どこにでもいる童貞の高校生が、エッチな妄想に胸焦がれ悶絶する4コマ漫画、その名もズバリ『青春くん』の連載が始まったのは1989年。平成になったばかりの晴天のニッポンに舞い降りた性典であり聖典。「ヤングサンデー」(小学館)で19年間連載した後、休刊後も『新 青春くん』と改題して生き延び、2008年、平成20年からは「ビッグコミックスペリオール」(同)にて『大人の青春くん』に成長、令和の現在もさらに力強く連載が続いているのだ。合計、34年である。34年後の現在の青春くんは社会人になった。それでも、エッチな妄想に胸焦がれ悶絶しているのである! 作者の「とがしやすたか」が『青春くん』とともに乗り越えてきた”時代の荒波”を振り返りながら、…主語が「僕」になったり「オレ」になったりしながら…、フォーエバーヤングな”生命力”を語り尽くします。(文中一部敬称略)
(取材/文:すけたけしん)
井上雄彦チームにトリプルスコア?
__とがし先生といえば、スポーツマンです。野球、バスケ、バレーボール、テニス、ゴルフ…をなさって。よく遊ぶといいますか、よく体が動くといいますか、漫画からは想像がつかないほどの、スポーツ万能漫画家さんのイメージです。
なー。そんなことないっスよ。まあやってはいますけれど。こないだ酔って、雨降って、チャリで転んで、肩をヤっちゃって。テニスはお休み中。…というか、夏のバスケットボール日本代表、すごかったね。いよいよ日本でバスケが盛り上がってきたね。W杯で盛り上がるわ。Bリーグも注目を集めるわ。井上さんはホントすごいですね。
__「井上さん」って、井上雄彦さんですね。『スラムダンク』の。
そうそう。オレが32~3のときかな。井上さんや彼のアシスタントの皆さんが20代前半のころ、一緒にバスケをやってたことがあるんです。
__バスケ仲間ですか。
あとは、山田玲司さん(注:『Bバージン』『絶望に効くクスリ』などの漫画家)のチームもあって。僕、中学がバスケ部で、一応キャプテンでした。弱いチームだったけれど、勝手にひとりで体育館でシュート練習してた。必死になって家でこっそりドリブルを腰の後ろで回す練習をした。あれ、僕が発明したと思ってた(笑)。開発した技を先輩の前でためしたら、「舐めてんじゃねえ!」と蹴られた(笑)。まあ、そんな下手くそが大人になって集まってね。バスケチームをやってたんっスよ。
__草野球ならぬ草バスケですね。
最初は酒の席で「バスケがしたい漫画家がいるので試合して」と誰かに頼まれて、寄せ集めで行ったら、バスケがしたい漫画家ってのが井上さんで。井上さん以外のメンバーはアシスタントさんや、彼らの高校のときのバスケ部の人たち……ガチチームでね、トリプルスコアで負けました(笑)。
そしたら、うちのチームの山本直樹(注:『レッド』『BLUE』『あさってDance』『ありがとう』などの漫画家)が「悔しい! リベンジだ!」と言い出して(笑)。
__漫画家バスケ対決!
そうです。オレが「いくらやっても勝てねえ」つってるのに。それでもなんとかしようということになって、ちょっと上手い同級生の元バスケ部を数人呼んで、作戦もガラッと変えたんです。井上さんは、いいシューターでね、スリーポイントシュートがバスバス入るんです。よく走りますしね。「こっちはゆっくり攻めよう。勝てるのは体のサイズだけだ!」って。つってもデブなだけなんだけどさ(笑)。で、勝ったんですよ。
__おお! 執念!
それをきっかけに、一緒に練習をしましょう、定期的に試合しましょうということになりまして、井上さんのチームと、オレらのチームで、笹塚あたりの中学校の体育館で週一で練習するようになったんです。山中湖に合宿も行ったんだよ。練習がキツくて、ダッシュ&バック(注:前ダッシュ、後ろダッシュを繰り返す、バスケ部特有のしんどい練習)の最中に、オレ吐いた。前夜はゴーカイに酒飲んでたから(笑)。
