ほりのぶゆき インタビュー(代表作『江戸むらさき特急』『旅マン』『三大怪獣グルメ』) 人生を狂わせた伝説の「相原賞」から〝マゲモノ〟漫画道を往く。 我こそが〝侍ジャパン〟の祖ナリ! <前編>

ほりのぶゆき氏

 

 お侍はつらいよ! とばかりに、無理難題や世知辛い世相が城中、城下に襲いかかる。ちょんまげとはネクタイのことと見たり!ーー。あらゆる世事を”お侍フォーマット”に落とし込み、ツッコミを入れまくり、独自のアイロニカル喜劇を世に放ちつづける、ほりのぶゆき。スピリッツが産んだ謎の登竜門「相原賞」を足掛かりに、えっさほいさと走り続ける爆才の心中にすり足で忍び寄る110分ー。(お侍以外にも、怪獣や旅の話も出てきます!)

(取材/文:すけたけしん)

 

知らないうちに兄が勝手に応募してデビュー

__ほりのぶゆき先生は、漫画家デビューに複雑な経緯あり、と伺いました。

漫画界で僕ひとりだと思うんですけど、デビューの仕方が変。「お兄さんが勝手に送ってくれたことがきっかけで、デビューしました、そんなつもりはなかったんですけどぉ~」っていう。

__(笑)。

それ、モー娘。だけかと思ってたら、僕もそうだったというね。

__ちょっと詳しくお話しいただけますか。

そのころ、大学の何年生だったか、落第と留年で数が多くなっていたんです。法政大学の漫画研究会でした。そこで何代目かの会長も務めました。その漫研時代に描いてたやつを、持ち込み用に持っていて、兄にも一部、渡していたのだと思う。
『人間五十年』ってやつです。そしたら、「相原賞、に出しておいたよ~」と連絡があって。

__「ビッグコミックスピリッツ」の新人賞、相原コージさんの名前を冠した「相原賞」ですね。そしたら、「金のアイハラ賞」を受賞されて、デビューしていくということに。

そうですね。あの年、1989年は色々な歴史的事件があったなあ(遠い目)。まず、昭和天皇の御崩御が1月、手塚治虫の逝去が2月、そして私のデビューが3月…、うむ。

__ここでいきなりゲストにご登場いただきます、ほりのぶゆき先生の原稿を勝手に送った張本人、兄の堀靖樹さんにお越しいただいております。

  兄です。

__当時を振り返ってください。

 はい。私は大学を卒業して小学館に入社し、「少年サンデー」に配属されておりました。隣の編集部が「スピリッツ」でした。それで、ある夜、バタバタしているんです。何事で慌てているかと察すると、誰かの原稿が落ちるようで。「どうすんだ、ページ空いたぞ!」なんて始まってるわけです。

__週刊誌の鉄火場ですね。

 当時は、簡単にダイゲン(代替原稿)で埋めるという習慣がありませんで、ギリギリまで粘って、それで落ちる、と。短時間でなんとか穴埋めページを作らなきゃいけません。それで、とある編集者が「新しい漫画賞をやりましょう!」と切り抜けたのが、そもそもは相原賞の誕生秘話なんです。
あの時代は、編集部のブースに行ったら、深夜であろうが誰かしら腕こきライターがいましたから、竹熊健太郎さんを捕まえて、「ここをなんとかそういうので埋めたい」と言ったら、「よしわかった、デザイナーに連絡だ!」なんて、とんとん拍子で、面白いページが作られた、ということです。

↑「ビッグコミックスピリッツ」1987年(昭和62年)11月9日発売号誌面にて、『相原賞』の創設が発表された。
応募要項には「するめにしょうゆで描いてもいい」「この企画はスピリッツ編集部には認められてない」の文字も。
審査員は、相原コージ(当時24歳)、竹熊健太郎(当時27歳)、いとうせいこう(当時27歳)。

__おお!

 それでですね、堀家としては長男である私のところに、以前から母より「あの子(のぶゆき氏のこと)はどうしたらいいんだ?   単位があともうちょっとなのに大学卒業はどうなるのだ?」など、よく電話がかかってきておる背景もありまして。手元にあった『人間五十年』を、応募要項に従って、「ええい、送ってしまえ~」と、応募したというわけであります。

__お兄様、解説をありがとうございます。運命を変える投稿でございました。では、のぶゆき先生に戻りましょう。

のぶゆきです。

__相原賞の前も漫画は描いてらしたんでしょ。漫画家を目指しておられたんでしょうか。

福武書店で教育漫画を描くバイトをしたことはありました。あとはアリス出版とかね。あのころ(80年代半ば~後半)は、版元の編集者が大学の漫画研究会を回って描き手を探していたんだろうね。そんな中で「やってみない?」という話があって。

__ここに、当時、漫画研究会時代のサークル誌をお持ちいただきましたが…。ページをめくると…女の子もたくさんいて、楽しそうじゃないですか! 合宿とか!

入った当時の幹部の方が、大学生らしいことをしようと運動した影響ですね。それはそれで間違いだったと思いますけどね、なんかね~。大先輩にお宅キャラタレントの先駆けの方がいて、その方のキャラが強すぎて排斥する運動がありまして。その反動か、私の入ったころはナンパ路線。振れ幅が極端!

