片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編)

作品の細部にまでこだわって描写する監督・片渕須直。作品の細部を読み解こうとする研究者・細馬宏通。「この世界の片隅に」をめぐって、この二人のトークセッションが行なわれた。聞き手も受け手も、ものすごく細かいところについて語っていて、思わず「こまけー!」と声が出そうになるのだが、しかし読めば読むほど、原作も映画も本当に丁寧に作られた作品であることがしっかりと伝わってくるトークになっている。観客は原作と映画はすでに見ているという前提でのトークなので、未見の方はまず作品を味わってから読まれることをおすすめします。

(2017年1月28日、京都・立誠シネマで行なわれたトークセッションを再構成したものです)

「はだしのゲン」を2巻から読んだこうの史代

細馬 あの映画を拝見して、まず「監督はすごくマンガを読み込む人だな」と感じたんですね。それも単なるマンガ好きでパッパパッパ読んでるということじゃなくて、細かい表現をかなり読んでいる。相当読み込まないと絶対アニメに反映されないはずのところが、アニメになってるんですよね。だから、今日は監督のマンガ歴をお聞きしたくて。今まで誰も聞いてないだろうと思ったんだけど、どうでしょう?

片渕 マンガは普通には読んでたと思うんですよ。でも、そんなにドーっと読んだって感じはないですね。ただ、中学生くらいの頃は帰り道に本屋さんがあって、軒並み立ち読みしてましたね。

細馬 「軒並み」というのは?

片渕 サンデー、マガジン、ジャンプ……みたいな。「はだしのゲン」はその時に読んでるんですよ。雑誌で立ち読みで。

細馬 「はだしのゲン」は、やっぱり掲載されてる時のインパクトがすごいですよね。

片渕 「はだしのゲン」が連載されてた頃、別の連載で「ぼくの動物園日記」(飯森広一)というマンガがあって。動物園が空襲にあったら、動物が逃げ出して暴れてしまうので、動物を殺さなきゃいけないという。そんなのを読んでましたね。

細馬 70年代前期から中期にかけての、あの頃のマンガ表現のえげつなさといったら、今とくらべても相当すごいと思う。ジョージ秋山さんの「アシュラ」とか。

片渕 「アシュラ」は、あの時代でも「ちょっといくらなんでも……」とか思いながら読んでた。

細馬 鍋から人間の手とか出てたんですよね。

片渕 そのあたりの作品は全部読み通したわけではないんですけど、チラチラ見てるんですよ。その頃が一番マンガに接してたんじゃないかなと思うんですけどね。

細馬 じゃあその頃はサンデー、マガジン、ジャンプの一気通貫みたいなことをやって。

片渕 どれ見ても永井豪さんが連載してるみたいな(笑)。マガジンでは「デビルマン」をやってましたけど、その頃のマガジンって、「あしたのジョー」もやってて、「天才バカボン」もやってて。

細馬 あの頃のマガジンは本当にどうかしてましたよね(笑)。

片渕 こうの史代さんは、マンガにすごく厳しいお宅で育たれたらしくて。僕が聞いた範囲では、家に1冊か2冊しかマンガの本がなくて、それで誕生日に友達からもらったのが「はだしのゲン」の2巻だという(笑)。

細馬 うわー、2巻(笑)!

片渕 2巻だけある。

細馬 2巻はもうすごいところから始まって、いろいろあるんですよね。

片渕 江波に行く前かな、家が焼けちゃって。

細馬 「焼けちゃって」のところが一番ひどいんですけどね。

片渕 お父さんとか弟とか、みんな死んじゃって。

細馬 「ギギギ…」っていう。たぶん「はだしのゲン」で最も凄絶な場面ですけれど、2巻からだと、その衝撃がいきなり前触れもなくやってくるという。

片渕 その1冊だけ持ってたのかと思うと……。

細馬 みなさん、「はだしのゲン」にどのようなイメージ持っておられるか知らないけど、1巻はけっこう能天気なんですよ。

片渕 そうです。本当に普通の日常生活なんですよね。

細馬 軍歌の替え歌なんか歌っちゃって、のんきな兄と弟のいい話なんですよね。

片渕 その弟を目の前で死なせないといけないという。

細馬 あれ? それって「この世界の片隅に」と遠くつながってますよね。すずと晴美の関係でもあるんですけども、すみとすずの関係でもあるという。マンバ通信の連載にも書いたんですけど、すみとすずって、二人でガールズトークっていうのかな、姉妹ならではのトークをやってるところがグッときちゃうんですけど。