__いや、当時とはいえ、体力ありすぎでしょー!
で、晩飯を食べた後に体育館に戻って3ポイントシュートの自主練。夜中にやってたんだから。
__それって本当に、ただのバスケ合宿じゃないですか。
漫画の話に行く前に、もう少しバスケの話していい?(笑)、その合宿が本格的だったという話で…。大学のバスケ部だった選手が来たりなんかして。コーチをしてもらってさ。そんなことがきっかけでバスケ熱が高まってね、いろんな出版社や漫画家や、10チームで、バスケの草リーグみたいなのをやってたんっスよ。1か月に1試合あって。優勝チームや得点王を決めて。トロフィーを渡したりして。10年まではもたなかったけどね。
__とがし先生は背番号は何番だったんですか。
オレは背番号4をつけてた。
__ああ、キャプテンのナンバーですね。
そうなんだけど、集まる選手レベルが上がるとオレの出る幕がなくなっちゃって、いつもベンチで面白くなくなっちゃった。そこが草野球と違うところでね。出たいものだから、最初のころは「オレのチームは30オーバー限定!」と決めたりね(笑)。けど、「30です」と嘘をついて26のヤツが入ってきたりさ。
「月刊バスケットボール」の元編集長の島本和彦さんが、あるとき日本代表を4人連れて来て、一緒にバスケやったことがありますよ。
__本格的(笑)。
ものすごく上手くて、ビーーーーーっくりしました。ガードがうちのセンターと同じサイズで、さらにものすごい速い。次元が違いすぎてクラクラするんですよ。で、「あんなの(助っ人に)呼んで、どうなんっスか!」と島本さんに文句をいったら、笑いながら、ふたりこっちに貸してくれて。
__このインタビュー記事、「バスケットボール・アンバサダーが熱く語る!」…みたいな順調な滑り出しです(笑)。
とまあ、バスケットボールには思い入れがありますからね、2023年の夏、沖縄でやってたバスケワールドカップは、すごすぎて。本当にすごすぎて。感動しました。よく勝ったよ、日本代表。よかった。試合全部見たよ。井上さんが『スラムダンク』を描いたおかげも大きいですよね。よくぞ、ここまで来たよー。めっちゃ興奮しましたよ。
__バスケは今はやってないんですか?
やってないですね。いまはゴルフ、それとテニスかな。つっても肩をやっちゃってからあんまり行ってないし。出不精ですよ。最近は、毎日うちでゴロゴロしてるんですよ。誘われなきゃ出て行かないから。
でも運動しないとデブっちゃうからね。いつもの仲間でゴルフに行っても、オレだけ体力ないんですよ。普段は酒飲んで家で寝てるからか。仕事少ないから💙 暇だから(笑)。
その分、酒はスゴい飲んでます。昔は忙しかったから飲む時間がなかったけれど、いまは飲む時間があるから。毎日7時間~8時間の睡眠時間で、酒は6時間~7時間。
__! となると、円グラフにすると…スゴい「わたしの24時間」っスね。
そうですよ。夜の7時から、8、9、10、11、12、1、2時。コロナからこっち、家でひとりで楽しく映画を観ながらウイスキーを飲んでいます。ハイボールは1杯までと決めています。美味しくてたくさん飲んじゃうからね。とにかくおいしくなくしようと努力して、氷も入れず、水で割って飲む形に行きつきました。ゆっくりチビチビ飲んでます。だって、氷、入れちゃって、ソーダなんか入れちゃった日にゃ、グイグイ行っちゃいますからね、ほんとに。だからスペリオールの謝恩会なんて行ったら、美味しい酒が出るから、わんこそばならぬ、わんこ酒になっちゃいます(笑)。
「とがしタッチ」は、「藝大タッチ」だった?
