「週刊少年ジャンプ」(以下「ジャンプ」)のいわゆる「黄金期」と呼ばれる時代の一翼を担った名編集者であり、今年2023年に連載開始100周年を迎えたマンガ『正チャンの冒険』※1の作者・樺島勝一氏の孫にあたる椛島良介氏。今回、椛島氏の生い立ちから当時のジャンプ編集部の様子、また『ジョジョの奇妙な冒険』の作者である荒木飛呂彦さんとの思い出や、おすすめのマンガまでさまざまなお話をうかがってきました。「週刊少年ジャンプ編」・「荒木飛呂彦編」・「おすすめマンガ編」の全3回に分けてお届けします。
※1^ 1923年1月25日の「アサヒグラフ」創刊号から連載された4コママンガ。日本初のフキダシ型マンガともいわれる(諸説あり)。主人公の「正チャン」と相棒のリスによる冒険の物語が幻想的に描かれ、当時の子供たちの間で一大ブームとなった。
■「ジャンプ」は読んでいなかった
――最初に、椛島さんの生い立ちからうかがえますでしょうか。
椛島 私は1954年、北海道の室蘭の生まれです。残っている最も古い記憶は3歳ぐらい。東京に出て来る飛行機のシーンですね。北海道は当時の家族写真で見ると「こういう所だったんだな」くらいで、全く覚えていないです。室蘭は製鉄の町で、富士製鐵と八幡製鐵が合併して後に新日本製鐵になるのですが、父がその富士製鐵で働いていました。北海道にルーツがあったわけじゃなくて、父がたまたま転勤となって、私が生まれたわけです。
――元々、椛島家は九州の方でしたか。
椛島 そうですね、遠い先祖は佐賀藩です。でも私は佐賀に行ったことがないです(笑)。ただ祖父・勝一は長崎の諫早生まれです。それで長崎県美術館に勝一の原画を寄贈したり、ジョジョ展※2の関係で長崎には何度か行ってます。たまたま長崎県美術館の勝一担当の学芸員の方がジョジョファンで、実現したというわけです。荒木さんの発案で勝一の原画の展示も併せてやったりとかしました。
※2^ 「荒木飛呂彦原画展 JOJO -冒険の波紋-」。2020年1月25日から3月29日まで長崎県美術館で開催され、開催に先駆けて1月23日に荒木飛呂彦×初代担当編集者・椛島良介対談も行われた。
――出版やマンガ編集者の道に進もうとお考えだったんですか?
椛島 当時集英社は、「月刊プレイボーイ」が創刊されたりして勢いがあり、集英社だったらそういうところへ行きたいというのはありました。「少年ジャンプ」は正直読んでいなかったですね。そのころの大学生が一番読んでいたのは「少年チャンピオン」だったんじゃないかな。『がきデカ』とか、『マカロニほうれん荘』とか、『ブラック・ジャック』とか。とにかく面白かったのは「チャンピオン」という印象でした。マンガ体験で言えば、小学生のときは「少年サンデー」を読んでいました。「少年キング」の創刊も覚えてますよ。確か戦艦大和が表紙でした。『鉄腕アトム』のTVアニメなんかも始まって、かかさず見ていた記憶があります。小学校低学年ぐらいですね。「サンデー」はなぜか親が買ってくれてたんです…『伊賀の影丸』や『おそ松くん』を夢中になって読んでいました。典型的な普通の少年のマンガ読書体験だったと思います。
今でも覚えているのは、よく「サンデー」の漫画の絵を切り抜いて貼り合わせて、コラージュみたいなものにしていました。そうしたら、最近、東京国立近代美術館で回顧展をやっている大竹伸朗さんが『紫電改のタカ』の絵で同じことをやっているのを発見して、一驚でした。うろ覚えですけど、動画か何かで「私は昔から貼るのが好きだった」というようなことを言われていて、大竹さんは私の多分一つぐらい年下で、当時の少年が皆貼っていたわけではないでしょうけど、とても親しみを感じます。とにかくスクラップブックですね。大竹さんの作品で見ていて一番楽しいのは。立体造形とか色々ありますけど、膨大な量を貼ってあるスクラップにはとても惹かれます。大竹さんをここで引き合いに出すのはおこがましいのですけど、つい好きなので。
――スクラップは言ってみれば自分の目で見て、いいものを選んで、まとめるという編集作業なので、それがお好きという所から編集者の適性のようなものもあったのかもしれないですね。
椛島 どうでしょうか。私としては自分で描かないというところが、ポイントかもしれないですね(笑)。とにかく貼り合わせるのは好きでした。そんな子供でしたね。中学生以降はそんなにマンガを読んでいた記憶はありません。つげ義春さんとかは一応読みましたけど。
