1967年、昭和42年1月号が創刊号となる雑誌『COM』(以下『コム』と表記します)。
1971年の12月号で休刊するまで5年間発行されました(1973年に一度だけ復刊されてます)。
1964年に創刊された『ガロ』に対抗心を燃やした手塚治虫さんが発刊したというのが定説です。
発端の理由が何であれ、『火の鳥』の本格的な連載が『コム』創刊号から始まったのは戦後漫画史にとってとても重要ではないでしょうか。
『コム』という手塚さんが御自身で作った雑誌だからこそ、手塚さんが好きなように『火の鳥』という壮大な物語に全力で取り組むことができたのではと推察します。
他の商業誌で連載するにはあまりにも壮大過ぎですし、また各編の時系列もおそらく意図しての過去と未来の配列でしょう。
読者の反応や雑誌の売り上げが第一の出版社や編集部の意向が、大きく手塚さんの持つ構想に介入した可能性は高いと思います。
でもそれはそれで他誌で始まっていた場合の『火の鳥』も読んでは見たいですね。
『コム』創刊の頃は月刊誌が衰退して行く一方の時代ですから、手塚さんが『コム』を創刊したのは必然だったと言えましょう。
これでやっと『火の鳥』が描けると拳を握り締める手塚さんが目に浮かびます(私の妄想ですけどね)。
『コム』での5年間の『火の鳥』があったからこそ休刊と共に終わらせる訳にはいかない、と朝日ソノラマの『マンガ少年』での連載に繋がったと確信します。
その後『マンガ少年』も休刊しますが、角川書店の『野生時代』という小説誌で『火の鳥 太陽編』が始まります。
当時「新しい『火の鳥』が始まったんだ」と知ってはいましたが、読むのは単行本になってからです。
この時太陽編の始まりに合わせて黎明編から順に、角川書店からハードカバーで『火の鳥』が刊行され始めます。
勿論全て発刊される度に買いましたよ。
初めてリアルタイムで発行される『火の鳥』を買う喜びは太陽編で頂点に達します。
待ちに待った上巻の発売日、やっと読めると少し高ぶって家に帰ったのを憶えてるくらいには嬉しかったですね。
『火の鳥』が今も新刊書店で当たり前の様に置かれ、世代に関係なく読まれ続ける名作として存在する理由として「最初は『コム』だったから」は重要な要因だと確信します。
『ガロ』は貸本漫画を主に活躍の場としていた劇画家が中心です。
一方『コム』は手塚治虫さんや石森章太郎さんが中心ではありますが、児童漫画家や劇画、女性漫画家など多彩な顔触れです。
『ガロ』も『コム』も実験的な作品を多く掲載しているのが共通点ですが、大きな違いが一つ。
『コム』は新人漫画家の発掘と育成に大きく力を入れてます。
巻末の「ぐら・こん」は漫画予備校と称して毎号多くの投稿作品を掲載してます。
特徴的なのが高評価の作品だけでなく、評価が低い投稿作もなにかしらの作品ページが掲載されている事です。
勿論そこへもたどり着けてない方は応募者一覧というくくりで名前のみの掲載ですが、少しでも多くの作品を見せて育てていきたいという編集部の意向でしょうか。
これはかなり投稿者にすれば励みになったと言えるでしょう。
今回調べて知りましたが、「ぐら・こん」は後のコミケへの足がかりにもなっている様です。
また別冊の付録としても数冊あり、通常古書店ではこの付録だけで販売されてます。
『ガロ』も『コム』も昭和40年代に漫画が大きく成長していく時代に果たした役割は、とても大きかったのではないでしょうか。
『コム』が休刊した1971年、私は小学四年生です。
リアルタイムで『コム』を読む年齢ではありませんでした。
それでもいつもの貸本屋さんにあれば借りて読んでいたと思うのですが、残念ながらそこには『ガロ』も『コム』もありませんでした。
大人になって古い漫画を集めるようになっても蒐集対象ではなく、古書店の棚にあるのを眺める程度でした。
『コム』の内容にしっかり触れるのは2000年頃、40代になって街の古書店で働くようになってからです。
このお店は街の古書店としてコミックや文庫本、アダルト本などを主力商品としてましたが、社長が仕入れてくる古い漫画もしっかりプレミアをつけて販売してました。
この当時『コム』は店頭で売れるほどの人気は無く、売れた時代の残骸が『ガロ』と共に倉庫に積んでありました。
倉庫の在庫整理の傍らようやく中身に触れた次第ですが、新人漫画家発掘の為の「ぐら・こん」というページに大御所と言っていい方々が投稿されているのを知ります。
在庫整理はどっかへ行ってしまい、「ぐら・こん」のページを延々めくっては知っている名前を見つけて「へぇ~」と感心して時間が過ぎていったのは割と楽しかった思い出です。
今回の記事では、現在手元にある『コム』からその大御所の投稿作品をいくつかご紹介したいと思います。
■『COM』1968年2月号より
月例新人賞入選作として「はせがわほうせい」さんの作品が掲載です。
まんが予備校にはなんと山岸凉子さんの投稿が。
しかし写植はさんずいの「涼子」になっており年齢も検索して出てくる歳とは、ずれがあります。
掲載された扉ページを拡大すると、にすいの「凉子」が確認できる為あの山岸凉子さんで間違いないのではと推察します。
青春実験まんがコースには福島正美さんの名前が。
後の「ふくしま政美」さんですね。
まだあの異様なまでの肉体描写は描かれてません。
■『COM』1968年6月号より
安達充さん。漢字です。
投稿作の扉ページが掲載されてますがそちらは「安達みつる」です。
■『COM』1968年7月号より
月例新人賞入選作は竹宮恵子さん!
この号はなかなか貴重ではないでしょうか。
この「かぎっ子集団」は後に初期作品集に収録されており、電子でも『竹宮惠子作品集 リンゴの罪』というタイトルの物で読めるようです。
まんが予備校には「あだち充」さん。現在と同じ表記です。
青春実験まんがコースには福島正美さんが再び。しかし前作からわずか5ヶ月で後の絵柄に大きく近づいてます。
■『COM』1968年8月号より
今回の表記は「安達みつる」さん。3ヶ月連続での掲載は凄い事ですが、写植の表記が全て違うのが謎です。
■『COM』1970年5,6月合併号より
諸星大二郎さんの投稿作が!
これは恥ずかしながら知りませんでした。
ここでは2ページのみの掲載ですが、2010年に『諸星大二郎 ナンセンスギャグ漫画集・珍の巻』という書籍に収録されてます。
貴重なデビュー前の作品です。きっと読みたいという要望が多かったのでしょうね。
今回は所有する1968年の号を中心に紹介しました。
この顔ぶれを見ても『コム』が果たした役割の大きさがわかって頂けると思います。
現在『コム』は創刊から1年くらいの号は品薄でそれなりのプレミア価格ですが、1968年以降はそこそこの量が流通してると言えます。
ネット上でも多くのバックナンバーが売られておりますので、興味を持って頂けましたら検索してみてください。