__よもやのバスケットボールのつかみから、本題へ、話を『青春くん』に向けて参りましょう。青春悶々漫画の金字塔です。連載30年をゆうに超えたという! おめでとうございます。
ありがとうございます。
__『青春くん』とともに、青春を過ごした読者もたくさんいると思うんです。座右の書みたいに。
そんなわけないでしょ!(笑)
__というわけで、とがし先生が、いかにして『大人の青春くん』を描くようになったか、を前編。令和のいま、『青春くん』をどう描き続けているのか、を後編で、このインタビューをやってみたいです。
はい。どっから行きます? 中学のバスケ部の話から行きますか?(笑)
__もっとさかのぼって、子ども時分からいきましょう。
僕は、東京のちょい北の方の生まれ育ちなんだけど、子どもの時は、野球選手になろうと思ってたんです。『巨人の星』の影響ですね。なれなかったら漫画家になろうと思ってました。小学校のときは家の前で三角ベースを毎日やっていて、年間50本くらいホームランを打っていてね。小6のときは、隣のにいちゃんの豪速球を、毎日100球くらい受けていました。
__パワフルですね。運動は小さいときから得意だったんですか。
得意というか……ちっこいころから柔道をやってたので、体育と図工だけは得意でした。そんで、中学は、なぜか野球部がなかった学校だったからバスケ部に入りました。
__それで、中学バスケ部のキャプテンを務めて。
そうですね~(思い出している)。それで、高校に進学するときに、受験で全部の高校に落ちたんですよね。勉強できなくてね。二次募集で制服のない不思議な私立高校にやっと受かりまして。そのときは、もしも高校に行けなかったら、どこか漫画家に弟子入りしようと思っていました。
で、高校は念願の野球部に入って。野球のプロを目指すんですけど、1週間で「これは不可能だ」と気付きまして(笑)。「そしたら漫画家か」と。新聞広告にあった、通信教育で絵とデザインを教える講談社の「フェイマススクール」を見て、ハガキに絵を描いて送ったら、営業マンが家に来たんですよ。
__大きな転機ですね。
「やりませんか」って買わされて。やってみたら、あんまり面白くはなかったんだけど、送ってきた小冊子を読んでみると、「そっか、みんな美大とか行くのか」と知りまして。そこで、野球部を引退した高3の夏に、美大の予備校に行き始めました。
__おおお。
そしたら、案の定、早くからやってる人はみんな上手くて、オレは絵がいちばん下手(笑)。そんでも、えらいもんで、一所懸命描いているうちにだんだん良くなってきたんです。そこで、東京藝術大学を受けることにしたんです。そしたら、一浪目に結構いいとこまで行った。最終まで残ったんで、…勘違いしちゃった。「あと一息でゲイダイ入れるじゃん」って。
__展開がすごすぎますね。とがし先生の人生は、電光石火かつジグザグといいますか!
高校の時は弁当しか持っていかなかったんですけどね(遠い目)。
__絵に描いたような、勉強しない子だったんですか。
弁当&野球。変わった高校だったんっスよ。制服がなくて私服だったし。だから甚兵衛を着て通学するヤツもいたし、スリーピースにネクタイ姿のヤツもいました。知ってます? それってヤンキー対策なの。スーツを着てると絡まれないから。あとは、校門にキャバ嬢みたいな先輩がいて、赤青黄色のボディコン着て。タクシーを呼んで帰っちゃうとかね。何者だったんだろう、あの人たち(遠い目)。「だめだー、この学校!」と思いながら、楽しく通ってたわけっスよ。
それで、オレは絵がイケるのかもと思って、何年も浪人して…後に退けなくなっちゃって… 藝大受験生の身分から、漫画家になっていくんです。
__東京藝大は何回受験したんですか?
油絵を受けてたんだけど…。三浪目を落ちる前に、たまたま募集告知を見つけた、劇画村塾(以下、劇村/読み:ゲキソン)に入ります。そこから、四-五-六浪。
__六浪!!!!! それ、立浪と見間違えますって!!!
五浪目は申し込み忘れて受けてないけど。
__どゆことっスかー!!
まあまあ。途中からは、六本木のクラブや防水工事の現場でバイトしながら美術予備校や油絵教室に行ったりしつつ、劇村に行っていました。25歳まではざっとそんな感じですね。
__三浪目というと、21を過ぎたくらいですか。とがし青年が、小池一夫先生が主宰する漫画家養成塾「劇画村塾」に入るのは。
そうですね。三浪目の藝大を落ちたとき、「そうだ、あれがあった」と思い出した。劇村の募集。その年、劇村の試験の課題が「わたしの24時間」だったんです。ところが気づいたときには、応募締め切りまで3日しかなくて、「漫画を描くのは無理だ。でも作文なら間に合う」と思って。漫画コースじゃなくて、原作コースで受験したんです。原稿用紙2枚、800字だったから。