コミックスではなく掲載誌で読む

片渕 あと、こうのさんは「はだしのゲン」しか持ってないはずなのに、松本零士の「大純情くん」という、やっぱりマガジンで連載されていたマンガがあって、それが一番良かったって。

細馬 「銀河鉄道999」じゃないんだ。四畳半に夢じみた世界が割り込んでくるの、ちょっとこうのさんの世界のルーツっぽい感じもしますね。

片渕 「姉妹でそのマンガのファンでした」って、こうのさんがおっしゃってて。で、要するにやっぱりあの姉妹の中で、そうやってマンガを共有したりとかしてたんだなって。

細馬 マンガに表れる兄弟姉妹関係の反映っていうのも、こうのさんの経験からくるものかもしれないですね。監督は兄弟おられたんですか?

片渕 弟がいました。弟は3歳下なんですけど、僕が立ち読みしてきたマンガのストーリーをお風呂に一緒に入る時に、全部吹き込んでて。

細馬 それ、「この世界の片隅に」の冒頭ですね。妹に化け物の話をするという。

片渕 そうそう。だから、ひたすら「デビルマン」の話とか喋るわけです。

細馬「こんとな化け物がおりんさった」って(笑)。「翼のあるバケモンじゃった」。

片渕 まあ、そんな感じですよ(笑)。

細馬 でも絵を見てない弟に、「デビルマン」の話をずっとするってすごいですね。

片渕 向こうは苦痛以外の何物でもないですけど(笑)。

細馬 絵も怖いですけど、何が怖いって自分の生み出したイマジネーションほど怖いものはないですからね。弟さんは自分の想像しうる一番恐ろしいもの思い浮かべてるわけですから、それは怖い。少年マンガはずっと読んでたとして、少女マンガは?

片渕 高校の頃ですね。映画部じゃなくて、生徒会の一部で、生徒会の活動を8ミリ映画に記録するような部署があったんですね。その部室で萩尾望都さんの「11人いる!」とかを読んで、「こういうのがあるんだ」と思って。

細馬 あ、僕とほぼ同じタイミングだ。

片渕 その頃の高校生は割と、少女マンガといろいろクロスオーバーし始めてたんで。

細馬 そう。ちょうど僕が高校くらいの時に、萩尾望都さんの「百億の昼と千億の夜」がチャンピオンに連載中で。それで僕は「なんだこの人は!」って衝撃を受けて、そしたら小学館文庫に「11人いる!」が入ってた。

片渕 「11人いる!」は、その掲載誌(別冊少女コミック)を見てましたね。

細馬 うおーー! 掲載誌で見てたというのはすごいですね。

片渕 その部室がいろんなものの宝庫で、大友克洋さんもそこで知りましたからね。

細馬 それは単行本?

片渕 いや、単行本じゃなくて掲載誌でしたね。

細馬 じゃあその頃に漫画アクションがあった?

片渕 あ、違うね。大学に入ってからだね。「気分はもう戦争」とか。

細馬 「気分はもう戦争」はそうですね。アクションって本当になんでもありで、乱読するにはたまらん雑誌だったんですよ。「博多っ子純情」が載ってる一方で、大友さんの作品が載ってるとか。

片渕 「じゃりン子チエ」も載ってましたしね。

細馬 監督のマンガ歴で「掲載誌」ってキーワードですね。コミックスを狙って読むのじゃなくて、いろんなマンガ表現が目に入ってきて、そこでマンガを読む目を養っておられる。アクションなんかは乱読にはうってつけの雑誌で、「何のジャンルのマンガ雑誌?」と言われると、「よくわかんない」としか言いようがない。一応、青年雑誌と言われてますけど。それにしても、小さい頃から、かなり多ジャンルにわたってマンガは読んでおられたんですか?

片渕 一番最初はたぶん、「鉄人28号」「鉄腕アトム」をカッパヒットコミックスで。

細馬 うちもそうでした。僕らの世代って、子供の頃は「マンガをたくさん読ませて教育しよう」なんて人はいなかったんですね。マンガには「いいマンガ」と「悪いマンガ」があって、うちの母親の場合は「鉄腕アトム」はかろうじてOKでした。他のはダメでしたね。

片渕 あとは楳図かずおさんとか、ああいう怖いのは、小学校の同級生が持ってると借りちゃうわけですよ。で、寝られなくなるんですね(笑)。あれこそ家で買えないマンガでしたね。

