わずか13ページの心理劇 さくらももこ『永沢君』

わずか13ページの心理劇 さくらももこ『永沢君』

 さくらももこの『永沢君』を読み返した。『ちびまる子ちゃん』に登場する「永沢」を主人公に据えた漫画である。「タマネギ頭のあいつ」と言えばピンとくる方も多いかもしれない。1995年の作品で、単行本一冊にまとめられている。

 『ちびまる子ちゃん』は小学校が舞台だが、『永沢君』は中学校の話。ここに大きな違いがある。登場人物はみな思春期を迎えているのだ。恋愛と自意識。ちびまる子ちゃんにおいてはあまり語られることのなかった二つが前面に出てくる。それが「クラスのすみっこにいる冴えない男子」である永沢を中心に描かれる。

 『永沢君』は基本的に一話完結で、どの話も非常に面白い。この記事では、その中でも出色の出来である第5話の『性格』を読んでいきたい。微妙なレベルの人間心理を扱った名作である。以下、たった13ページの漫画で3000字ほど書いちゃってますが、まあ、それだけ名作だということで。

永沢君の性格はよくない」

 冒頭、藤木と小杉が教室で話している。この二人も『ちびまる子ちゃん』に登場したキャラである。話題は「永沢君の性格はあまり良くないのでは?」ということ。ここで読者は「たしかに」と思ってしまう。この漫画を読むかぎり、永沢という男は本当に「性格がよくない」のである。たとえば、以下のコマはその典型だ。二人が人の性格を話していたと知った永沢の辛辣な言葉である。

永沢の典型的な物言い。(『永沢君』p.66より)

 永沢という男は「正論の化け物」である。そして「冷徹な観察者」でもある。たしかな観察力を持ち、高度な論理をあやつるが、そこに「気遣い」だけがないのである。永沢は観察や論理がときとして暴力になることに無自覚だ。だからこそ、自分がナイフを振りまわしていると気づかずに、観察と論理で友人を不快にさせる。それが「永沢君はあまり性格がよくない」ということの意味である。

 さて、三人は互いの性格についてじっくりと話し合うために、永沢の部屋に集まることになる。ここでも永沢はナイフを振りまわしている。小杉に対して、「君は愚鈍なほうだ」と指摘するのだ。そして藤木には「君は卑怯だな」と言ってのける。まったく、「永沢無双」とでも呼びたくなるような状態である。

 小杉は気を遣って、「藤木くんはお人好しだよ」とフォローするが永沢には関係ない。それも即座に否定して、「そのお人好しの裏には卑怯が隠れているのさ」と断言してしまう。この永沢という男は、本当に性格がよくない!

 では、この話は「永沢の性格は悪い」というだけの話なのか? そうではない。ここからが本番なのである。

密室で性格を語り合うことの不毛

 小杉は愚鈍で、藤木は卑怯。つぎつぎと断定していく永沢の横暴に、とうとう小杉がぶちぎれる。「君は嫌われ者だ」と永沢を罵倒するのである。ついに小杉はまわりくどい言い方をやめた。さすがの永沢もショックを受ける。場に沈黙が降りる。

 ここでさくらももこは、永沢の母親を場に召喚する。この展開が絶妙である。永沢はすぐさま母親に言う。

「かあさん、ボクって思いやりがなくて好感がもてない嫌われ者なんだってさ」

「えっ、誰がそんなことを言ったんだい?」

「ここにいるみんながさ」

お母さんのすばらしすぎるリアクション。(『永沢君』p.71より)

 なぜ、「永沢の母親を場に召喚したこと」はすごいのか? この展開によって、話が次のステージにあがるからだ。お互いの性格について密室で語り合うこと。これは本質的に不毛である。性格とは「実際の行動」によって示されるものだからだ。言葉の世界で話し合っていてもラチがあかないのである。そして母親の登場によって、唐突に「実践編」がはじまるのだ。

 息子の評判の悪さを知った母親は、その場で泣きだしてしまう。そしてとぎれとぎれの言葉で二人に謝罪する。自分の子育てが間違っていたのかもしれない、みなさんに迷惑をかけて本当に申し訳ない、うちの子にも少しくらいは良いところはあると思うんですが……。

 中学生男子にとって、この状況はまさに「地獄」である。そして藤木は、すかさず次のように言うのだ。

「違うんです、おばさんっ!! ボクは言ってない!!