__どんなことを書いたのですか?
そのころの日常を書きましたよ。ディスコで、パーティーを主催して、金儲けしたりしてたから(笑)。そのことを「わたしの24時間」って。まあ、だいたい、そういうことやってっから大学に受からないんだけど…。六本木でフラフラしてる話なんて、漫画を描くヤツは知らないだろうから、他人とは違うことを書けば受かるんじゃないかと思って。そしたら、藝大は落ちたけど、劇村は受かりました。
__新しいページがめくられましたね。
__先ほども出てきた山本直樹さん、のちにゲームの『ドラゴンクエスト』を作る堀井雄二さん、『北斗の拳』の原哲夫さん。強いメンツですね。
初日のバスでひょんなことから堀井さんと仲良くなって、しばらくしてから堀井さんが「せっかくだから飲み会やらねーか」というから「いいっスね」とオレが新宿でバイトした店に連れて行って。そしたら、小池一夫先生が、「当塾で飲み会をやったヤツは初めてじゃないか。これまではみんな怖い顔して、敵だ、ライバルだ、ってやってるヤツばかりだったのに」といった(笑)。
__小池先生も、この期はちょっと変わってると思ったかもしれません(笑)。
そんなこんなで劇村が始まって。僕は「両科」つって漫画科と原作科を両方受けてたんっス。そのうち、山本直樹が中心となって同人誌を作ろうってことになった。3冊出したかな。台割りを作ったヤツが僕に5ページしかくれなくてね。最初っから僕は、”ギャグ漫画枠”になってましたね。その同人誌が『ゆ~たら あ・かん』(※)のシリーズです。
(※『ゆ~たら あ・かん eut a la aucun..』は1982~83年ごろ、劇画村塾三期生の有志で出された。当時ライターをやっていた堀井雄二のつてで「月刊OUT」に広告を出したら、収拾がつかないくらい数多くの購読希望の知らせが来たという)
__絵のタッチはそのころすでに、いまの感じですか?
どうだろ。……。同人誌で描いたときはもう近かったよね。あんなもんだよね。んー、無意識でそう描いてましたね。ヘタウマという言葉があったけれど、オレはずっとヘタヘタ路線です。いしかわじゅん先生や もりたじゅん先生に、なぜか「うまい」といわれたことはあるけれど「それは勘違いだと思います」といいました。
__ははははは。
西原理恵子の元旦那の鴨志田穣が「ひじきみたいな線を描く人だな」っていったくらいだから(笑)。当時の僕がいつも聞かれたのが「下書きしてるんですか?」です。「してるよ!」と怒鳴ってた(笑)。
ちょっと話逸れるけどいい?
__もちろんですよ。
いま、スペリオールの連載のとき、『大人の青春くん』ってタイトルの下のスペースに、「似顔絵コーナー」をやっていまして。
__存じ上げております。話題の有名人の似顔絵を「とがし画伯」が描く、その名も『とがチャレンジ』ですね。
今日入れたの、ひどかったよーーーー。一目見た編集が、「これ、誰ですか?」と僕に聞いた。「あんまり似てねぇけど、パンサー尾形」っていったら、「どうして? パンサー尾形って最近話題になることありましたっけ?」というから、「不倫とか、あるじゃん」といったら、「とがしさん、それジャンポケ斉藤ですよ!」って。何から何まで間違ってるんだよなあ。おまけに似てないっていう。あらー、あららららー、だよ。
__わははははは。サイコーに力が抜けてますねー
似顔絵そばの「キャバクラ嬢はいいよね」ってセリフを、その場で「センキュー」に変えたっていうね。
__はははっはは。解決してる!
やれやれだよ。
__(笑)ともかく、初期から、脱力味のある線で描いてらしたんですね。油絵からあの線に移行する動線がまったく想像つきませんが…。
いや、関係は大っスよ。油って(油彩画って)どんどん上から足していけるから、サッササッサ、適当に描いちゃうんですよ。最終的に良くなればいいじゃん。だから、テキトーにパッパと描く癖がついてるから。ハズレた線でも平気で描いちゃうんです。そして、…「まいっか、このままで!」と思う。漫画は最後にホワイトはかけてますけどね。
__ああ、「藝大」と「とがしタッチ」がつながりました。そんでは、話を戻しましょう。劇村に入って、同人誌を作って、そこからどうやって漫画家デビューにつながるんですか。
転機は僕が25のとき。山本直樹の友達の女性漫画家がエロ本で描いているときに、その子が風邪をひいて熱を出して。「代役いねーか?」となったんです。彼女が同人誌を編集者に見せて「こいつです」と推してくれた。オレんところに電話がかかってきて「カット描いてよ」。エロ本のカットを5点描いて、その次の月も仕事をもらえて。次にカラーをもらえて…。