細馬 「へび女」の口がわって笑うところとか本当に怖かった。同級生は重要で、ぼくも誰かの家にあそびに行くと座り込んでマンガ読んでました。あと、いとこの家、それこそ呉の親戚の家に遊びに行ったりすると、「りぼん」とか「なかよし」の付録についてる別冊が置いてあるんですよ。それ読んでると怒られました。もう、すごく怒られましたね。(呉弁のイントネーションで)「宏通がいなげなもん読みよるよ!」とか言われてね。

片渕 あ、呉弁だ。

細馬 僕自身は呉弁のリテラシーはあまりないんですけど、言われたことの記憶は鮮明に残ってて、映画を見るとそれが蘇りますね。

方言指導の栩野幸知とはどんな人物か

片渕 呉のご出身なんですか?

細馬 あ、言い忘れました。僕、父親が呉の吉浦、母親は呉の宮原だったので、家の中は……特に母親は呉弁がよく出ました。だから径子のセリフがすごく刺さるんですよね。ぼくが生まれた頃は関西住まいだったので、そんなにしょっちゅうは呉弁をしゃべらないんですけど、やっぱり方言が出る時は感情が高ぶった時なんですよ。母親が怒ってる時とかすごく喜んでる時以外、あまり呉弁の記憶がない。まあ8割がた怒ってる呉弁なんですけど(笑)。そうすると、あの映画の中で径子のセリフがもう突き刺さる突き刺さる。突き放したような嫌味のニュアンスとか、本当にシビれましたね。

片渕 こうのさんのご親戚に、ああいうしゃべり方をする方がいらっしゃって、(アニメーションでの径子は)「そのしゃべり方なんですよ」って言われたんですけど、僕は会ったことないわけですね。会ったことないんだけど、最大限想像するとああなるわけですよ。それを(径子役の)尾身美詞さんが「なんとなくわかりました」みたいことでやったんですけど、やっぱり同じになるんだなあと思って。尾身さんは本当に原作を読み込んできてましたから。

細馬 でも尾身さんは広島出身というわけではないですよね?

片渕 原爆乙女(原爆で顔や体にやけどを負った女性はこう呼ばれた)のお芝居をその前にやってたんですよ(2015年公演の「その頬、熱線に焼かれ」)。

細馬 ああ、そうか。それで広島弁をもう十分やってるわけだ。

片渕 バックボーンを知っているから、すみちゃんの病気の程度なんかは、実は尾身さんの方が詳しい。

細馬 監督はこの映画を扱うまでは、「マイマイ新子と千年の魔法」の舞台が山口だったから近いっちゃ近いですけども、広島弁にはそんなに接しておられなかった?

片渕 正直なことを言うと、広島弁の方が山口弁よりも楽でしたね。山口弁は母音の数が多いんですよ。「けーだん(階段)の上にけーぎしつ(会議室)があって」っていう。

細馬 ああー、それはわからないですね(笑)。それに比べると広島弁の方が楽だ。うちの母親は、まあちょっとひいき目だと思うんですけど、「広島弁は関西弁より標準語に近いからねえ」とか言ってて(笑)。

片渕 イントネーションもそうですよね。ただ字で書くと関西弁とあまり変わらなくなる。それでのんちゃんがすごい苦労してた。

細馬 ああ、 そうでしょうね。あれは楽譜か何か作らないと難しいんじゃないですか。

片渕 楽譜(笑)。

細馬 呉弁の指導は結局どうされたんですか? のんちゃんはいかにしてあそこまでになったのか。うちの母親はのんちゃんのことを「実にナチュラルな方言だ」と言ってました。

片渕 方言指導に、2人入ってもらったんですよ。最初は栩野幸知(とちの・ゆきとも)さん一人でやろうと思ってたんですけど。あ、ちょっと前の話に戻りますけど、「マンガをどれくらい読み込んだか」という。

細馬 はいはい。

片渕 昔、「ブラックラグーン」という作品をやる時に、原作者の広江礼威さんとお会いしたんですけど、広江さんは最初アニメ化を渋っていたらしくて。それでお会いした時に、原作を読み込んできた結果として「これ、1995年の話ですよね?」と言ったら、「え、なんでわかったんですか?』となって。あと、「前に『エースコンバット』というゲームを作っていました」と言ったら、「じゃあまかせて大丈夫か」ということになったんですけど。「ブラックラグーン」の原作を読んで、あれが1995年だとわかるポイントは一回しかないんです。

細馬 どこなんですか?