__その時代に描かれた『人間五十年』が「スピリッツ」に載ったのがプロデビューですか。

そう。青天の霹靂。どうしていいかわからない。どうしていいかわからない。

__二度、言いましたね(笑)。

ふと我に返ると、「漫画の描き方がわからない!」と思って。

↑相原賞受賞作となった、『人間五十年』(一部)。©ほりのぶゆき

__先生、賞金は何に使いましたか。

賞金はあったのかな。5000円くらい貰ったのかな、記憶にない(笑)。仏像をもらいました。仏像型のトロフィー。表彰式もありましたよ。しかし、この賞をきっかけに30年以上も仕事するやつが出るとか、誰も思っていなかったのではないか!   あ、俺だ!

__「相原賞」はその後もかなりの高打率で才能を輩出していて、1988年から 1990年のあいだに5回も行われています。藤野美奈子さん、榎本俊二さん、三好銀さん、本秀康さん、中尊寺ゆつこさん…。

む?  死亡率高し、このリスト。魔のリストですか?  それはともかく、5回経ったあたりで鉱脈ねーなと気づいたんじゃないですかね。正しいと思うよ。

__『人間五十年』で始まった先生の漫画家人生は、どう進みましたでしょうか。

受賞作掲載ってのが「スピリッツ」であって。担当編集者が決まりましてね。それから「『信長図鑑』って漫画をやりましょう」となりました。俺に、信長カラーがついちゃってっから(笑)。まさかつくと思わなかった、そんなカラー。

__「信長で行きましょう!」となったんですね(笑)

時代劇は好きなんです。だって、みんな時代劇のことを知ってるじゃないです  か。なんとなく知ってるでしょ。だから漫画でやってもみんな面白いと思ってくれました。私がやったのは、今でいう「異世界もの」みたいなものなんです。

__そっか! 「ほりのぶゆきは異世界ものの走り」だったのか。先生、気づかなかったです。

当時はゲームで、国盗りゲームをやってたり、大河ドラマを見てたりするから、みんななんとなく知っている。でも「なんとなく」なだけで、江戸時代だか何時代だか、ほんとはちゃんとはわかってないし。ちょうどよかったんだよね。
時代劇を舞台にすると、ひねらずとも、時代劇でよくあるシチュエーションを描くだけですでに面白かったんですよ。細かいことを指摘する人があまりにいなかったしね。

__国民の気持ちとぴたりと合ったのかもしれません。

こっちは留年を重ねて、人生ダメダメな時代で。「そんなこと知るか!」と言いながら、家のテレビで時代劇ばっかり見てるわけですよ。

__はい。ということは、「留年したから」→「 昼から時代劇を見ている」 →「 信長の漫画を描く」という三段論法だったんですか。

実家でね。

__それは結構ハードな居心地じゃありませんか(笑)。畳というか、むしろというか、針というか。

母には多少気遣いながら、時にはテレビの音声だけが拾えるラジオで、時代劇を聞いたりしてね。親父は単身赴任で大阪へ行ってて。あゝ、こんなことやってて、人生どうなるんだろうと思ってたけど、のちに役に立ちましたからね、これが(笑)。人生、わからないものですな。

「侍ジャパン」の発端異問

__あのころ、1980年代半ばから後半にかけては、ギャグ漫画が一気に世に出て花開いた時代ですよね。

考えたら山のようにあったね。そのちょっと前の時代が、いがらしみきおさんが『ネ暗トピア』で切り拓いた黎明期で、そこを相原コージさんが『コージ苑』『かってにシロクマ』なんかでぶち抜けていったんです。私が出てきたのは、過渡期に入ったころかね。各出版社が鉱脈を探し始めてた。『伝染るんです。』の吉田戦車さんがいて「スピリッツは後ろから読むのが通」ということになってました。