後年、水木しげるさんが勝一の絵が好きだったと知り、つげさんも水木さんのアシスタントをしていた時代があるので、そういう流れから勝一を思い出したりはします。子供の頃から勝一のペン画は、家にあったのでよく見ていましたけど、『正チャン』は読んでいませんでした。実は、今に至るまでちゃんと読んでいないので、今度まとめて読みやすい体裁で刊行される※3のが自分としては楽しみです。フキダシのセリフが手書きのカタカナ文字だと、なかなか普通にマンガを読むようにはいかないですね。早く次に行きたいのに、まず解読しなきゃいけないから辛い(笑)。やっぱりマンガってリズムに乗って読むことがすごく大事なので、そういう意味では初めて『正チャン』をマンガとして味わえるようになる機会なので、ありがたいことだと思っています。
なので、話が逸れましたけど、マンガ編集者を志していたということはないです。たまたま集英社に入って「ジャンプ」に配属されただけです。
※3^ 連載開始100周年を記念して、連載版全869話を読みやすい体裁に変更した単行本が、viviON THOTH出版より、今秋刊行予定となっている。公式サイトはこちら。
――ジャンプ編集部に入られたのが1979年、西村編集長※4の時代ですよね。
※4^ 西村繁男。「少年ブック」で松本零士、ちばてつや、横山光輝などを担当後、創刊から18年間「少年ジャンプ」に携わり1978年には3代目編集長に就任。その後、「フレッシュジャンプ」や「スーパージャンプ」の創刊編集長も歴任。本宮ひろ志、武論尊を漫画家、原作者へと導き「ジャンプ」黄金期の礎を築き上げた。
椛島 西村編集長は、目の具合が悪いとかで昼間から編集部でサングラスをしていたりと、とても強もてな感じでした。当時はタバコも編集部でバンバン吸っていて、吸い殻もちゃんと始末して捨てないから部屋中燻っててひどい状況でした(笑)。4月に入社して、1ヶ月ぐらい研修があって、販売や制作や編集など、一通り各部の人の話を聞いて、その後に「ジャンプ」に仮配属され、半年間ぐらい試用期間がありました。正社員になったのは秋くらいだったでしょうか。人によっては仮配属と本配属で部署が変わったりしますが、私の場合は仮配属からそのまま「ジャンプ」でした。
ジャンプ編集部に最初に行ったときのことはよく覚えています。西村編集長が出て来て。例のサングラスでね。ずっとタバコをふかしながら、最初の訓示みたいなものを喋る。それがくぐもった声で、何て言っているのか全然聞き取れない(笑)。途中で諦めて、後で隣の同期の堀江くん※5に聞けばいいかと思っていました。そういうのは普通短めに話すじゃないですか。でもそれが長かったんです。10分ぐらいだったかな。一言も聞き取れなかったから、長く感じたかもしれないですけど(笑)。外国語だって、ちょっと単語くらいは入ってくるじゃないですか。緊張してるせいなのか分からないけど、とにかく聞きとれない。後で堀江くんに聞いたら、堀江くんも「全く分からなかった」と(笑)。だから、そのときに西村さんが何て仰ったのか、いまだに分からないままで残念です。
そういう不肖のスタートでした。西村編集長には、よく叱られましたけど、私にとってはThe 編集長という感じです。私が曲がりなりにも今日あるのは西村編集長のお蔭だと思っています。そして、その編集長のもとで、とにかく活気のある編集部で。配属後すぐに確か300万部を突破しました。
※5^ 堀江信彦。現コアミックス代表取締役。1993年には5代目の週刊少年ジャンプ編集長に就任し、歴代最多部数の653万部時代を牽引した。代表的な立ち上げ作品は『北斗の拳』や『シティハンター』など。本名または北原星望(きたはらせいぼう)のペンネームで脚本家・原作者・作詞家としても活動。
――そうですね、1980年に「ジャンプ」は300万部を突破しています。
椛島 そこから私は1992年くらいまで約13年いたんですけど、とにかく部数が毎年上がって行きました。右肩上がりで。私がいたときにすでに600万部に達していたんじゃないかな。その後もさらに650万部まで行くわけです。とにかくもう売れて売れて、毎年記録を更新して、怒涛の時代でした。スタッフは皆もう、何か「俺が」「俺が」みたいな雰囲気がありましたね(笑)。とにかく人気アンケートで上位を取るというのが編集スタッフ全員の目標ですから。新人漫画家と二人三脚で上を目指すというビジネスモデルは、今思い返しても、完璧でした。「新人起用」、「アンケート重視」、「専属契約」を柱にしたいわゆるジャンプ・システムです。
