大阪・心斎橋に仕事場を置いていた30代なかば、専門学校で非常勤の先生を引き受けたことがあった。古くから速記者を育成していた学校が、速記コースに加えて、編集ライター・コースと医療事務コースを新設したのだ。フリーライターを始めて5年の駆け出しに先生が務まるはずもないのではじめは断ったが、「学生たちを遊んでやってくださればいいんですよ」という校長先生の言葉で心が動いた。担当する授業は木曜日の午前中の2コマ。終わると校長室で校長先生やほかの先生方と一緒に仕出し弁当をいただいた。小規模で家庭的な学校だった。
学校はJR天王寺駅から歩いて10分くらいのところにあったから、午後は天王寺・阿倍野界隈で映画を見たり、本屋を覗いたりして過ごすことが多かった。まだ、駅前再開発が進む前で、路面電車が走る町並みにはどこか懐かしい雰囲気が漂っていた。
近鉄百貨店がある阿倍野橋駅からは、近鉄南大阪線のマルーンレッドの電車にもよく乗った。沿線は歴史遺産の宝庫みたいなところで、古墳群や由緒ある神社仏閣、江戸時代の面影を残す町並みなど見どころが満載だった。近鉄バファローズの本拠地・藤井寺球場もあった。日が長い夏の午後などにはちょうどいい観光列車だったのだ。
ある時、いつものように近鉄電車に乗っていて気づいたことがあった。学生時代、下宿の近所の食堂に置いてあった雑誌で読んだマンガの舞台がこの沿線ではないか、ということだった。
そのマンガは、どおくまん(原案/太地大介)の『嗚呼!! 花の応援団』だ。双葉社の『週刊漫画アクション』で連載されたのは1975年10月16日号から79年5月24日号。76年には曽根中生監督で映画化もされて、当時ロマンポルノ路線だった日活としては、一般映画での久々のヒットになった。
マンガに登場する南河内大学は、大阪・河内にある私立大学。もちろん架空の大学だ。
「河内」と聞いて一般に連想されるのは、大阪府八尾市だろう。作家で、八尾市にある紫雲山天台院の住職でもあった今東光の小説『悪名』や『河内カルメン』の影響かもしれない。あるいは、八尾のお隣・東大阪市出身の歌手・中村美律子が歌う「河内おとこ節」からかもしれない。いずれにしても、河内=八尾というイメージがあるのは間違いない。
だが、八尾や東大阪があるのは「中河内」というエリア。南河内大学の「南河内」は、松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、大阪狭山市、河内長野市、太子町、河南町、千早赤阪村の6市2町1村で構成されているエリアなのだ。
近鉄南大阪線は、阿倍野橋駅と奈良県橿原市の橿原神宮前駅を結ぶ路線で、大阪府内は主にこの南河内一帯を走る。古市(ふるいち)駅で近鉄長野線に乗り換え、終点の河内長野で南海高野線に乗り換えれば南河内完全踏破も可能になる。途中の喜志(きし)駅がどおくまんの出身校大阪芸術大学の最寄り駅ということはあとから知った。
マンガは、河内の辺鄙な場所にある南河内大学に兵庫県姫路市出身の富山一美青年が入学するところからはじまる。
成績も悪く、どこでもいいから4年間遊ぶつもりで大学に入った富山だったが、上級生の強引な勧誘に負けて応援団に入団。ここからおかしくも哀しい大学生活が始まる。
応援団は典型的な縦型社会で、4年生が一番偉く、さらにOBがその上にいる。最下層の1年生がやることといえば、まず先輩にあったときにはバカでかい声で「オッス」と言うこと。先輩がタバコをくわえたらさっと火をつけること。あとは、使い走り、団室の掃除、道具の片づけ、電話番……。そして、上級生のシゴキをうけること。いまならパワハラなのかもしれないが、マンガに悲惨さはあまりない。
上級生は虚勢を張るばかりで、いざというときは逃げるばかり。普段は、金と女のことばかり考えながら、授業をサボって部室で遊び暮らしている。どこか日本社会の縮図のようにも見える。
入団早々、富山と同級の北口良一は団の親衛隊に配属される。そこには3年生で親衛隊長の青田赤道がいた。連載は、巨漢で喧嘩に強く、無類の女好き、スポーツも万能という赤道が引き起こすけったいな事件に、弱いくせに正義感だけは一人前以上の富山と北口が巻き込まれるというオムニバス形式だ。
下品なエロとバイオレンスとナンセンスのギャグマンガと説明されることが多いが、実際に読んでみると、上方人情喜劇の定石に則っているのがわかる。富山たちは、正しいことのためならひどい目に遭いながらも強い相手に立ち向かい、いよいよ困ったときには赤道が登場して、弱きを助け強きを挫くのである。
高校時代にあこがれていた女性と再会した北口が、いまは悪い男のために苦しんでいる彼女を救うために単身、男と仲間のチンピラグループに挑んでいく、というエピソードが好きだ。チンピラたちにボコボコにされた北口の前に赤道が現れ、悪い連中を返り討ちにするところは拍手もの。切ないラストもいかにも上方人情喜劇らしい。
あの日感じたのも、近鉄南大阪線にはこういう人情が似合う、ということだった。40年前を思い出してまた乗ってみたい気もするのだが、いまはどうなっているのだろうか?