__「ヤングサンデー」には喜国雅彦さんの『傷だらけの天使たち』がありましたし、どんどんとギャグ漫画の才能が世に出てきました。

キクニさんは真面目な人で、どっちかというと本筋はギャグではないんだけどね(笑)。
私は、吉田戦車さんと特にご縁がありました。彼が「スピリッツ」の前に、「コミックバーガー」(1986-1994/スコラ社)で最初に売れ始めたときに、スコラ社で発送のバイトをしていたんです。うちの漫研の先輩がそこの編集部にいて。その人が、私が漫画を描けることを知っているので、「吉田さんとこに手伝いに行って」と言われて、行きましたね。なぜだか、「法政の(漫研の)やつはいい、描ける」ってことになっていて。

__アシスタントとして。

ええ。それで、吉田さんの仕事場に行ってみたら、雰囲気がすごく良かったんですよね。それまで、うちの漫研から漫画家になった先輩で近いのは、ながいのりあきさん(『がんばれ!キッカーズ』)で、「ザ・漫画道!」みたいな人が多かったんだ。すごく漫画に厳しかった。寝ないし。そういう話を聞いていたので漫画家の世界は全部がそうだと思っていたんだけど、吉田さんの描いているサマを見てると、大変な感じがしなかったし、漫画家はモテるなとちょっと思った。戦車さんは年齢はひとつ上なので、普通のお兄ちゃんみたいな感じ。それで、漫画家っていいかもなと希望を持ったのです。

__「漫画家」の佇まいも変わっていく時分だったんですかね。当時は、みなさん、横のつながりはあったんですか。ギャグ漫画家たちの。

若林(健次)さん(『ドトウの笹口組』など)の野球チームがあって、そこに新進気鋭の漫画家がみんな集っていました。知る人ぞ知るドーバーズね。とがしやすたかさん(『青春くん』『大人の青春くん』)がいて。ドーバーズは女性漫画家さんも応援に来る人気チームでね。うちの嫁さんになるひとも来てたしね。水島新司さん率いるボッツや人力舎にボロ負けして、その後、楽しく飲むという。

__野球には勝てないけれど、お酒は美味しそう。そして、共通言語としての「野球」というのも味わい深いですね。

そうそう、朝倉(世界一)くん(『山田タコ丸くん』、のちに『フラン県こわい城』など)も界隈にいて。当時から髪の毛に色がついていて、鬼才感がすごかった(遠い目)。近寄り難い感じだった。この人と同時代に同列にやっていくのは普通にヤバい、と思いましたね。
そうこうしてると、ヤングサンデーで『もののふの記』が始まったんです。山田玲司くん(『Bバージン』など)が仲良くしてくれて、一緒にスキー行ったりしたね。

__スキー? 意外!

ちょうど『私をスキーに連れてって』が流行ったし。

__流行りました。1987年、ユーミンと原田知世と三上博史! あのころは全漫画家がスキーに行ってたんですね。全て…かどうかはともかくですが。

そうですね(遠い目)。やがて、私は、自分の漫画がなんとか軌道に乗ったように見えて、大学を辞めちゃうというね。親の立場になると、心配をかけたなと思いますね。人生の行先が不明であったある日、僕が酒を飲んで酔っ払って帰ったとき、頭に花がついてたというんです。それを見て、「この子はどうなるんだろう」と母が泣いたと言います。花見だったから、桜が乗っかってただけなんだけどさ、泣いたってさ。

__桜花のペーソス!

漫画家になる前は、母を泣かせましたね。時代でいうと、1990年前後はとにかく、増刊号がよく出た時代ですよ。雑誌が売れていたからね。だから、「スピリッツ増刊号」で後先考えずに何かを描いているうちに、後ろに繋がっていたんでしょうね。あそこで止まらずに行けたのがよかったです。そうして「スピリッツ」で『江戸むらさき特急』が始まるんです。

↑『江戸むらさき特急』で “ほりのぶゆき史観” の諧謔の精神が世に発信されていく。 ©ほりのぶゆき/小学館

 

__お侍本線が走り始めた。これで、完全に路線に乗った、と。絶妙なボケを見立てて、ほりのぶゆき先生がツッコむスタイルが確立されていくのでしょうか。うっかり八兵衛、眠狂四郎、遠山の金さん、銭形平次、江戸の黒豹、三匹の侍……など豪華な布陣で。

僕はもともと、「俺のモノを見ろ!」って思いがないですからね。だから、そこらにあるものを、載せていくというかね。だから…、なんか罪悪感がありました。俺の漫画、世に出てていいの? という感じでしたよ。

__とはいえ、信長カラーでキャリアが始まったせいか、おかげか、『もののふの記』『江戸むらさき特急』とチョンマゲ路線の線路が敷かれて…   のちの、ターミナル駅のような名著『まんが版 武士の歴史 お侍の隆盛と衰退』『まんが版 武士の歴史   お侍の誕生と現在』(いずれも2017)まで行き着くわけですね。

そうですね。漫画家になったときから、『武士の歴史』をいずれ漫画で描きたかったのかもしれませんね(遠い目)。その本のインタビューでも話しましたが、 1993年の日本サッカー代表、のちに「ドーハの悲劇」と呼ばれた最終予選を見に、カタールのアルアリスタジアムに行ったのですよ。当時の私は、さほどサッカーには興味はなかったのですが、旅が好きだったから、魅入られるようにドーハに行ってしまった。

__魅入られるように?(笑) ニッポンが、初めてワールドカップ(アメリカ大会)に初めて出られるという最終予選でしたっけ。

はい。話はドーハに飛んでいい?

