マンガの紹介というよりは、ほぼ「知ってる前提」みたいな話になると思いますが。
「柔道部物語」が今もどれだけ読み継がれているのかは分からないけれど、少なくともある世代の男子にとっては、ほとんど共通言語のようなマンガだったんですよ。だから以前、「アメトーーク!」のマンガ大好き芸人の回で、有吉弘行がこの作品を挙げて「小林まことに絶大な信頼を置いている」と語っていたのは、まったく特別なことではなく、あの世代の男子の典型だと言ってもいいくらいで。
で、今でもときどき「柔道部物語」のことを思い出すのですが、その思い出す対象って、主役の三五十五ではないのです。思い出すのはなぜか決まって先輩・鷲尾のこと。もっと具体的に言うと、7巻のある場面なんですけど。
時間というフィルターを経て、三五よりも鷲尾のほうが強く印象に残っているということは、たぶん自分にとって「柔道部物語」は鷲尾の物語なんだろうなと思うわけです。
さっき「知ってる前提」と書きましたけど、いちおう「柔道部物語」のストーリーをざっくり説明すると、
「岬商業に入学して、未経験で柔道部に入ってしまった三五十五が、やがてその才能を開花させ、強豪たち・強豪校を倒していく物語」
という感じになるでしょうか。岬商業は県内の強豪校ではあるのですが、県大会の優勝校とは明らかな実力の差がある。三五の成長が起爆剤となり、その「超えられない壁」を超えていく…その過程にとても惹きつけられるマンガです。笑いとシリアスの緩急の付け方はいま読んでも一級品だと思うし、何より試合の描写がうまい。技の掛け合いもそうだし、接戦になって会場がだんだんヒートアップしていく様子がコマの行間から伝わってくる。
最終巻の11巻までずっと面白いマンガなんですけど、それでも終盤は3年生になった三五が見るからに強くなっていて、流れ的に「あ、このまま勝ってしてしまうんだな」という雰囲気を感じてしまうところはあるんですよ。
だから僕はやはり中盤の、三五が2年生、鷲尾が3年生の時代……「岬商業は全国大会に行けるのか?」「行ったとしてその実力は通用するのか?」とハラハラさせる展開がとりわけ好きなのです。このあたり、物語のグルーヴがめちゃくちゃある(マドンナ号のエピソードも含めて)。何度も読んで試合結果は分かっているのに、読むたびに興奮します。
その中盤でカギを握るのが、鷲尾なのです。
鷲尾の初登場は1巻の中盤、三五が入学した年の地区大会が終わったあとです。なぜ登場が遅いのか、なぜ地区大会に出られなかったのかというと、停学中だったから。理由は以下。
この停学の理由に、鷲尾の特徴が凝縮されていますよね。
「めちゃくちゃ強いんだけど、しかし何かが抜けている」という。
ぶっちゃけ、前半の試合では鷲尾の見せ場はほとんどありません。弱い相手だと圧倒的な力量差で勝つのに、
強い相手だと集中力を欠いた試合をして負けてしまう、というパターンが目立つ。
ちなみに柔道雑誌の記者による鷲尾評はこんな感じ。的確な評だと思います。
高いポテンシャルは秘めているはずなのに、頼れるんだか、頼れないんだかいまいちわからない。そんな鷲尾に最大の試練が訪れます。
舞台は春の県大会。岬商業は団体戦で、前年度優勝校の江南と決勝でぶつかります。ポイントゲッターの三五が敗れるという波乱に見舞われながらも、試合は大将同士の決戦にもつれこむ展開に。岬商業の大将・鷲尾に対する江南の大将は、主将・石川。岬商業にとって春の大会、初の全国大会出場がかかった大事な一戦。
その大事な試合にのぞむ鷲尾のセリフが、実にいい
しかし、やはりどこか集中力に欠けている鷲尾。ついさっき副将の平尾が内股をすかされてからのすくい投げで負けていたのに、安易に内股を仕掛けた結果、やっぱりすかされてすくい投げで技有りを取られてしまいます。
追い込まれた鷲尾。残り時間1分を切り、このまま相手の優勢勝ちかと思われた時、鷲尾にある考えが浮かびます。
石川が三五に投げられたのは、三五の背負いの威力がすごいからであって、別に弱点というわけではないと思うのですが、しかしこの「めちゃくちゃな論理」に、「三五の真似はしたくない」という「いらんプライド」が加わった結果、鷲尾が繰り出したのは一本背負い!
