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宮谷一彦の幻影【夏目房之介のマンガ与太話 その8】

宮谷一彦の幻影【夏目房之介のマンガ与太話 その8】

 2022628日、宮谷一彦みややかずひこが亡くなった。

  一般的な知名度はない。手塚治虫の虫プロ商事が19671月に創刊した月刊マンガ誌「COM5月号の月例新人入選作『ねむりにつくとき』でデビュー。編集部コメントで「有望な新人があらわれた。その名は宮谷一彦君。」と称賛され、同じCOM同年2月号デビューの岡田史子と並んで先鋭的なマンガ青年層、とりわけ自分もマンガを描いていた層に強烈な印象と影響を与えた作家である。

 

宮谷一彦『ねむりにつくとき』「COM」1967年5月

 

 彼の訃報はSNSのごく一部で話題になったが、その多くが私と同じか少し下の世代のマンガ家やそれに準ずる人達だった。いしかわじゅん飯田耕一郎すがやみつる、村上知彦、矢作俊彦などがコメントし、サインやスクラップブックの写真を上げた。みなもと太郎氏も存命なら間違いなくコメントされただろう。NHKBSマンガ夜話(19962009年)に触れ「夏目さんの気合いの入り方が尋常じゃなかった伝説の宮谷一彦回」の放映時の写真を上げた人もいた。

 宮谷は1945年生。大阪府出身。高校卒業後、石ノ森章太郎永島慎二のアシスタントを経て、デビュー後、当時続々創刊された青年劇画誌に作品を発表。青春物短編『セブンティーン』(COM68年)、私小説ならぬ「私マンガ」と称した『ライク ア ローリングストーン』(COM69年)、現代日本に左翼革命が起こる『太陽への狙撃』(ヤングコミック69年)、過激でシュールな性的説話『性蝕記』(同上70年)などマンガ青年にとっての話題作を連作。写真を元にした精緻な描写と削りや重ねを駆使したトーンワークを開発し、その後の劇画~マンガ制作の労力の水準を一気に上げた。それだけ業界の若手には影響が強かったといえる。6070年代は青年マンガが急速に市場拡大をする時期で、新人発掘競争が激しく、それだけ原稿料も相対的に上昇していた。やがて原稿料は80年代以降低く抑えられるようになる。宮谷のような手間暇かかる制作体制が取れたのは、ジャンルが拡大し青田買いが起きた時期だったからだろう。

 宮谷の作風はかなり読者を選ぶ傾向だったが、媒体は案外幅広く、少年サンデー、女性自身、明星、音楽専科、別冊宝石、GOROなどに作品を発表し、細野晴臣らのはっぴいえんど『風街ろまん』のジャケットなども描いている。

 と業績を追っても、なぜ彼が一部の人々にこれほど影響を与えたか、おそらく伝わらない。BSマンガ夜話の宮谷回を見直したが、冒頭で岡田斗司夫(私やいしかわじゅんより10歳若い第一次おたく世代)が「何が面白いんだか全然わからない」と率直に述べている。これは番組的にお約束の役割分担でもあるが、それに対し私(50年生)やいしかわ(51年生)、ゲストの村上知彦(同上)が熱を込めて説明を試みる流れだった。いしかわも私もマンガを描く人間なので、勢いその説明は技術革新の指摘に偏ったが、問題はその稠密な画面がなぜ成立したかの歴史背景で、その点は大月隆寛と私のやりとりで映像の感性が新聞写真からTVのナマ映像へと変化する時代との関連が後半で示唆された。

 

宮谷『天動説』「漫画サンデー」73年 夏目のスクラップより 示現流居合達人の攻撃を新幹線内で受けた人物が、瞬時に座席などの利用と立ち位置のシュミレーションをして対応する場面。これほどキレのある理知的なアクション場面は当時なかったと思う。

 

 私は『天動説』(漫画サンデー73年)冒頭のアクション描写や『東京屠民エレジー2 水鳥の浮かぶ哀し』(プレイコミック72年)、『同上5 嘆きの仮面ライター』(同上)の「成熟」をあげ、「これでマンガは中間小説的な水準に追いついた」という当時の感触を伝えようと「夏目の目」のコーナーで語ったつもりだった。岡田は「カッコいい!」と呟いていた。

