今回紹介する戦場マンガは太平洋戦争末期の特別攻撃隊を描いた『銀翼(つばさ)』だ。爆弾を装着した戦闘機が敵艦艇に体当たりする特別攻撃隊に関しては、第一番のちばてつや作『紫電改のタカ』のクライマックスにも描かれていたが、自ら爆弾となって死ぬ道を選んだ若者たちの心情をより克明に描いた作として本作を取り上げたいと思う。
作者は、極道マンガの第一人者・立原あゆみ。連載されたのは『週刊少年チャンピオン』1997年21号から29号だ。96年34号で代表作『本気!(マジ)』が一旦完結した後、『本気!番外編 命』や98年から連載の『本気! II』の前に位置する異色作である。単行本は「ヤングチャンピオン・コミックス」から全1巻で刊行。表紙には「1」という表記があり、続編を描く構想があったのかもしれない。
ときは太平洋戦争末期。舞台になるのは鹿児島市の南に隣接する旧鹿児島県川辺郡知覧町(現在の南鹿児島市)である。町の中心部には石垣に囲まれた武家屋敷が並び、周囲には茶畑が広がるのどかな土地だ。
旧知覧町に陸軍の知覧飛行場がつくられたのは1941年。44年までは大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊の飛行兵訓練場として使われた。そして、45年春、知覧飛行場は沖縄戦のための特別攻撃隊出撃基地となった。
陸軍航空部隊の渋沢大助伍長は19歳。中隊長から「ト号(特攻)要員として志願してくれる者は一歩前に出てくれ」と告げられた彼は一歩を踏み出した。家族との別れに与えられた時間はわずか。翌々日の早朝、神山少尉に率いられた5機の陸軍一式戦闘機「隼」は大助たちを乗せ知覧に向け飛び立った。
特別攻撃隊は、海軍が創設した神風(しんぷう)特別攻撃隊が広く知られているが、陸軍では「ト号部隊(正式には<と號>だが作中表記に合わせる)」と呼ばれた。
ト号部隊の最初の航空特攻は44年10月。浜松にあった鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって行われた。知覧飛行場からの特別攻撃は45年4月から本格化し、7月までに402名が出撃した。
知覧に着いた大助たちは100時間後に予定された出撃に備え、第13兵舎に寝泊まりすることになった。敵の目を避けるため屋根だけを地上に出した半地下構造の兵舎は「三角兵舎」と呼ばれ、洗濯や食事の世話は近くの知覧高等女学校の学生たちが担っていた。
思い思いに時を過ごす大助たちだったが、翌日、予定よりも出撃を早めるという命令が下った。その日の朝飛び立った特別攻撃機は全滅。そして、不沈艦と呼ばれた大和までもが沖縄の沖に沈んだのだ。
翌朝、神山隊は沖縄に向けて飛び立った。しかし、大助の乗った機は燃料系のトラブルで帰還を余儀なくされる。知覧には戻れたものの、エンジンがひどく損傷して次の出撃に参加することは困難だった。
物語は、一緒に死ぬはずだった仲間を失ってひとり生き残った大助を軸に進んでいく。
考える時間のできた大助は、「国のためではなく恋人のタテになって死ぬ」と言った神山少尉の言葉を反芻し、自分がなぜ一歩を踏み出したのかを自問自答する。負けるとわかっている戦を続ける意味。「ト号」を使う意味を…。
大助は、『紫電改のタカ』の滝のように、はっきりと戦争を否定しているわけではない。むしろ自分の死にはなにか意味があるはずだと信じようとしている。
そんな大助の前に現れた神山少尉の許嫁は言う。「あなたを守って死ぬ人がいる事を望みますか」と。漠然と「母のために死ぬ」と考えていた彼はその言葉に悩む。
一方で、新たに兵舎に入った下島隊の下島中尉から「この国で一番大切な命 ト号の命 国のため死ねる命だ」と言われたときには「自分の命に大切という形容詞がついた事 うれしかったです」という気持ちにもなる。
大助の隼を修理する整備兵たちの思いも複雑だ。機体を直す作業は、大助の死を早める作業になる。しかし、大助は下島隊の出撃が決まれば九三式中間練習機を改造した特攻機を使ってでも飛ぶと言う。隼を直せば大助は死ぬが、直せなければ不完全な改造機で犬死にさせることになる。
立原は南鹿児島市にある「知覧特攻平和館」に足を運び、特攻隊員の遺書や手紙、知覧高等女学校の生徒の日記などの収蔵資料を読み、展示されている修復戦闘機などを見学したのだろう。遺書には出撃直後に不時着し、2度目の出撃をした隊員のものもある。
大助も、母や世話をしてくれた知覧高女の生徒・姫子らへの手紙を残し出撃する。
このマンガを読み終わって感じたのは、もし自分が、「ト号要員として志願してくれる者は一歩前に出てくれ」と言われたら、大助の立場になったら、どういう答えを出すのだろうか? 特攻機の整備士になったらどうするのか? ということだった。