細野不二彦『1978年のまんが虫』【夏目房之介のマンガ与太話 その14】

細野不二彦『1978年のまんが虫』【夏目房之介のマンガ与太話 その14】
細野不二彦『1978年のまんが虫』(小学館 2022年 「ビッグコミックオリジナル増刊号」2021~22年連載)

 この本を読んでいて突然、この高田馬場の質屋の屋上でぐるぐる回っていた裸婦と力士の像に再会したときには、思わず「ぎゃははは!」と声を出して笑ってしまった。その寸前までまったく記憶から消えていた光景が思いがけず目の前に再現されたからだ。

 

細野不二彦『1978年のまんが虫』P.178

 

 70年代、まだ国鉄(1987年民営化してJRに)だった山手線の車内から真正面に見えた、堂々と回転する裸婦と力士! このキッチュな光景は確かに衝撃的で、あまりの悪趣味に憎めなくなる類の都会の芸術であった。いや、あれを今の今まで忘れていたとはなあ。

 1959(昭和34)年12月生まれの細野不二彦は、この自伝の主な舞台である78年に18歳で、慶応高校から大学経済学部(授業描写はマルクス経済学!)に進学した年。50年生まれの私はすでに大学を卒業し、師といっていいしとうきねお氏のナンセンス本に共著者として名を連ねさせてもらい初の単行本デビュー、同年11月から週刊朝日の若者欄に「デキゴトロジーイラストレイテッド」という半頁のマンガ・イラスト連載を開始した頃だ。82年には2頁見開きの「ナンデモロジー學問」連載(~91年)へと昇格する。

 細野不二彦といえば、『ギャラリーフェイク』をはじめ八面六臂、どんなテーマでも器用にこなす職人的作家という印象がある。80年代、少年サンデー連載の『さすがの猿飛』(増刊80~84年)『どっきりドクター』(81~82年)『Gu-Guガンモ』(82~85年)など、いかにも当時のサンデーらしい、すでに出来上がった感のあるキレイな線で軽快に描かれたドタバタを、私はけっこう好きだった。その後の青年誌では画風を変え、テーマも挑戦的になっていった。私の前にあらわれた細野はそんな印象で、出会った頃から「うまいマンガ描き」だと思っていた。

 そんな彼が、18歳の頃にはまるで自信がなく、常におどおどして、高橋留美子の出現に〈うちひしがれ〉(本書P.36)、〈スカスカ人間〉の自分を強迫的に自覚し、その結果ナゼかマンガ家だけが〈突破口〉だと思い詰める(同上)「悩める青年」だったとは。

 

細野不二彦『1978年のまんが虫』P.15

 

 いや、もちろん私自身もご同様で、同じ頃、自分の描くものが果たして面白いのかどうかまるで自信がなく、いつも不安でおろおろしていたのだから、少数の自信家以外は大抵がそうなのだとは理解している。

 しかし、若き細野の自画像を知ったとき、なるほど細野の登場人物が、なぜかいつもおどおどしていたり、突然口を半開きにして怯えたりする、あの描写にこそ、案外本来の彼がいるのかもしれないと思えたりする。

 マンガ家を目指し、彼は〈SFクリエイター集団〉スタジオぬえを単身訪れて指導を仰ぎ、〈新進SF作家〉だった高千穂遥に出会い、ボロクソいわれながら、高千穂の推薦で『クラッシャージョウ』のコミカライズを担当。翌79年、朝日ソノラマの「月刊マンガ少年」4月号から前後編でデビューする。

 

細野不二彦『1978年のまんが虫』P.216

 

 ごらんの通り、新人とは思えぬ絵のうまさで、かつ女の子がカワイイ。本書によれば、彼の美少女画は、大学やSFイラストの同人たちから評価が高かったようだ。たしかにこの頃、思春期を過ぎつつあったマンガ青年たちの間で美少女への欲望が膨れ上がっていた(正確にいうと私たちをさかいに、もう少し若い層だった印象があるが)。マニア向けのマンガ情報誌では、ヒーローや美少女キャラクターの人気投票が行われ、いわゆるおたく系の市場を盛り上げてゆくことになる。