こらえる石川を執念で投げ、一本勝ち。岬商業は全国大会出場を決めます。
全国大会のかかった大事な試合で勝つ。しかも集中力を欠いていたにもかかわらず、めちゃくちゃな作戦を実行して勝つ。岬商業の部員にとっても、読者にとっても、鷲尾への信頼が一気に高まった名場面です。なんだかんだいって、決めるところで決めてくる男なんだなと。「男が憧れる男」みたいなところも感じたりして。
その後も鷲尾の見せ場は続きます。
やはり県大会を勝ち抜き出場したインターハイ。岬商業は2試合続けて勝利を収め、鷲尾もおなじみのめちゃくちゃな戦い方で一本勝ちします。
そして3試合目にぶつかったのが、千葉の代表校・講談館浦安。高校柔道最強の男・西野のいるチームです。
先鋒・三五は順当に一本勝ち、次鋒・小柴はまったく体勢を崩されていないのに強引に投げられ一本負け。中堅・内田も投げと抑え込みで合わせて一本負け。副将・平尾は引き分け狙いの相手を崩せず、引き分け。岬商業は大将戦で、優勢勝ちではなく「一本勝ち」でしか試合に勝てない状況に追い込まれます。岬商業の大将はもちろん鷲尾。
鷲尾〜〜たのむぜ!!
相手にとっては、引き分けでもチームの勝利が決まるという状況。なかなか真っ向から組んではくれません。業を煮やした鷲尾は、さっき見たばかりの「相手の体勢を崩してないのに強引に投げを決めた西野」の真似をして、逆に相手に有効を取られます。
ところが、投げられた状態からそのまま締め技に持ち込み、一本勝ち。
鷲尾への信頼は、ここに来て最高潮に達したといっても過言ではない。
かくして試合は2ー2の同点となり、代表戦にもつれこみます。講談館浦安の代表は、もちろんポイントゲッターの西野。
岬商業は、西野の体重が軽中量級であることを考え、同じ軽中量級の三五ではなく、重量級の鷲尾を代表に選びます。
いつも通り、自信たっぷりに試合に望む鷲尾。ところが。
同じパワーファイター同士の戦いではあっても、西野のパワーは格が違っていました。
鷲尾の重心は「↘」になっているのに、めちゃくちゃ強引な大外刈りで「↙」の方向に投げつける。軽中量級で手足が短いゆえに、スピードも鷲尾を上回る。
そしてこの鷲尾の表情。あまりの力量差に、さっきまでの自信が崩れているのが顔に表れている。それまでの鷲尾は、負けるとしてもここまで完璧にやり込められたことはなかったと思うんですよ。油断せず集中して試合に臨んでいたら、今まで負けていた試合も、少なくとも善戦にはなっていたはずで。
ところが西野に対しては、自身の最大の武器である「パワー」で真っ向勝負しているのに、まったく通用しない。勝機のかけらすら見いだせない。こんな経験は彼の柔道人生の中で、おそらく初めてのはず。
西野の怪力でズボンを引き裂かれ、試合を一時中断して着替えていた鷲尾に、同じ3年の平尾と小柴は「逃げて少しでもチャンスを見出す」ことをすすめますが…。
そして鷲尾は敗れ去りました。
それまでの鷲尾は、自分を天才だと信じていて、勝とうが負けようがその自信は揺らぐことがなかった。長きにわたって自分を支えてきたその自信が、西野によってズタズタに引き裂かれてしまった時、最後に残ったのが「柔道家としての矜持」だったと思うのです。
別に真っ向勝負を挑むことが完全な正解だとも思わない。そこで逃げながらスキをうかがうこともまた作戦の一つではあるし、それを選んだとしてもカッコ悪いとは思わない。「ベストを尽くす」という点では変わりないわけだし。
でも、あそこで「逃げ」を選んでいたら、はたして鷲尾は鷲尾たりえただろうか、とも思うのです。と、ここまで書いて「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」という一節を思い出したのですが、鷲尾は鷲尾であるために逃げずに挑み続けることを選んだ。その選択は三五たち後輩にとっても、「偉大なる先輩・鷲尾」を決定づける強烈な場面になったのではないか、と思います。
というか、それ以降、あるいは他のマンガでの鷲尾の扱い方を見ると、もしかして作者の小林まこと自身も、鷲尾のほうに思い入れがあるのでは?と思ってしまうんですよね。
最終巻の11巻で、社会人になった鷲尾が登場します。
その表情が「いかにも鷲尾」って感じなのですが、ここで鷲尾がこの表情をできるのも「西野との試合で逃げなかったから」だと思うんですよ。マンガに「たられば」はないけれども、あの試合で逃げていたら鷲尾のその後の人生はずいぶん変わっていたような気がする。
冒頭、今でも鷲尾のことを思い出すと書いたのは、西野との試合の場面のことです。ゼロスタートでぐんぐん成長していく三五の姿は見ていて気持ちがいいけれど、すでに「持ってるもの」がある状態からそれを失った鷲尾のほうが、今の自分と重なり合う部分が大きいということなのでしょう。自分の中で迷いが生じそうな場面に遭遇した時、鷲尾のセリフをよく反芻しています。
まさか40代になってまで、鷲尾に勇気づけられるとは思ってもみなかったけれど。