片渕 「Uボートが50年間沈んでいた」みたいな話が出て来る箇所があるんですよ。ということは、第二次世界大戦の終結から50年後、つまり1995年だろうと。

細馬 あー、そうか! 2巻だ。2巻大事だなあ。

片渕 その「ブラックラグーン」に、「発破屋トーチー」という人が出てくるんです。発破屋だから爆薬扱うのが得意な人なんですけど、そのモデルが(「この世界の片隅に」方言指導の)栩野幸知さんなんですね。

細馬 なんでその栩野さんがモデルになったんですか?

片渕 彼は俳優さんなんですけど、鉄砲のプロップ(小道具)を全部自分で作っちゃう人なんですよ。例えば「銃口から火が出るやつですか? 薬莢が飛ぶやつですか? マガジンが落ちるやつですか?」って聞いてきて、それを作り分けられるわけです。「黒澤明の『影武者』の時に、火薬が使えるからということで鉄砲足軽の、武田信玄を狙撃する役を回されかけたけど、ちょっと惜しくて逃しちゃった」とか言ってましたけど。

細馬 そんなドマニアな人だったんですね。

片渕 その人のお父さんが、海軍の機関兵曹長をやっていて、呉に呼ばれたんですよ。で、お母さんも呉の共済病院の看護婦さんで。だから栩野さんは広島で育って、呉弁も広島弁もわかるということで、今回の方言指導になったわけです。

細馬 うわー、巡り巡ってそんなご縁が。

片渕 栩野さんは「仁義なき戦い・頂上作戦」でデビューされているんですけど、この作品に関しては、もっとやわらかい女言葉の呉弁・広島弁でやりたいというポリシーを持ってらっしゃって。で、それと北條サン役の新谷真弓さんが広島市内の出身だったので、二人を方言指導にお呼びして、録音のときにブースに入ってもらって。さらに調整室の側にも、役者さんじゃないんだけど、広島弁と呉弁をしゃべれる人がいて、「今しゃべったやつ、どうだった?」って聞いて「うん、今のは合格!」みたいなことをやってました。

細馬 そんなに一個一個やってたんですね。

片渕 でも、やってるうちにこっちもわかってきて、「今のはイントネーション乱れてたよね?」って聞いたら、「乱れてました」って。そういうことを繰り返して。

配役が決まる前から、のんの声で脳内再生されていた

細馬 でもイントネーションだけじゃなくて、タイミングみたいなのもあるわけじゃないですか。例えば「火なしこんろに任せてー」と言うときに、「任せてー」はどこまで伸ばすとか。

片渕 それは映像を作る時に、あらかじめ僕が自分の中で全部タイミングを作っちゃうんですよ。(役者に)「この通りしゃべってください」と言わないといけないわけですから。

細馬 じゃあのんちゃんが言う前に、まず片渕監督が……。

片渕 もっと言うと、のんちゃんがキャスティングされる前から、すずさんが頭の中でしゃべっていて。

細馬 うおーーーー! その役をやるのが、のんちゃんか誰かわからないけど。

片渕 だからその頃、仮でのんちゃんをイメージしてた。のんちゃんをイメージしながら、「すずさんって、こういうしゃべり方するんだなー」って思って。

細馬 「仮に」でのんちゃんをイメージしてるところが、すでにすごいですね。それは「あまちゃん」の頃?

片渕 「あまちゃん」より後、2015~2016年くらい。

細馬 じゃあ仮音がのんちゃんの声で入っていた?

片渕 頭の中でだけど、妄想のように。それで録音してみたら、頭の中の空想の音がリアルになって聞こえてきたから、「これはオッケーだな」って。

細馬 実際のアフレコでのやり取りの時は片渕監督が、タイミングも含めて「火なしコンロに任せてー」って言うと、向こうで復唱してくれる?

片渕 そうそう。だから口があるところは口でやっておいて、後は(録音用に仮で作ったラフ映像に)吹き出しを出しておいて、「ここからここまでしゃべってください」という指示をする。「火なしコンロに任せてー」だったら、「てー」を伸ばした吹き出しを出す。もちろんそれで全部が全部合うわけじゃなくて、例えば掛け合いになると(セリフと映像に)誤差も出てくるんですよ。ワンカットが長いから、編集で調整がきかない。だから録音した後で、絵の方の口パクの付け方を変えたりしてました。

細馬 僕は逆だと思ってました。絵が先にあって、のんちゃんがそれに合わせてしゃべって、もしちゃんと合わなかったら、のんちゃんのサウンドを横にずらしたりするのかと。

片渕 それもやるんですけど、それをやると今度間が乱れてくるんですよ。だから間が最適なところで録っておいて、それに合わせて口パクの方を調整する。というか、絵で口が動き始めた瞬間からしゃべれる役者さんは、若山弦蔵さんだけだと言われていました。

細馬 そうなんですか?