長野編集長、中野編集長、西村編集長で3代目ですけど、創刊して10年ちょっとで、私が入ったときにはシステムが完全にできあがっていました。新人起用に関しては、「ジャンプ」は後発で「サンデー」や「マガジン」に人気漫画家はすでにとられているし、しょうがないから新人漫画家を育てようとなったと言われてますね。それにしても見事なまでのビジネスモデルだと思います。ただ「新人起用」と「アンケート重視」、この二つは意味をよくよく考えると恐ろしいです。
■完成されていた「ジャンプ」システムのすごさと恐ろしさ
椛島 この二つは、新入社員にとってはある意味で福音なんです。新人を大事に育ててアンケートで人気さえとれればいい、ということですから。例えば、ヒエラルキーって、普通どこの世界にもあったりしますよね。大御所がいて、やっぱりそこは単に実力勝負だけじゃない、難しい問題もあるじゃないですか。だけど、「ジャンプ」はそうじゃないんです。「新人起用」「アンケート重視」ですから。昨日まで全く無名だった才能が、大先生を押しのけて一瞬で大スターになるわけです。最近だと『鬼滅の刃』の吾峠さん。10年前は誰も知らなかった。でも、あっという間に一世を風靡してしまう。
――『鬼滅の刃』は1億5000万部を突破しましたね。
椛島 短期間ですごいですよね。だから、いまだに「ジャンプ」のビジネスモデルってものすごく機能しているんだと思います。と、ここまでは誰でも容易に想像がつくところでしょう。けれど、その意味をよく考えたら恐ろしく思えてきます。どういうことかと言うと、新人編集者、新人漫画家はいいんです。私なんかも入社後1年も経たないくらいで荒木飛呂彦さんに出会って、手塚賞に応募して、準入選を取って…そうやってステップアップしていく。とにかく読者の支持さえあれば、全くの新人漫画家であっても、担当者が新人でも、ブイブイ言わせられる可能性があるじゃないですか。だから新人はいいのですけど、逆に言うと、上に行けば行くほどすごくシビアなルールだと思うのです。
たとえば編集長も若い頃は誰かの担当をしていたわけじゃないですか。そうやって多くの先生方のご尽力のお陰で自分も編集長になれたわけだし、雑誌も伸びて成長してきたわけです。でも、人気がなくなったら、その先生方は新人起用の影の方に行っちゃうことになる。それはなかなか厳しいことです。実績はあって、お世話になった先生方です。でも、人気がなくなったら道を空けていただく。実際にそういう立場に置かれないと、そこをリアルに考える人はあまりいないと思います。どこの世界もそうですけど、業績を支えてきたような人に対しては、変わらぬ感謝とリスペクトというのは当たり前のことですし。でも時代の変化によって読者とズレてきたりもする。そういうときに「先生、ちょっと人気がないんで…」というのは、なかなかにシビアなことだと思います。そして、実際にそれをやってきたというのは、今考えてもすごい。「ジャンプ」が後発で、なまじ歴史が10年ぐらいしかないからできたことかもしれないですね。
あと「専属契約」というのが、これはやっぱり「新人起用」とセットで大事で、表裏というか。新人漫画家さんはやっぱりキャパがないので何本も連載を描けないでしょう。だから「専属契約」って才能の囲い込みというイメージがあると思いますけど、これもすごく合理的です。要するに、フリーの人ってなかなか仕事を断れない。例えば「ジャンプ」で当たったとする。そうしたら「サンデー」や「マガジン」から声がかかって、「憧れの歴史と伝統ある雑誌からお誘いが来た!」とついなっちゃうじゃないですか。でも、そう何本も描けないですよね。そういうときに「専属契約」があると、「いや、本当にありがたいんですけども、自分は「ジャンプ」の専属なんで」と言える。まあ1年契約ですから。どうしてもよそに行きたかったら、契約が切れるまで待って行ったっていいわけです。だけど、やっぱり新人が腰を据えて作品作りをするという意味では、「専属契約」は機能しているといえるでしょう。
――一度「ジャンプ」で描いたら、基本的にもう「ジャンプ」以外で描けないというイメージを持っている読者も昔は多かったと思います。
椛島 今でも1年契約じゃないですかね。自動更新になっていると思いますけど。ごくまれに他社でも仕事をした漫画家さんはいましたけど、少年誌を掛け持ちというのはほとんどなかった。やっぱり人気アンケートで上位をとるというのは難しいです。何誌も掛け持ちでやってできることではないでしょう。「新人起用」と言ったって、チャンスは与えられるんですけど、人気を取れなければダメなんです。年間で何十本という連載が始まっても、残って行くのは数本です。とても狭き門です。でも、連載のチャンスは掴みやすかったりはしますよね。そのときにまず壁にぶつかるのは、人気をいかに取るかです。当時、私の前に立ちはだかったのは『リングにかけろ』でした。