 またこの自伝マンガで特筆すべきは、細野を取り巻くマンガ好きとSF支持集団との影響関係が描かれていることで、細野はその中でマンガ家修行をしてゆく。コミケとおたく共同体の成立史で重要なのは、先行して成立していたSFファンダムであり、人的にも重複していた。これまでの漫画史記述ではあまり重視されてこなかったジャンル横断的なこの側面は、今後注目されていいところで、本書はその貴重な証言でもある。

 細野に影響を与える高千穂は51年生まれで、私と同世代。本書の中で彼はすでに新人人気SF作家として評価され、SFアートのデザインで注目されたスタジオぬえも、その後とりわけスペースオペラ系のアニメなどで大活躍する。

 77年、サブカル誌「月刊OUT」の『宇宙戦艦ヤマト』特集が売れ、これを契機にアニメ雑誌が続々登場。徳間書店から「アニメージュ」が創刊されたのも、まさに78年だった。翌79年にはサンライズ制作の『機動戦士ガンダム』が放映され、草の根的に大ヒットにつながって、一大ブームを巻き起こしてゆく。おたくとアニメの時代がやってくるのだ。『鉄腕アトム』TVアニメ化の63年、すでに中学生だった私や同世代の多くは、それまで親しんだフルアニメーションと比べ、あまりに質の落ちるTVアニメになじめず、結果おたくたちのようなアニメ・マンガ世代とは一線を画すことになる。

 

夏目『スペースドリフターズ』初回扉 「マンガ少年」1981年1月号

 

 しかし一方、何を隠そう、細野のデビューした「月刊マンガ少年」の81年1月号から、私は『スペースドリフターズ』というSF風味のコメディ的ストーリーマンガの連載を始めており、この第一作で生まれて初めてインタビュー取材を受けたりしたのだった。インタビューアーは「ジュネ」の編集だった佐川俊彦氏だった。

 つまり、細野とほとんど同じ時期に、本書に登場する日劇裏の朝日ソノラマに私も少しだけ通っていたのだったが、「マンガ少年」は5月号であえなく終刊。ページ数が足りずに単行本にもならずに終わった。それぞれ経路も異なるが、この時代の日本には細野や私や、最近河出新書から『コミカライズ魂 『仮面ライダー』に始まる児童マンガ史』を上梓したすがやみつるなど、多くのマンガ家志望者やマンガ、SF、アニメ関係の若者支持層が、大小の集団を組み、それこそそこらじゅうにウヨウヨいたのである。

 

記事へのコメント

夏目先生は細野不二彦とレーベルメイツだったんですね。

>「批判とは自他を区別することである。それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、自他の区別がはじめから明らかである場合、批判という行為は生まれない。批判とは、自他を包む全体のうちにあって、自己を区別することである。それは従って、他を媒介としながら、つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、みずからを批判し形成する行為に外ならない。思想はそのようにして形成される。」(白川静『孔子伝』) 内田樹氏のブログより。

批判を創作、さらに進めて自伝漫画に読み替えても意味が通じると思います。
プロのサッカー選手はフィールド全体の俯瞰風景を見ながらプレイすると聞きます。
観客にその風景を伝えることができるまでに、熟練した夏目、細野両先生の漫画力に感謝します。

ざしきぼっこ

始めてコメントします。
私は細野不二彦氏の『あどりぶシネ倶楽部』が好きでした。中学時代の友達が8ミリカメラで映画を作るのを手伝って、フジフィルムコンテストでは常に手塚真に頭一つ押さえられて悔しい思いをしたものです。そんな、8ミリ映画体験を地で行く『シネ倶楽部』は懐かしさも相まって…。その後自分で8ミリアニメを作るようになった自分にとっては、『映像研には手を出すな』が、これまた懐かしさを感じさせるものでした。

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