 永沢君のことをきらわれ者だなんて言ったのは、全部、小杉君ですっ!!」

この時の藤木の顔がまた良い。(『永沢君』p.72より)

「卑怯」とは何か?

 余裕のある状態において、人はその本質的な性格を見せることなく、善人としてふるまうことができる。平時においては誰もが善人である。卑怯とは「豹変」にある。友人の母親が泣き出した。この非常事態において、藤木はすぐさま豹変する。小杉ひとりに罪を押しつけ、自分は何の関わりもなかったかのように振る舞うのだ。藤木が卑怯たるゆえんである。

 そして永沢の洞察の恐ろしさは、平時においても藤木が卑怯だと見抜いていたことにある。「そのお人好しの裏には卑怯が隠れているのさ」。藤木の豹変ぶりを見せられた今、この言葉はズシリと重い。

 次に小杉である。母親は、藤木にだけペコリと頭をさげると、涙をふいて部屋を出ていく。藤木は無事に自分の評判を死守したのである。このとき小杉は、以下のような反応をみせる。

「あ……待ってくれよぉ……!! 永沢君のおばさん……」

「愚鈍」とは何か?

 めまぐるしく変化する状況に対応できない人間、すべてが取り返しのつかない状況に陥ってからようやく事の重大さに気づき、なんとか挽回しようともがきはじめる人間。それが「愚鈍」である。母親が泣き出したことで場のルールは変わった。もはや足元に火が付いている。この空間は戦場になっている。藤木は即座に対応した。「卑怯」だからである。しかし小杉は対応できない。母親が場を去った後で、ようやくルールの変更に気づく始末だ。「愚鈍」だからである。

 結局、永沢の観察は正しかったのだ。非常事態において、藤木も小杉も、永沢が指摘したとおりの「性格」を披露してしまっている。たしかに藤木は卑怯で、小杉は愚鈍なのだ。

 母親は去った。小杉はひとり悪役を押しつけられ困惑している。「かあさんはもうとっくに行っちゃったよ」。永沢の言い草は冷たいものである。これはまあそうだろう。しかし、である。ここで藤木が追い討ちをかけるように以下の言葉を放つのである。

「小杉くんは、つくづく愚鈍だなあ」

 私は、藤木のこのセリフが好きで好きでたまらない。何度読み返してもここで爆笑する。数分前まで小杉のおおらかな性格をほめたたえていた藤木が、「小杉くんは、のんきでいい奴さ」と言っていたあの藤木が! こいつ、マジで卑怯だな!

卑怯VS愚鈍

 いまや対立の場は藤木と小杉に移された。小杉は藤木に言う。

「藤木君、キミ、本当に卑怯だな。愚鈍のほうがまだいいよ」

「愚鈍よりも卑怯のほうが便利だよ、愚鈍は最悪さ」

 以下、二人の低レベルな言い争いが続けられる。藤木が卑怯はスパイにもなれると言えば、小杉は愚鈍はみんなから愛されるんだと言う。いつのまにか議論は、「卑怯と愚鈍はどちらがマシか」というレベルにまで落ち込んでいる。この不毛な状態を「冷徹な観察者」が見逃すわけがない。そして最後の一コマがやってくる。

 

「ボクは……どっちもイヤだなあ」

 話は終わる。永沢の性格の悪さ、藤木の卑怯さ、小杉の愚鈍さ、そのすべてがあからさまに露呈し、ついでに永沢の母親まで傷つけて、何ひとつ救いもないまま話は終わるのだ。尊敬できる人間がひとりも出てこない、わずか13ページの心理劇。まさに、さくらももこの真骨頂。ぜひご一読を。

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