■圧倒的大人気の『リングにかけろ』から学んだこと
――同時代には『キン肉マン』や『Dr.スランプ』※6(*これはもう少し後の作品)などの大人気作品もありましたが、『リンかけ』だったんですね。
※6^ キン肉マンは1979年22号連載開始、Dr.スランプは1980年5・6合併号連載開始で、大人気を博すのはもう少し後の時代となる。
椛島 『リンかけ』はダントツ人気1位でした。もう2位とか3位とかは覚えていません。とにかく圧倒的な1位でした。そして、まず最初に思ったのは、『リンかけ』の人気の秘密を理解して、言語化できないなら、「ジャンプ」やその読者がよく分からないことになる、ひいてはこの職場ではやっていけないだろう、ということでした。だから、とにかく考えてましたね。分からなければ、自分の担当している漫画家さんにも伝えられない。
『リンかけ』のパターンとして、最後に見開きで必殺技がドカーンと炸裂して終わるというのがあるじゃないですか。あれをやっぱり皆真似するんです。形だけ皆真似してましたけど、ほとんどの人はそのまま人気がなくて終わる。1回の連載が20ページ前後で大体10回、コミックス1巻分です。10話で終わるということは、終了を決めるのは大体3回目か4回目かのアンケート結果なんです。タイムラグもあるから、10話目を描いているときに10話目での終了は決められない。もう次の新連載が決まってなきゃいけない。だから、苦しいですよね。皆が『リンかけ』を意識して、分析して、それなりに真似する。だけど、それで人気作品にはならない。つまり、真似になってないってことです。(『リングにかけろ』の、パンチ一発で競技場の遥か外まで選手が吹っ飛ぶシーンを見ながら)こういうシーンはやっぱり皆印象に残りますよね。マンガなんだからニューヨークまで飛んで行くことだって、描こうと思えば描けるわけです。形で真似すると、こういうところに目が行きがちです。でも違う。そこじゃないんです。じゃあ何だろうなって考える。マンガのリアリティについてものすごく考えさせられたんです。
マンガのリアリティっていうのは、ただ現実っぽく描いたって駄目じゃないですか。リアルに描くマンガももちろんありますけど、そのマンガ固有のリアリティというのがそれぞれにあって、そこがきちんとされていなければならない。だから、いきなりこういうシーンだけを真似して描いても、前提としてのその作品の世界観ができてないと駄目ですよね。だからこのシーンでいうと、この極端な表現それ自体ではなく、その表現を読者に納得させられる、そこに至るまでの流れがあったことが大事なわけです。読者に「ちょっと大げさ過ぎてついていけないよ」って言われたら駄目ですよね。でも読者は、熱狂的に拍手しているのです。やっぱり説得されてるわけです。それは、敵に対して「なんて汚い奴らだ!」という読者の気持ちとかを、“人間場外ホームラン”を許容できるぐらいのボルテージまで高めていたっていうことなんです。むしろ大事なのはそこなのです。最後、見開きで「バーン!」となって、というシーンだけじゃなくて、そこに行きつくまでに、どれぐらい読者の気持ちを高めておくかということです。心理的なリアリティができ上がってるからこそ、これでいい。車田さんはそこまで持って行っているわけです。そういうことを2、3年くらいずっと考えてました。
それと、今読み返して思ったんですけど、非常に週刊誌のテンポになっていますね。あまりうだうだやっていなくて、試合の展開なんかとても速い。ほとんど無駄がない。非常に洗練されていて、大事なエッセンスだけで進行していく。19ページの中のラスト4,5ページなんじゃないかな。闘いが始まっちゃうと、あっという間に終わる。週刊誌のリズムに非常に即しているというか。でもキャラクターの想いとか、背負っているものとか、生い立ちなどは前半にしっかり描いているのです。それが全体の2/3くらいあるでしょうか? 登場人物たちの想いをきちんと描きこむ。でも、いざ闘いが始まると早いテンポで進む。そこが真似した人たちとの大きな違いです。人間場外ホームランになっても、むしろ「よくやった!」と言わせるぐらいにまで読者を巻き込んでいた。人間を拳で回転させて飛ばしたりしますから(笑)。そんなことできるわけないって言っちゃったらね、ダメなんです。
