さいとう・たかをと分業制−1【夏目房之介のマンガ与太話 その4】

さいとう・たかをと分業制−1【夏目房之介のマンガ与太話 その4】

 昨年(2021)から今年、多くの戦後漫画のレジェンドが亡くなった。中で、みなもと太郎87日逝去)とさいとう・たかを(同924日)のお二人を失ったことは、漫画研究にとっても惜しいことだった。むろん、白土三平108日)、平田弘史1211日)、水島新司2022110日)など、他の方々も残念きわまりないのだが、みなもと、さいとう両氏については、もっとたくさん対談をして色々教えていただきたかった。

 みなもとさんは、他の諸氏に比して若く、1947(昭和22)年生まれで、むしろ私の世代に属する。さいとうさんは1936(昭和11)年生まれで、白土、平田、水島と同じ戦前1930年代の生まれ。戦後漫画の復興期から最盛期を支えた世代といえる。みなもとさんは、彼らの活躍に幼少から読者として影響され、やがて自らも漫画を描き始めた戦後ベビーブーマーであり、戦後サブカルチャー市場を消費者としても支えた世代だ。

 みなもとさんとは研究会やパーティでよくお会いし、親しくお話させていただいた。その該博な知識と驚くべき経験量は圧倒的で、米澤嘉博氏やとり・みき氏などとともに会うと、とてもじゃないがそこでかわされる彼らの情報量たるや私などの遠く及ぶところではなかった。戦後世代の漫画青年が多くそうであったように、彼もまた手塚治虫に深く傾倒し、同時に、少女漫画、貸本漫画を愛し、劇画ブームに伴走し、やがて漫画を自己表現の手段に選んでいった漫画青年であった。

  みなもとさんはまた、さいとう・たかをを高く評価していた。「さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964」(リイド社 2015年)でロング対談*1をし、さらに「ガキ大将、さいとう・たかをに、我々平成のマンガ家たちは、もっともっと感謝しなければイケナイのだ。」と題する特別寄稿をしているほどだ。両者の対談がまた、本当に優れモノで、みなもとさんの熱意と知識にさいとうさんが胸襟を開き、普段の取材ではいわないことを次々披露している。このお二人は、おそらく数多い漫画対談、取材記事の中でも群を抜いて気の合った組み合わせだっただろう。ああ、この続きをもっともっと聞きたかったよお。

 

 
 
『さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964』リイド社 2015 同書、【記念対談】さいとう・たかを×みなもと太郎「青年コミックは1964年の持ち込みから始まった」 P.65

 

 たとえば悪書追放運動で子供向け物語漫画がつるしあげを喰らった頃、漫画家協会の理事会にさいとうが怒鳴り込み、当時漫画集団*2の中心にいて〈神様みたいなもん〉(さいとう)だった近藤日出造らを震え上がらせたという、いかにもさいとうさんらしい挿話を開陳したりしている。近藤は子供漫画をつるし上げる側に回って攻撃していたのである。みなもとさんは、本当はもっと詳しく聞いたなどと人を羨ましがらせて、〈「ああ、手塚先生の仇をとって下さった」と私は内心感謝したのである。〉*3と喜んでいる。もっと回を重ねて対談してくれていれば、こんな秘話がボロボロ聞けたのにと悔しく思うのは私だけではあるまい。

 いや、今回はそんな話ではなかった。さいとうさんと漫画の分業制について書かねばならん。漫画の分業の話では、一般にさいとうプロの制作システムが想起される。しかし、数多いさいとうさんの取材記事を見ても、それがどんな実態で、他の作家とどう違っていたのかは、今一つはっきりしない。白土三平の赤目プロも、水木しげるプロダクションも、もちろん手塚治虫の虫プロも、それなりに分業していた。白土、手塚に関しては時期的にもさいとうより早いか、同時期だったと思われる。ひとつにはマスコミ取材者は漫画史についてそこまで詳しくもないし、また「そんなマニアックな話」まで興味をもたなかったのだろう。

 他方でさいとうさんの語り方にも、今ひとつ具体性がない。彼自身にとってあまりに自明で、説明の必要がなくて、その分言葉が足りなかったのかもしれない。彼自身は辰巳ヨシヒロなど最初の「劇画工房」の仲間などにも説いて回ったと回想するが、ほとんど理解されなかった。当時の漫画家たちにとって、米国のコミックのように分業制で大量生産するという映画製作のような制度の必然性は受け入れられなかった。さいとう・たかをの特異性は、そんな日本で、突然変異のように分業制の必要性に気づいてしまった点にある。ただ、その必然性が証明されるのは十年ほど後なのだ。