片渕 普通は最低でも2コマか3コマ遅れますね。

細馬 やっぱりそうなんだ。僕、よく授業で「サザエさん」の映像をちょっとだけ見せるというのやるんですよ。「見てごらん、フネと波平は必ず口が先にしゃべってるね。口がパクパク動いて、2パクくらいしてからフネはしゃべるよね」って。

片渕 「サザエさん」って、リハーサルやらないで録ってるんですよ。

細馬 えっ、本当ですか?

片渕 恐ろしい(笑)。本番一発で。

細馬 たぶん声優さんは、おそらくキューとか動きを見て「あっ!」みたいな感じでしゃべってるんですね。すると一瞬、アニメの口の動きよりも後になる。

片渕 若山弦蔵さんは、映像で一回見ておいて、「ここから動くんだな」というのを生理的なタイミングで覚えちゃうみたいですね。そういうことが大事なんですね。「乗り移る」というかね。

細馬 ここから始まるって予測ができないと、しゃべり始める瞬間のタイミングが合わないですよね。

片渕 「未知との遭遇」や「ジョーズ」で、長年リチャード・ドレイファスの声をあててる樋浦勉さんは、「画面を見たら、次にリチャード・ドレイファスがどう動くか予測がつく」って言うんですよ。「このしゃべり方をしたら次はこう動くな」って。で、僕はのんちゃんの動きをちょっと覚えようと思った(笑)。「PLANETS」でコメントをしゃべってるところをビデオで撮影してもらったことがあるんですけど、二人のタイミングが合って動いてるんですよ。彼女のタイミングをある程度覚えてるから、一緒のタイミングで動ける。アニメーションの演出って、そういうタイミングを司る人なんですね。音もそうだし、動きもそうですし。

すみはいつ長く持ち直すのか問題

細馬 タイミングというと、アニメーション見てて「これはどうかしてるな」という箇所がたくさんあったんですけど、監督はマンガで一つの吹き出しになっているところで、動作を割られますよね?

片渕 はい。

細馬 例えば、一番記憶に残ってるものだと箸の持ち方談義。「おばあちゃんはどっから来んさったん?」と聞かれて、「わしゃ古江よね」と言って箸を遠く持っている。そしたらすみが「古江から草津でそんとなじゃ 満州やなんかへ嫁(い)っての人は火箸でも足らんね」と言いますよね。ここ、マンガだと本当にコマ一つで吹きだしも一つなんですよ。で、絵を見ると、もうこのコマですみは箸を長く持っている。それにすずがツッコむという話なんですけど。アニメーションを作る人はみんな考える事ではあるんでしょうけど、こういう一つのコマをアニメーションで動かそうと思った時に、「すみはいつ長く持ち直すのか問題」というのが持ち上がると思うんですよね。

(『この世界の片隅に』上巻p.57より)

片渕 あー、はい。

細馬 マンガに忠実にやろうとしたら、「古江から」の時にはもう長く持っている……ということになるんだと思うんですけど、監督は「古江から草津でそんとなじゃ」と言ってる時にまだおばあちゃんを映していて、「満州やなんかへ嫁っての人は」のところですみを映し始めるんですよね。で、吹き出しでいうと後半のしゃべりのところですみはさりげなく長く持ち直すんですよね。で、「このペース早っ!」と思って。「この映画油断ならないな」と思ったのは今みたいなところなんです。本当に吹き出し半分くらいのタイムで大事なことが起こってて。しかも、すみが吹き出し半分でやったことをすずは横で見ていて、すかさず「と言いながらも箸を持ち直す浦野すみであった」と言ってバシッとツッコむ。マンガでも姉妹はツッコんでますけど、アニメーションだと吹きだし半分の量で起こってることに対してすごい早さでツッコんでますよね。監督はマンガのコマをアニメーションにする時のペースに、何か方針みたいなものはあるんですか?

片渕 こういう風に原作を、それこそ原作のマンガを一言一句アニメーションにするというのは、「じゃりン子チエ」がそうだったんですね(*)。「じゃりン子チエ」は、やってみるとわかるんですけど、吹き出し1個が3秒なんですよ。

(*アニメの第2期シリーズ「チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ」で絵コンテ・演出を担当)

細馬 それくらいで読めるようにしてある?

