2020年初頭から始まった新型コロナウイルス流行下で、海外のマンガ家の来日イベントが行われなくなって久しい。バンド・デシネ(フランス語圏のマンガのこと)関連で言うと、コロナ禍以前は、フランス外務省の外郭団体であるアンスティチュ・フランセ日本が、毎年秋に行われる「読書の秋」というイベントで、バンド・デシネ作家を年に少なくともひとりかふたりは招聘していた。一時は海外マンガフェスタを中心に海外のマンガ家が出演するイベントが複数行われ、小規模ながらも海外マンガは秋に盛り上がるというイメージがあったのだが、それもずいぶん昔のことのように感じられる。ここ数年はイベントがあったとしてももっぱらオンラインで、海外のマンガ家と直接ふれあう機会はすっかりなくなってしまっていた。ところが、2022年も終盤に差しかかろうという時期になって、ようやくそういった状況が変わりそうである。今年2022年の「読書の秋」の一環で、10月末から11月初頭にかけて、フランスのバンド・デシネ作家エティエンヌ・ダヴォドーが来日することになったのだ(イベントの詳細は文末を参照のこと)。
エティエンヌ・ダヴォドーはフランスではよく知られた社会派のバンド・デシネ作家なのだが、日本語で読めるのは長らく、『JAPON』(飛鳥新社、2006年)に収録された「サッポロ・フィクション」という短編だけだった。ところが、今年2022年7月、ついに代表作の『ワイン知らず、マンガ知らず』(京藤好男監修、大西愛子訳、サウザンブックス社、2022年)が翻訳出版された。まさに今招聘されるのにふさわしい作家である。今回はそのエティエンヌ・ダヴォドーの『ワイン知らず、マンガ知らず』を取り上げたい。
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『ワイン知らず、マンガ知らず』の原書は2011年にフランスのフュチュロポリス社から出版された。原題はLes Ignorantsで、直訳すると『無知な人々』という意味になる。原書の出版から10年経った2021年に、表紙を替え、巻末に関係者の鼎談を収録した10周年記念特別版が刊行されていて、日本語版はそれを底本にしている。
実はこの『ワイン知らず、マンガ知らず』日本語版は、筆者が編集主幹を務めるサウザンブックス社のレーベル「サウザンコミックス」から刊行されている。サウザンコミックスは世界のマンガをクラウドファンディングを通じて翻訳出版するレーベルで、筆者自身がクラウドファンディングの発起人を務めたダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』(原正人訳、2020年)を皮切りに、MK・サーウィック『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』(中垣恒太郎、濱田真紀訳、2022年)、今回紹介するエティエンヌ・ダヴォドー『ワイン知らず、マンガ知らず』、そして原作:楊双子、作画:星期一回収日『綺譚花物語』(黒木夏兒訳、2022年)と、今のところ4つの作品が刊行されている。それ以外では、パヴェル・チェフ『ペピーク・ストジェハの大冒険』という日本初のチェコ・コミックの翻訳を鋭意制作中で、今現在、第6弾としてデイヴィッド・マッヅケリ『アステリオス・ポリプ』のクラウドファンディングが行われているところである(クラファン期間:2022年9月16日~12月15日)。
筆者がサウザンコミックス第1弾のダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』をクラウドファンディングで翻訳出版するという決断をしたのは、この作品を10年間持ち込み続けたにも関わらず、結局、どの出版社も説得できず、これはもう読者の皆さんに直接働きかけるしかないと考えたためだが、その辺りの事情は『ワイン知らず、マンガ知らず』も変わらない。イタリア語版でこの本を読んだ京藤好男さんがいくつかの出版社に働きかけたが、色よい返事をもらうことができず、原書の出版から10年経って、ついに自ら発起人としてクラウドファンディングを行うことになったのだ。一読すればわかるはずだが、本書は、日本の読者が10年も待たされなければならないような本ではない。
本来的には出版社が自らリスクを冒す既存の方法で翻訳出版がなされるのが一番いいのだろう。だが、それがうまく機能しないのであれば仕方がない。幸い、本を出したい人が表に立ち、それを読みたい人が支援するという新しいしくみがあるわけで、だったら、そのしくみを使って翻訳出版するだけの話である。日本語に翻訳されるべき世界のマンガの名作はまだまだたくさんある。以前は筆者もクラウドファンディングを通じて翻訳出版することに半信半疑だったが、サウザンコミックス編集主幹として複数のクラウドファンディングに関わってみて、今はとてもポジティブな印象を持っている。