__もちろんです。

弾丸ツアーという物の走りがありまして。「スピリッツ」の漫画家を誰か行かせようみたいなことになって、粗末に扱ってもいい漫画家として選ばれたんだったかな。

__ああ、ほりのぶゆき先生がドーハの悲劇の現場にいる、と想像しただけで、すごいヤバいことが起こりそうな予感がします(笑)。はい、結論から言うと、やったぜ、行けるぜ、初出場だぜ!と思っていたら、後半ロスタイム90分20秒のところで…「審判、早く笛を吹けよ!」って全国民がこぶしを握りしめているところで、同点ゴールを決められて。出場ナシよ、となっちゃいました。日本でテレビを見ていた、サッカーファン、および、ニッポンファンは、ずっこけました。

そうそう。覚えてる? あのときですね。現地のスタンドでね、…世界広しといえども、当時、ちょんまげ姿で応援をしているのは私ひとりでした。

__「世界で、ちょんまげ姿でサッカー代表を応援した初めての人」は、ほりのぶゆき先生なんですね。

そうです。それで、スポーツ雑誌「Number」に写真を撮られて、「悲劇にうちひしがられるサムライの絵」として雑誌に載って広まった。私が、ガラガラのスタジアムで徒労感で肩を落としてがっくりと座っている「落胆するサポーター」として取り上げられたんです。

__爆!

以降、お侍の格好で、日本代表を応援する文化風習が広まっていくことになっていったのです。

__爆爆!

ところが、裏話がありましてね。ここで初めて秘話を開帳しますが、私がちょんまげで見ていたのは、あの同点ゴールをくらった試合ではない。ひとつ”前の試合”なんです。そして、負けて試合後にガッカリしている場面ではなくて、試合前にぼーっとしているところを撮られた、が正しい! 「Number」はとても面白い文脈をつくりましたが、そういう姿勢はよくないのではないか!

__はははははは! ……とはいえ、とはいえですよ!

そこから、日本代表サッカーチームは「サムライブルー」と呼ばれるようになっていき……。いつぞやには野球の代表は「侍ジャパン」となった。全ての発端は私なのです。

__偉業です。異形の偉業! ほんとに。笑うしかないですね。

侍と日本、ならまだわかる。侍とニッポン、のカタカナを経て、侍ジャパン、まで行っちゃいましたからね。それでも、なんだかしっくりきてしまう我々。バカっぽいけど、のっちゃおうぜ!というメンタリティー。これは「武士の魂」そのものなんです。見事に意味はないけれど、形だけはある。これです。「ちょんまげがあればいいのだ!」。そういう思いを描いてきたわけです。

__お見事です。この「ほりのぶゆき史観」が、日本カルチャー史に刻まれていくという。『まんが版 武士の歴史』の2冊は、ほりのぶゆき渾身の大著。現代日本がスルスルとよくわかる一冊となっています。そういえば、この本は発売のときに…

そうね。書店の漫画のコーナーじゃなくて、児童学習書のところに並んでたという。書店員さんがどこに並べるかお迷いになったのでしょう。そりゃ、学習マンガみたいな装丁にしたけどさ(笑)。

__パロディ精神が現実を超える現象すら巻き起こしました(笑)。以下、後編に続きます!

 

ほりのぶゆきプロフィール
1964年10月16日、兵庫県神戸市生まれ。幼少期より漫画に親しみ、大学では漫画サークルに所属。会長を務めるが、学業は後手を踏み、留年を繰り返す。そうしていた1989年、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)のギャグ漫画新人賞「相原賞」で「金のアイハラ賞」を受賞。これをきっかけに『人間五十年』で漫画家デビュー。時代劇を舞台とした武士のペーソスや、怪獣、特撮、旅などを主戦場に、ショートギャグ漫画を描き続ける。画業は40年を迎えた。現在は「アサヒ芸能」(徳間書店)で『お侍トピックス』を軽快に連載中。NOTEで綴る『猫道 -NEKO  DOH-』も美味。

 

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