片渕 そう。原作がものすごく厳密に作られているんですよ。だから、吹き出しの中にそんな文字の行数が重ならない。文字をたくさん入れたいんだったら、吹き出しをたくさん出すという。つまり、「吹き出しと吹き出しの間に一瞬の間があるんだな」とか、「3秒くらいが言いやすいんだろうな」ということなんでしょうけど。それと、アニメーションでよくありがちなのが、しゃべってる人の顔をそのまま画面に映しちゃうこと。そうすると、表現が1個しかないことになるんですよ。でも、音声はしゃべってる人の声で、画面は別の人の顔が映っていたら、表現が2つ重なって複雑化するんですよ。そういうところもできるだけ増やそうと思っていて。

細馬 監督のアニメーションを見ていると、聞いている人が聞きながらどんな表情をしているかを割と映していますよね。そこは僕もすごくいいなーって。「じゃりン子チエ」の話が出たので、もうちょっと違う話もすると、監督は「ちびまる子ちゃん」でずいぶん絵コンテを描かれてますよね(絵コンテ・演出担当)。で、「ちびまる子ちゃん」と今回の「この世界の片隅に」では、ずいぶんギャグのタイミングが違うような気がするんですけど、そのへんはどうですか?

片渕 「ちびまる子ちゃん」はあれですよね、10分やると「後半へ続くー」っていう。そこからちょっとずつオチがついていって、最後にドーンと大きなオチがつく。「ゴーーン」とか「チーーン」とか鳴って終わりですよね。でもひょっとしたら「この世界の片隅に」もテレビシリーズにするならそういうことになったんじゃないかなって思うんですよ。

細馬 そうか、だってたった8ページですもんね(「この世界の片隅に」は連載では8ページずつの掲載だった)。

片渕 そう、8ページだから。でも今回はそうではなく、映画にして1本につないでるから、やってることは同じでも、間を取って「これがオチですよ」と言えないわけですよ。

細馬 そうですよね。そこでキートン山田さんの声が聞こえちゃうと、映画がいったん終わっちゃうから(笑)。

 

続きはこちらからどうぞ

片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(中編)

 


こちらの記事もあわせてご覧ください。

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アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(1)「姉妹は物語る」

2016年11月、ついにアニメーション版『この世界の片隅に』が公開された。アニメーション好きばかりでなく、原作であるマンガのファンからも高い評価を受けている。2回あるいは3回観たという知人もいる。わたしは4回観た。名作であることは間違いない。しかし、名作名作と言っているだけでは飽き足らない。そろそろこの物語について、ネタバレも含めて自由に語りたくなってきた。 …

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漫画も映画もすごい この記事も良かった http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12250426/