__急にトントン拍子?
そう。そして3か月後に「8ページでエロ漫画を描け」といわれて。それが実質漫画デビューっスね。サン出版の櫻木編集室ってところ。しばらくしたら「4コマ漫画を描け」といわれて「オチなんてつけられません」といったら、「オチなしでいいから描け」といわれた。そうしたら、1か月後に、ゲイ雑誌の「さぶ」の編集長が頬を赤らめながら「うちで描いてくれませんか」といってきたんです。「えーーーっ」ってびっくりしました。でも面白そうだったので描きました。
サン出版は、「さぶ」「June」「アムール」「ザ・シュガー」なんかを作るところでね。「ザ・シュガー」では、アイドルの撮影現場レポを漫画で描く仕事があって、アイドルにいっぱい会えて楽しかったですよ。役得、役得。でも「さぶ」の飲み会には呼んでもらえなかったですね(遠い目)。「ピーちゃんはストレートだからダメー!」って。僕は界隈ではピーちゃんって呼ばれてました。「ピストンやすたか」の「ピ」ね(笑)。
__「さぶ」では、「ピストンやすたか」の名前でゲイたちの笑える日常を漫画を描いてらしたんですね。1980年代、真っ只中のころですね。
「さぶ」(1974年創刊)はいい雑誌でね。そのうち「Badi」(1993年創刊)というおしゃれなゲイ雑誌ができて、押されていくんだけれども。「Badi」の編集部にマツコ・デラックスがいたらしいとあとで知ったんだけどね。
__そうなのですね。
最初は、やっぱり、いろんな性癖の人がいるってことですよね。そのなかでも、種類があって。「さぶ」って雑誌は、いまの大括りでいうゲイの雑誌なんですけど、オレは定義がわからないまま描いていて、ゲイの編集長によく怒られました。
ゲイ雑誌の編集部の雰囲気ってわかりますか?
__わかりません。
ゲイ雑誌ってそもそもは文通雑誌なんです。日本全国のみんなから、手紙がたくさん編集部に来てるんですよ。「自分は誰か(男性)と付き合いたい」だとか。田舎の本屋でさ、たった一冊だけある「さぶ」を見つけてさ、「ひとりじゃない。仲間がいたんだ!」と思った人たちからの手紙が日夜、来るわけですね。まあ、自分の裸の写真を送ってきたり、やってることはめちゃくちゃだけど(笑)。いまはパソコンができて、インターネットができて、そういう雑誌がなくなってきましたね。
__交流の場だったんですね。
はい。最初のころ、「さぶ」の編集長とのやりとりでは、「イケメンばっかり描くな! イケメンの何が面白いんだよ! おまえのタイプなのか?」とかね。ヒゲデブ派の読者が多かったのかな。「ゲイだって十人十色で、そこの感覚は普通の人と同じなんだよ、ピーちゃん!」っていわれましてね。「スミマセン!」と謝って。なるほど、と思って。そっからですね。「さぶ」で10年間、色々と教わりました。勉強しました。思い出深いですね。
__『青春くん』をはじめる以前の1980年代はそんな感じだったんですね。
そうです。
__いろんな経験をされてますねえ。
うん。25で漫画を描き始めて、エロ本の百貨店みたいなサン出版にずいぶんお世話になって、「さぶ」で描くようになって。
そんで、そのころから知り合いだった、吉田戦車が小学館のスピリッツに行ってしばらくしたときに、オレにも小学館の編集者から電話がかかってきた。「ヤングサンデーで描かないか」って。東大出身のアラキさん。こないだ久しぶりに飲みましたよ。それで『青春くん』が誕生するんです。
__80年代後半のエネルギーとして、一風変わったギャグ漫画の面白くて新しい人たちが、エロ本から一般漫画誌にドッと出ていく時代があったんですね。ニューウェーブですね。
テンホーさん(岩谷テンホー)とかね。朝倉世界一は、オレや吉田戦車が描いてたエロ本の編集部のバイトだったしね。オレの場合は、若林健次が小学館のアラキさんにオレの漫画を見せたのがきっかけですね。いま挙げた漫画家は全員同じ野球チームでした(笑)。
__『青春くん』のスタートは1989年、とがし先生は30歳のときです。
「おお、ついに、一般の漫画誌まで、呼ばれたぞ」と。それでね、最初はエロ本みたいにぶっちゃけたことは…しにくいじゃないですか。なので、控えたら、1回目、2回目は、すっごい評判が悪かったみたいで。アラキさんの態度があからさまに変わって。「もうお別れです」みたいな感じになってて(笑)。「あれ、どうしたんだろ?」 ってすっごい不安になった(笑)。3-4回目は評判がよくて、ご機嫌になってて。「ホッ、まだ続けられる、よかった」と思って。そんな始まり。