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『ワイン知らず、マンガ知らず』に話を戻そう。本書はバンド・デシネ作家のエティエンヌ・ダヴォドーが、知り合いのワイン醸造家リシャール・ルロワのもとで約1年半にわたってワイン造りを学び、その代わりにリシャール・ルロワにバンド・デシネのことを教える様子を描いた作品である。エティエンヌ・ダヴォドーはワインに無知で、リシャール・ルロワはバンド・デシネに無知。原題のLes Ignorants(『無知な人々』)はここから来ている。ちなみにリシャール・ルロワは、農薬や化学肥料に極力頼らないビオディナミという特別な農法でワインを作る、知る人ぞ知るワイン醸造家である。物語は彼がワイン造りをしているフランス西部のアンジェという都市近郊のモンブノーという土地を中心に展開し、時にふたりはモンブノーを離れ、さまざまな土地や人を訪れて、ワインやバンド・デシネの知見を深めていく。
本編は約260ページ。全19章にわたって、ワインやバンド・デシネのあれこれが語られていく。ワインについては、ブドウの剪定作業から樽工房の樽造り、耕耘、調合剤の散布、摘芽、輸入業者や評論家の受け入れ、収穫、発酵、瓶詰、テイスティング、商品の発送などなど。バンド・デシネについては、作品の着想や作画、印刷、製本、出版社の制作会議、読書、展覧会、フェスティバルなどなど。それぞれさまざまな局面が描かれていく。とりわけワイン造りのくだりは、剪定から発送まで、シーズンを通した作業が時系列にひと通り描かれていて、リシャール・ルロワが取り組んでいるのがビオディナミという広く実践されているわけではない、だがこの時代に真剣に向き合うにふさわしい農法なだけに、とても貴重なレポートになっているのではないかと思う。
ワインにしろバンド・デシネにしろ、厳密にそれらを造るところにだけ焦点を当てるのではなく、その周囲にどんな人がいてどんな仕事をしているのか、それらを享受するとはどういうことなのか、それらの評価はどのようにして確立されるのか、どのようにして仕事に就くことになったのかといった点も描かれ、その輪郭が立体的に浮かび上がるように語られているのが興味深い。一見まるで異なるワイン造りとバンド・デシネ造りの間に案外似ている点があって、びっくりすること請け合いである。リシャール・ルロワはワイン造りを、エティエンヌ・ダヴォドーはバンド・デシネ造りを仕事にしているわけだが、それらはただの仕事ではなく、彼らの人生の中心を占める活動である。結局のところ、本書に描かれているのは、いかに生きるかという問題に他ならない。
本書には、ワイン造りとバンド・デシネ造りについて、実にさまざまなことが描かれているので、どこに興味を持つかは、読者によっても、いつ読むかによっても違うはずだが、とりわけ筆者が感銘を受けたのは、ふたりがものづくりに対して抱いている強い誇りである。
エティエンヌ・ダヴォドーが印刷所でオペレーターに細かな要求をする様子を眺めたリシャール・ルロワは、帰りの列車の中で、次のように述べる。「おまえが要求したいちばん細かい調整なんてさ、もしかしたら読者にはわからないかも、と思ったよ」。それに対して、ダヴォドーはこう答える。「うん、でもぼくにはわかるから」「印刷所に原稿を預けるまでに、ぼくはそこに人生の1年半かそれ以上の時間をささげてきてるんだ」「絵、色、全部この手で描いた」「威張るほどのものじゃないけど、それがぼくの仕事だ。印刷所の人たちはそこに介入してくる最初の人たちで、彼らの仕事が決定的なものになる」「だから自分で校了とサインしたいんだ」。
はたして自分はこれだけの矜持を持って仕事をすることができているだろうかと考えざるをえない。筆者はバンド・デシネを日本語に翻訳する仕事をもう10年以上続けているわけだが、ふとした瞬間に自分の仕事を自虐の念を込めてなんなら「つまらない翻訳」などと言ってしまいかねない気がする……。
強い誇りを抱いているからこそ、この本に登場する人たちは、いい仕事をするために最善を尽くそうともしている。
あるとき、エティエンヌ・ダヴォドーとリシャール・ルロワのふたりは、バンド・デシネ作家のマルク=アントワーヌ・マチューのもとを訪れる。日本でも、『レヴォリュ美術館の地下』(大西愛子訳、小学館集英社プロダクション、2011年)、『3秒』(原正人訳、河出書房新社、2012年)、『神様降臨』(古永真一訳、河出書房新社、2013年)で知られる作家だ。