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影絵が趣味
2018/12/01
透明な作家さくらももこ
『ちびまる子ちゃん』で世に知られるさくらももこには隠れた名作がある。それは読み切り作品として『ちびまる子ちゃん』の各巻末に収録された『ほのぼの劇場』である(現在は文庫版にして上下巻にほのぼの劇場のみを抜粋したものがある)。 ほのぼの劇場は、いわば"永遠の小学3年生"まる子の前後譚であり、幼稚園生の頃からデビュー前後ぐらいまでの出来事がまちまちに描かれている。はじめて鼻血を出した日、マンガ家デビューが決まった日、小学6年生の運動会、盲腸になった日、高校3年生の失恋、はじめての雪遊び、はじめてディスコに行った夜、大好きな担任先生の転任、はじめての一人暮らし、ある友人の転校、受験生の夏、等々、能天気に小学3年生をくりかえす『ちびまる子ちゃん』本編とはうって変わり、そのどれもが人生においてたったの一度切りしか起こりえない"あの頃"として描かれている。『ちびまる子ちゃん』にしても作品背景こそノスタルジックなあの頃にはちがいないが、ちびまる子ちゃんはあくまでも過去を振り返らない現在進行形であり、つまり現在から果てのない未来に向かって描かれ、それゆえに"永遠の小学3年生"でありつづける。いっぽうで『ほのぼの劇場』は、起こってしまった一度切りのかけがえのない体験を、つまりもはや取り返しのつかない不変の過去を現在から観照して描いている。 『ほのぼの劇場』を読んでまず読者は、小学3年生時点からみて過去のまる子/未来のまる子が「まる子」と呼ばれていないことに驚きを隠せない。ここではあの馴染みのまるちゃんが「ももこ」や「ももこちゃん」や「ももこさん」と呼ばれているのである。"ももこ"とはもちろん作者さくらももこの"ももこ"にほかならない。ところが驚くもなにも、まる子にしても単にあだ名として呼ばれているだけで、それは確かにさくらももこであり、つまり少なからず作者自身の投影として描かれている。あえて作品世界の繋がりを尊重するならば、まる子=さくらももこは小学3年生のときだけあだ名"まる子"で通っていたことになるが、しかしそれにしても『ちびまる子ちゃん』に登場するさくらももこ、『ほのぼの劇場』に登場するさくらももこ、このふたつのさくらももこは単に時間軸の隔たり以上に異質さをもっているように思われる。そもそも『ちびまる子ちゃん』の劇中のまる子=さくらももこというものに対して、作者さくらももこという存在は、作品の内外のそこかしかこに介在していながらあまりに希薄すぎはしないか。平仮名で書かれた"さくらももこ"というベタすぎるペンネームからして他の文字群に混ざって雲散霧消してしまいそうである。つまり『ちびまる子ちゃん』にとって主人公まる子は作者の投影でありながら、そこに作者は不在というより透明になり姿をくらましているのである。いっぽうで『ほのぼの劇場』の主人公には、単に名前の呼ばれ方がちがうという以上に、作者さくらももこの存在がそこここに見え隠れしているようには思われないか。『ほのぼの劇場』は透明な作家さくらももこが姿を現した唯一の作品ではありはしないのか。 ところで『ほのぼの劇場』から作者の人間くささがしてくるのは、それが現在から過去を描いていることに関係してはいまいか。過去というものは今ここには存在しない代わりに決定事項であり不変である。いっぽうで未来とは可変である、可変であれば先行きはわからない。先行きがわからないという意味での不透明という言葉があるが、透明すぎても何もみえない。さくらももこの透明性とは実はこのどこまでも続く現在進行にあるのではないか。
影絵が趣味
2019/01/19
ほんとうの優しさとは何か。
壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。 森敦『意味の変容』より ショージ秋山の『アシュラ』が人肉食などの過激な描写により世間からの非難が殺到して有害図書指定を受けてから、もうずいぶんとながい月日が経った。有害図書とはじつにセンセーショナルな言葉である。事実、ジョージ秋山は有害図書指定を受けて一躍時の人となったようである。けっして『アシュラ』という作品そのものが話題にされたのではなく、導入の人肉食の挿話と有害図書ということばかりが人目に浮上して晒されてざわついたようである。まさにセンセーショナルな言葉が問題を生じさせ、そうして生じさせられた問題がまたセンセーショナルを呼ぶ、むなしい言葉の空転である。そもそも問題など初めからどこにもなかったのである、誰も『アシュラ』など読んではいなかったのだから。読んだという人が仮にいれば、その人は、そおっと、その本を慈しむように閉じるだけである。 ほんとうの優しさとは、いったい何であろうか。たとえば、困っている人がいたら助けてあげることだろうか。それとも、子供の心の成長に害を与えそうな本を予め取り除くことだろうか。私はそのどちらともをひとしくほんとうの優しさだとは思わない、それらがまったくもって善行のひとつに数え挙げられ得ないとは言わないが、私はそれらをひとしく一時的な対処であると思う。あるいは、困っている人が目の前にいて、助けてあげたい気持ちはあるのだが、自分にはそんな余裕のない場合はどうなるのか、それはけっして優しさではないと言うのか。もしくは、けっきょくは共倒れになるのを承知で人助けにでる場合はどうなるのか、それはほんとうに優しさであると言えるのか。そもそも、私たちにとって困っている人とはいったい何なのか、子供にとって害になるものとはいったい何なのか、なにか仮にも定められた平均値のようなものがあり、そこから陥没しているものを平均値にならしてあげることはほんとうの優しさなのだろうか。 