『青春くん』って漫画は、
時代と”ともに”あるよりほかないもんね
__「さぶ」の世界と「ヤングサンデー」(以下、ヤンサン)という舞台に両脚を置いて描くみたいなことになって。
そのころに、「ホモ、ニューハーフ、レズビアン、おかま、などをすべてゲイと表記しよう」という運動が起こってくるんですよ。LGBTQの前身ともいえる活動ですよね。その運動家がつくった冊子の中でダメな例として僕の漫画が引用されたことがあったらしくて。
そんなこともありつつ、僕の思いとしては、一般誌のヤンサンでゲイのことを描けるということは、「ゲイ(当時はホモ)の人が、ゲイの雑誌だけじゃなくて、一般誌に出てくれば、いいじゃない。社会的に普通になっていくじゃない?」と思って描いていたつもりがあったわけです。僕的には、ですよ。ゲイ専門雑誌ではなくて、一般誌で描くと、間口は広くなるじゃないですか。
実際、最初はヤンサンにゲイネタを描いていた。ところが、だんだんと、「男を好きな男を描くな」となったんですね。「ホモ」という言葉を使うな、となって、描かなくなりました。
__なるほど。
それから、時を経て、ここ数年で「セクハラ」が来たでしょ。
__来ました。
怖いよ。正直、何を描いていいかわからない。あのですね、自分の中で線引きがあって、途中までは世間と合っていたんですよ。ところが、ゴルフに行って、「髪切った?」と女性に気軽に声をかけたら「セクハラです」といわれちゃうんですよ。「彼氏いるの?」とか。「それがセクハラじゃ、会話は無理じゃんか!」と思う。どうしたんだ、って。でも、漫画でも世間に寄せるようにしています。ホイチョイはときどきオッパイを描いてて、「いいの? 大丈夫?」と思うことがあります(笑)。
__時代とともに。
この漫画は、時代と“ともにある”しかないもんね。
__そんな時代、男の子は、令和の最前線では女の子をどう口説けばいいのでしょうか。
ほんとに。大会社の社員は看板があるからネットで知り合うとき(出会い系サイトなど)に有利ですけど。知り合いの60歳手前のエロライターが出会い系をやったら、パパ活目当ての女の子しかこなかったっていってました。そういうネタを『大人の青春くん』に取り入れたりしますけどね。
__そのセクハラに対する変化というのは、『大人の青春くん』が始まってから、色々と変わってきたということでしょうか。
んー、それは違いますね。変わる…というのは…ずっと前からです。前から『青春くん』は毎年毎年変わっていくんです。読者が気がついているかどうかはわからないけれど。ラーメン屋のスープもそうじゃないですか。進化しているんだけど、お客さんは「変わらないねぇ」という。あれは、たしかにそうだなと思いますよ。
自分のことを下ネタ専門漫画家ではない、とずっと思っていまして。時代の流れに沿って描いているので、エロいことを描くけれど、僕の中では、下ネタではないと思ってやっていますよ(笑)。
一年半くらい、三和出版で「エロ専門の4コマ漫画雑誌」の名誉編集長をやっていたことがあるんだけど、そのときは、二ノ宮知子さんとか伊藤理佐さんとかも描いてくれたしね。
__とがし先生の味は、ユーモアですよね。近いのは、艶笑落語の世界だと思います。
さかのぼるならば、漫画家になった最初っからずっと僕は、パンパンパン、シコシコシコって描いているんですよ。そこは、描いているんだけれどさ(笑)。それはそうなんだよ、でも、同じところをぐるぐる回っているけれど、螺旋階段になっていて、少しずつ上がっているという感じでやっていて、そんな感じでいたいだけです(笑)。
だから、今振り返ってみると、セクハラだけではなく、世の中で「だめだ」と言われちゃうような何かのすぐそばに、僕はいたかもしれませんね、ずっと。こう… うーん… そうだなあ…(遠い目)。
あとは、自分の年齢が上がってくると、描くことも変わってくるじゃない。現役バリバリでキャバクラに行ってるときと、いまとじゃあ、女性の見え方や、夜の世界の見え方も変わってきますしね~。そりゃそうじゃないっスか?