マチューは個人でバンド・デシネを描く一方で、仲間と一緒に「リュシー・ロム」という空間デザインのアトリエを構えている。リュシー・ロムで社会とつながる分、バンド・デシネでは極めて個人的な夢想を描く。そうすることで、彼はふたつの仕事のバランスを取っている。リュシー・ロムの仕事について、マチューはこう語る。「スタッフは経営担当のイザベルを入れて3人。規模を大きくすることもできたんだけど、イヤな仕事を断れるように小さいままでいたいんだ」「誠実さの問題だね」。それに対して、リシャール・ルロワがこう答える。「ああ、それにはまったく賛成だね。小さいままでいるというのは、自分の仕事の質を完全に把握できるということなんだ。成長を拒否しようぜ」。
イヤな仕事は断り、自分の仕事の質を完全に把握する……。あまりの正しさにぐうの音も出ない。誠実に仕事をしている人たちの口から出たものであるだけに、その正論がすがすがしい。あいにくそれを実践するために、いったいどうやって仕事を作っていけばいいのかという肝心な部分が明かされることはなく、できるものならとっくにしとるわい!という気持ちにならないでもないが、ともあれ、筆者もいつかは胸を張ってこんなことが言えるような、立派な翻訳者になりたいものである。
本書の中で作者のエティエンヌ・ダヴォドーは、何度となく本とワインは人を出会わすためにあるという趣旨のことを述べている。この文章の冒頭で、本書が原書の出版から10年経って、クラウドファンディングを通じてようやく翻訳出版されたことに苦言めいたことを述べたが、してみると案外、それはそう悪いことではなかったのかもしれない。10年翻訳が出なかったことで、本書はクラウドファンディングで発起人を務めた京藤さんや翻訳者の大西さん、サウザンブックスの編集者、そして筆者を出会わせ、そうすることで、本書の日本語版を今このタイミングで読者の皆さんのお手元に届けることが可能になったのだ。コロナ禍の出口が見えかけ、ようやく人が集まれるようになった今、本書の作者であるエティエンヌ・ダヴォドーが来日できるというのもステキなめぐり合わせである。
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エティエンヌ・ダヴォドー来日イベント
◆漫画家エティエンヌ・ダヴォドーを迎えて
日時:10/28(金)18:00~19:30
会場:アンスティチュ・フランセ横浜
内容:エティエンヌ・ダヴォドー講演、エティエンヌ・ダヴォドーx島村菜津対談(進行:京藤好男)https://www.institutfrancais.jp/yokohama/agenda/davodeau/
◆「リアルを描く」
日時:10/29(土)14:00~16:00
会場:仙台日仏協会・アリアンス・フランセーズ
http://www.afsendai.com/event.html?id=65&lang=1
◆エティエンヌ・ダヴォドーを囲んで
日時:10/30(日)16:00~18:00
会場:札幌アリアンス・フランセーズ
http://afsapporo.jp/culture/events/
◆サウザンブックス主催『ワイン知らず、マンガ知らず』作者エティエンヌ・ダヴォドー来日トークイベント
日時:2022年11月2日(水)19時~20時45分(受付:18時30分~)
会場:DEXI office 「Mono Studio」(新宿区新宿1丁目2−8 国久ビル 3階)
https://greenfunding.jp/thousandsofbooks/projects/4818/activities/25388
◆エティエンヌ・ダヴォドー×宮木秀和トークショー「ワインとマンガのマリアージュ」
日時:11/5(土)15:30 ~17:00
会場:AIMビル 3階 315会議室
https://www.ktqmm.jp/event_info/65930
◆エティエンヌ・ダヴォドー×尾瀬あきらトークショー「マンガと酒、そしてワイン」
日時:11/6(日)14:00~16:00
会場:京都国際マンガミュージアム
※原が進行役を務めます
https://kyotomm.jp/ee/talkshow-manga-and-wine/
その他、エティエンヌ・ダヴォドーが原作を手がけた映画『素顔のルル』の上映会が各地で行われる予定。
詳細はアンスティチュ・フランセの「読書の秋」ページから確認のこと
https://www.institutfrancais.jp/blog/2022/10/09/fa2022/
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筆者が友人たちと行っている週一更新のポッドキャスト「サンデーマンガ倶楽部」でも、2022年10月16日更新回で本書『ワイン知らず、マンガ知らず』を取り上げている。よかったらぜひお聴きいただきたい。