こうまでして、まわりくどく優しさというものについて言及してみるのは、私は他でもない、この有害図書に指定された『アシュラ』からたいへんな優しさを感じたからです。この有害と言われた『アシュラ』から滲みでる優しさとはいったい何なのだろうと思うのです。もしかすると私の頭が狂っているのかもしれません。 アシュラはまさに世上の謂うところの崇高なもの美麗なものからはかけはなれた怪異なもの頽廃したものとしてまず私たちの前に姿を現します。それは仮に平均値というものを設定すれば陥没した存在としてあることになるでしょう。それからアシュラは人をも殺める壮絶な人生を経て、さいごには法師に導かれて仏門に入り、「命」という名前をはじめて授かることになる予定だったのですが、その結末は連載の中止により叶わないものとなりました。しかし、アシュラが導かれることになる仏門とは、宗教とは、私たち人間にとってひとつ崇高なものであるでしょう。つまり、アシュラは怪異なもの頽廃したものを経て、奇遇ながら、その反対概念であるところの崇高なものに辿り着く。しかし、それでは、壮麗なものとはいったい何なのか。怪異なものも、頽廃したものも、崇高なものも、美麗なものも、どれもひとしく壮麗なものとは似ても似つかないのです。私には壮麗とは「命」そのものであると思います。あるいは怪異であったり、あるいは頽廃していたり、あるいは崇高であったり、あるいは美麗であったり、あるいは怪異から崇高に転じたりする人生の奇遇さそのもの、もっといえば、地球の奇遇さそのもの、この宇宙の奇遇さそのものであると思うのです。怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉は壮麗な「命」そのものを測るために仮に定められた単位でしかないと思うのです。そして、アシュラは「命」と名付けれらたとき、怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉から解き放たれて自由になり、言葉や概念や単位のベールを介してではない壮麗な「命」そのものとしてはじめて見られるようになったのではないかと思うのです。 『アシュラ』から滲みでる優しさとは、この壮麗な「命」そのものを言葉や概念や単位のベールを介してではなく、じかに直接直視しようとする試みにあるのではないかというような気がしています。それは平均値も陥没点もありえない、底の最底から、すべて有象無象の「命」そのものがいっせいに自然に盛り上がり膨張して炸裂していくかのような凄まじいまでの肯定の姿勢であると思います。そこにはあるいは自然があらゆる「命」に強いる死すらも含まれる凄まじいまでの肯定の姿勢。私はこの肯定の姿勢をほんとうの優しさと言いたい。あるいはその肯定の姿勢とは、ありとあらゆるものは、何かの枠組み(言葉や概念や単位といったもの)に括られることなどあり得ず、すべてがそれぞれにちがっているということだけにおいてはひとしく肯定されうるということでもあるかもしれません。 ところで、とうとうアシュラには与えられなかった「命」という名前をジョージ秋山は自身の息子に与えることになります。そのことについては、『アシュラ』とは違った観点でまた素晴らしいマンガといいたい漫画家二世をインタビューする田中圭一の『ペンと箸』 http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1742 によく描かれています。寡黙で厳しい印象であった父親ジョージ秋山に、大人になった息子さんはある日いうのです。 「オレの名前の由来、命を大切に、じゃないよね」 「じゃないよ」 「命がけで生きろ、だよね」 「ああ、そうだ」 私はここを読んだとき、もう、涙が止まらなくなって大変なことになりました。その後、息子の命さんは『アシュラ』をアニメ映画化することになります。そのキャッチコピーが「眼を、そむけるな」であったことにも涙したことを付け添えておきます。ほんとうの優しさとは、まさに、何事からも眼をそむけないよう試みることであると思うのです。
かしこ
2020/04/18
初めて読んだ感想
ジョーってこんなに不良だったんだ…って思いました。有名作品なのでキャラクターの名前と名セリフくらいは知ってましたが、実際に読むまでジョーってもっといい子だと思ってました。力石徹との出会いも少年院なんですね。自分みたいに勘違いしてる人は世の中にたくさんいそうです。恥ずかしながら力石の死がクライマックスだと思ってたので、終生のライバルがこんなに早く死んでしまうのかと驚きました。でもそこから力石に致命傷を与えて殺してしまったトラウマをジョーが乗り越えていくという、さらに踏み込んだ物語になっていくのがすごく面白かったです。トラウマがフラッシュバックしてリングでジョーが吐いてしまうシーンが印象的でした。ジョー以外は黒塗りのシンプルな見開きなんですけど、ジョーのショックの大きさが見えて辛い、けどそれを乗り越えていかなきゃいけないんだって思いました。もう一つ好きなのはやっぱり紀ちゃんとデートするシーンです。あれも存分にページを取って一日デートした最後に「わたしついていけそうにない…」と紀ちゃんが言うなんてガーンときますね。これもちばてつや先生がよくおっしゃってる漫画の「間」の効果なのでしょうか。前半は自分が感情移入しやすかったのでチビ連のサチが好きでしたが、脇役って言っちゃうのが失礼なくらい全員が登場人物として必要なキャラになっているので、読み終わると全員好きになりますね。こんなにどのキャラも人生を持ってる漫画は初めて読みました。