 しかし誤解してほしくないのは、私らが強調したからといって、私ら世代のマンガ青年の印象や影響がそれほど一般的な現象だったわけではない、ということだ。少し年上の評論家呉智英46年生)は「宮谷は恥ずかしくて読めなかった」と語っていたし、ツイッターのコメントでも理解できないとの、私らの下の世代の書き込みもあった。たしかに宮谷のあざとい自己顕示のナルシシズムは、読んでいて赤面するものがあった。私などは、だからあまり大声で宮谷好きを主張できない気分も当時あって、呉氏の恥ずかしさはよくわかる。それでも宮谷に、その感性や描線やディテール描写に「時代の魅力」をどうしようもなく感じていた。それはマンガを描く人間にとって斬新で、物凄く危ういバランスでありながら、常にマンガの未来の可能性に向かって開いていく感触をもたらした。

 だが、彼の志向するものが決定的に時代からズレていったという印象を、ある時私たちは認識する。それは大友克洋54年生73年デビュー)の登場によるところが、私にとっては大きかった。稠密で重く過剰な宮谷劇画の描写ではなく、白っぽく軽妙で読みの間に抜けがあり、膝カックンな外し方をする大友に時代思想の圧倒的な変化の方向があると感じ取ったのだ。それは日本が高度消費社会へと急速に変貌する瞬間であった。

  現在から考えると、当時の私などには世界の転換にさえ感じられた宮谷の衝撃は、じつは本当にごく少数のマンガ読者(漫画家志望者を多く含む)が共有した感覚だった。私ら前後の圧倒的多数の人々にとっては、コアな一部読者の「幻影」に過ぎないのだろう。たしかに、私たちが宮谷に見たものは、見果てぬマンガの「夢」だったかもしれず、そういう意味ではまさに「幻影」だったのである。ただ、私の感じたマンガの可能性の「夢」は、やがて地道に変革を続けた谷口ジローによって達成されたのではないか、とも思う。いいかえると、大きくなった子供ではなく、成熟した大人のためのマンガ世界の実現である。

 私としては、宮谷への私達の思い入れで後世の読者が過大な評価に陥り、誤解してほしくはない。しかしまた、その存在の意味を理解してほしいとも思う。そんな、まことに宮谷一彦に相応しいアンビバレンツな気分で、彼の死については書かざるをえないのだ。

 

宮谷『東京屠民エレジー2 水鳥の浮かぶ哀し』「プレイコミック」72年 『もう一つの劇画世界① 宮谷一彦集』ブロンズ社 73年所収 生活に追い詰められ心中をし損ねた父親が、娘の結婚式の直前に心中を試みた競艇場を娘と訪れる。彼は末期がんで余命幾許もないが、かすかな救いを感じる。このシリーズで描かれる情けない中年男性は宮谷の作家としての成熟を感じさせた。

 

 

記事へのコメント

私は中学生時、「ボーイズライフ」という雑誌で宮谷一彦氏を知りました 同誌にさいとうたかを氏の「挑戦野郎」もありロゴをフリーでコピーしたこともあります 宮谷一彦氏の作品は雑誌ページを切り抜いたり茶店からちぎってガメたり(笑)色々持ってます 結構作風を真似てましたね 現在は建築設計をやってます69のジジですか。

私は宮谷氏活躍時より後に産まれた完全に後追いで当時の空気感などはわからないですが素直に凄いと思わせる作品が多いと思います。
宮谷氏の作品を読む時はいつも読後感はどっと疲れますがそれが作品と対峙している感じがして何とも言えない気分になります。
残念なのは実績に対して異様に評価が低いので誰も作品集などを発行してくれないことでしょうか?
このまま名作を埋もれさせるのは勿体無いです。
私家版でもいいので誰か発行してくれないものでしょうか?

漫ヤワで関心向き、性蝕記と東京~エレジーを見ました。密度高い画面で、今だと、バンドデシネの流れとして見れるような気も。内容はさすがにベタというか昭和レトロ?という感じですが、ストップモーションのような、今の漫画に比べ動きはあまり感じらないのも、その辺もバンドデシネっぽいかなという素人印象です。でもこういうスタイルで完成度を上げて漫画描く人はほかにあまりいないのでは?この先も残ると思います。生前にきちんと復刻本出せればいいのにと惜しみます。図書館にも置いてるところがあまりなく、見たくても見れないのが現実ですので。

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