   また、みなもとさんを含む私ら戦後漫画青年も、素朴に作家主義を奉じており、さいとうさんのような分業制を支持する者は少なかった。むしろそれらを商業主義的だと忌避したはずだ。本来手塚派だったみなもとさんや私などが、あまり矛盾を感じないままさいとう・たかをを支持していたのは、今から見るとやや不思議である。ここにも、説明が難しい面白いテーマがあるが、今回は割愛。ともあれ、さいとうも参加した第一次「劇画工房」のリーダー辰巳ヨシヒロの次の回想が、むしろ一般的な受け取り方だったと思う。

 〈さいとうさんの言う、映画的な製作システム作りには、僕なんか、最後まで関心なかったです。自分の原稿に他人の手が入るっていうの、イヤですもんね。下手は下手なりでいいっていうね、それはそれで、その時の自己表現だから、いいんだっていう気持ちでいましたね。それが作品じゃないかって。ベルトコンベアーで作品描いてってね、何がおもしろいんだと。〉*4

 

 『漫画家本7 さいとう·たかを本』小学館 2018

 

 一方、さいとうの回想を総合するとこうだ。

 みんなが手塚治虫なわけではない。絵が得意な者、話を作る者、コマを割る者、それぞれ才能がある。それを各々で分業すれば、漫画制作は〈企業化〉*5できる。市場調査もしていないようなこの業界は「ガラ空き」で、これから発展して面白くなる。

 他にこんな言い方もしている。

 〈それ[5060年代関西貸本業界の相次ぐ廃業]さえなければ分業制による制作システムは大阪で実現していただろう。[]実は、それを手土産に東京へ進出したいと考えていたのだ。当時、すでに東京では大手出版社主導型の漫画制作システムが整い過ぎており、実績のない分業制作のアイデアはとても受け入れてくれそうにもなかったからだ。[]/分業制を実現しなければ、大衆に愛される本当の漫画の時代は望めない。〉*6[ ]は引用者注

 

『さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル』フローラル出版 1992年

 

 〈漫画界の発展は、大人向けの青年コミックが確立できるか否かにかかって〉*7おり、分業制で市場の拡大に対応し、〈制作スタッフ核分裂させて、複数のチームで制作していくという構想〉*8があった。

 「企業化」とは何か? 「大衆に愛される本当の漫画」とは? 「制作スタッフの核分裂」とは? 次々疑問が湧く。が、残念ながら想定字数を超過した。以下次号である。

 


  • *1 ^ 「青年コミックは1964年の持ち込みから始まった!!」 『さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964』リイド社 2015 p.65~
  • *2 ^ 戦前の「新漫画派集団」が戦後「漫画集団」と改名。近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄などを中心に、政治社会風刺、風俗漫画など、1コマから数ページの大人向け漫画などを描く漫画家の団体。1960年代までは、一般社会、マスコミでは漫画の主流であり権威だった。手塚らの子供向け物語漫画に対しては抑圧的で、悪書追放運動では、近藤はバッシング側に立った。
  • *3 ^ みなもと太郎「特別寄稿 ガキ大将、さいとう・たかをに、我々平成のマンガ家たちは、もっともっと感謝しなければイケナイのだ。」 『さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964』 リイド社 2015年 P.285
  • *4 ^ 特別証言 辰巳ヨシヒロ「さいとうさん、最初から大人でした」 漫画家本7『さいとう・たかを本』小学館 2018年 P.142 写真は同書 P.141
  • *5 ^ 注2参照 P.137 他
  • *6 ^ さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル フローラル出版 1992年 P.56
  • *7 ^ 「劇画人生 回顧インタビュー! さいとう・たかを劇画50年のエッジを語る」 さいとう・たかを画業50周年記念出版 さいとう・たかを『劇・男』リイド社 2003年 P.287
  • *8 ^ 前掲『さいとう・たかを本』 「さいとう・たかを 16年後のつぶやき」 P.150
記事へのコメント

個人の作家という概念が確立するのはほとんど19世紀の西洋みたいですね。ルネサンスはダ・ヴィンチにせよ誰にせよ工房が基本で、日本でものちに美術と見なされる工芸も絵もかつては工房制作です。それが明治維新以降西洋の美術概念を輸入することで個人の芸術家が美術を制作するという考え方に切り替わる。歴史的には親方と弟子の徒弟制工房がずっと基本でした。近代芸術観はここ二百年とかの話で、日本ではそれこそ明治維新以降の輸入概念なんだそうです。

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