――『リンかけ』も荒唐無稽ではあるんですけど、それこそ白土三平さんの作品のような理屈付けもされていて、子供の頃は納得感を覚えながら読んでいました。『聖闘士星矢』などでも理系的な要素がありますが、車田さんのどこからそういったものが出て来るのかは、不思議でした。編集さんの影響などがあったんでしょうか。
椛島 よくわかりませんが、おそらく担当者との打合せで、アイデア出しはよくやっていたんでしょう。とにかく今読んでも全然古びていない独特の世界ですね。あとはやっぱり神話的なものを感じました。神話っていわゆるリアリズムを超越したところにあるじゃないですか。ギリシャ神話とかでは、死んだ人が生き返ってきたり変身してみたりとか。超能力といえば超能力ですよね。それに近いものを感じました。そうしたら、しばらくして『聖闘士星矢』が始まって(笑)。そうだよね、しっくりするよね、と。
――なるほど(笑)。(『リングにかけろ』と『聖闘士星矢』の間に連載されて人気を博した)『風魔の小次郎』にもそういうところはありましたね。
椛島 そうですね。とにかく『リングにかけろ』という作品は、当時ジャンプ編集部に入った私が「マンガとは何か」、「マンガのリアリズムとは何か」を一番学ばせていただいた重要な作品です。
■諸星大二郎さんの作品は救いだった
――椛島さんは、ジャンプ編集部に入ったときに一番最初に担当された作品は何だったんでしょうか。
椛島 最初は、『アストロ球団』などで活躍されていた原作者・遠崎史朗さんと漫画家・川島よしかずさんのコンビの『ラジコン戦争』(※遠崎史朗さんはジェームス・高木名義)でした。先輩の企画をうけついで担当したのですが、力及ばずというか編集者としてまったく未熟だったので10回で終わってしまいました。右も左も分からなくて、「校了とは何ぞや?」とかまずそういう所からのスタートでした。当然、入ったばかりなので、自分にはまだ一緒に仕事をする新人漫画家もいませんでしたし。でも『ラジコン戦争』から学ぶべきものが一杯あったのは確かですね。原作付きでしたし。
とにかく週刊誌の仕事って1週間が早いんです。20代の1週間は今の1週間よりは、感覚的に長かったかもしれないですけど。そのペースでずっとやって行くというのは、大変でした。先輩に最初の1回だけ少し教わって、後は自分でやるしかない(笑)。基本的に「新人起用」「アンケート重視」で、全員ライバルじゃないですか。だからといって、潰しに入ったり、いじめがあったりってことはないですけど。そういえば、よく「ジャンプ」の漫画のコンセプトを「友情・努力・勝利」とか言われたりしますけど、編集部の中でああいう言葉を聞いたことは一度もないです。対外的にはそれで納得してもらえるので、言っていたかもしれないですけど(笑)。
(諸星大二郎作『アダムの肋骨』奇想天外社刊を手にして)これが78年ですから、私が集英社に入る直前くらいに出た作品ですね。最初に読んだ諸星作品がこの『アダムの肋骨』でした。澁澤龍彦とか怪奇小説が大好きだった人間としては、入りやすかったですね。諸星さんのデビューは違いますけど(※1970年に「COM」でデビュー)、すでに「ジャンプ」で何度も連載されていた。だから諸星さんの作品には救われた気がしました。こういう作品も「ジャンプ」にあっていいんだ、と。「ジャンプ」がすごいのは、この多様性でした。諸星さんはすでに『妖怪ハンター』とか『暗黒神話』とか『孔子暗黒伝』などをジャンプで連載している。『孔子暗黒伝』なんかもう凄まじい話です。神話や古代史、SF的なものが入り混じって壮大なスケールで描かれている。こういう作品も載っていた。星野之宣さんとかも連載されてましたし。そこが当時の「ジャンプ」のすごいところでしょう。
諸星さんも星野さんも手塚賞受賞漫画家でしたね(※諸星大二郎は1974年第7回手塚賞に『生物都市』で、星野之宣は第9回手塚賞に『はるかなる朝』で入選)。「ジャンプ」を読んでいて「ジャンプ」の作家になった人もいれば、手塚賞に憧れる才能の人もいる。
――荒木飛呂彦さんも手塚賞ですもんね。
椛島 そうです。本当の意味での多様性が担保されていたと思いますね。『リンかけ』の傍らで、諸星作品があってもいいというのは、とにかく私にとっては大きな救いでした。
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