__ええ。話は少し変わりますけど、最初に、とがし先生は東京の北の方の生まれ、って話がありましたでしょ。とがし先生の生まれた町から、ほんのちょっと北東に行くと、ビートたけしさんが生まれた町でしょ。北西に行くと、とんねるずが生まれた町でしょ。あそこらへん、東京の笑いが生まれやすいエリアなんでしょうか。
さっきも話したうちの高校に、足立区、葛飾区の悪いのがいっぱい来ていて、千葉と埼玉から来るヤツもいるんですよ。そのころの千葉はまだグーンと田舎で、浦安に遊びに行ったら、じいさんとばあさんが何をしゃべっているかわからないくらいでした。昭和何年の話だ? 昭和50年くらいかな。訛ってて。マジで困った。
__「訛り」のエリアの縁(ふち)のところから笑いが生まれてくるというか?
学校には訛ってるヤツがいっぱいいまして、流山からくるヤツは千葉弁を喋ってるし。ごろごろいて。そういうヤツらと普通に喋って高校時代を過ごすわけですよ。
それで、いま考えてもおかしいのは、そういう訛ってるヤツに、オレは上野とか池袋とか新宿とかの、都内の繁華街を案内されているわけなんですよ。こっちは、自分が生まれた町しか知らないですから。池袋だ、新宿だ、は、そいつらの後ろをついて歩くの。地下鉄だって乗ったことないんだから。山手線と京浜東北線しか乗らずにそこまで育ってるから(笑)。
__ジモティならではの狭さですね。
反対に、千葉や埼玉から来る友達は東京の地下鉄を自由自在に乗りこなしてんの(笑)。それに、あっちこっち、ついてって。こっちの方が田舎もんみたいな錯覚が起きるほどです。その逆転は面白いよね。ヤツら、面白かった。
__なかなかのコメディ状況ですね。
でしょ。下町言葉と、埼玉千葉の言葉が混ざるってのは、大きなことだと思います。言葉といえば、オレが25で初めて関西に行ったときに、当時の関西は東京弁アレルギーが強かったですね。夜の店を出て道で女の子に声をかけたら、「あんたら、店で東京弁しゃべっとったヤツらやん」といわれて。けんもほろろでしてね。「蹴飛ばしてやろうかと思たわ」って女の子に冗談で言われたくらいで!(笑)
「なんだよ~、それ~」って東京言葉でいうしかなくて。その後、難波のディスコに行ったりして、なじんでみると関西の人はなんか優しいことがわかってきて、「おまえは東京から来たけど、東京の冷たい言葉やないな」といわれて。それはなんだか嬉しかった。「だって…、千葉弁、混ざってるしさー」と心の中で思った(笑)。
__混ざると強いんですね。
そうっスね。でも、関西は楽しくてね。新宿や六本木のディスコはカッコつけたヤツが多いじゃん。関西は違ってた。関西でディスコでふざけて踊ってたら、「あんた、さっきオモロい踊りしてた人やなあ」と覚えられました。「面白い」ってことがモテるわけですよ。「あれ? 六本木とは勝手が違う!」と思って。「関西いいわー」と思いました(笑)。
__関西話のつづきは後編で!
(以下、『後編』に続く)
とがしやすたかプロフィール
1959年11月18日、東京都北区生まれ。劇画村塾第3期生を経て、1985年、25歳のとき、『青春劇場 -海-』で漫画家デビュー。30歳ではじめた『青春くん』はその後30年以上連載する超長寿4コマとして、独特の存在感を際立たせる。現在は『大人の青春くん』の題で「ビッグコミックスペリオール」に連載中。ほかに「月刊ゴルフダイジェスト」や「ベストカー」などに鋭意連載中。他の代表作に『竹田副部長』など。軽妙なタッチが特徴で、『わしらやましい探検隊』(木村和久と)ほか週刊誌記事の挿絵も多数。
すけたけしんプロフィール
1967年生まれ。物書き。インタビュアー。新刊絵本『はなげ小学生』発売中。著書に『ブラックチャンネル 動画クリエーターが悪魔だった件』『小説 弱虫ペダル』『いやし犬まるこ』『スーパーパティシエ辻口博啓 和をもって世界を制す』など。◎執筆者関連リンク:https://www.facebook.com/suketake