4 中巻 p. 136)

 20年5月、紅入れの蓋を開けて紅をさすとき、すずはそのような記憶の器を開いた。テルを開き、リンを開き、リンと周作の束の間の時間をも開いたのだ *4。

 周作を笑顔で見送るすずの唇には、リンもテルもいる。それでもすずは周作に宛てて「かく」ことを止めることができない。木口かばんには、周作のくれた鉛筆とノート、水原からもらった羽、そしてリンからもらったテルの紅が同居している。「かく」ことのもとですべてがそれぞれの価値を持っているかのように。

*1 第8回では、それぞれの材料が下ごしらえされ、料理へと運命づけられていくさまが、まるでクリス・ウェアの描くピクトグラムのように図解されている。これらの絵解きは鉛筆描きされているわけではないが、すずの画帳の中身を想像させて楽しい。
*2 わたしはここで宮澤賢治の『永訣の朝』を思い出してしまう。
*3 アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(6)笹の因果を参照。
*4 アニメーション版ではテルの姿は描かれない。しかし彼女の気配はしている。すずが紅をさす場面では、マンガ同様、紅入れに桜の花びらが入っている。また、のちのある場面では「四月にはテルさんの紅を握りしめた右手」という独白が為されている。

『アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す』の一覧
(1)姉妹は物語る
(2)『かく』時間
(3)流れる雲、流れる私
(4)空を過ぎるものたち
(5)三つの顔
(6)笹の因果
(7)紅の器
(8)虫たちの営み
(9)手紙の宛先
(10)爪
(11)こまい
(12)右手が知っていること
(13)サイレン
(14)食事の支度
(15)かまど
(16)遡行


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