マンガの中の定番キャラとして欠かせないのがメガネとデブ。昭和の昔から令和の今に至るまで、個性的な面々が物語を盛り上げてきた。どちらかというとイケてないキャラとして主人公の引き立て役になることが多いが、時には主役を張ることもある。
そんなメガネとデブたちの中でも特に印象に残るキャラをピックアップする連載。第7回は[メガネ編]、シュールなショートギャグ集『まかろにスイッチ』(川田大智/2014年~16年)の主要キャラの一人、メガ澤をご紹介しよう。
メガ澤というのはもちろんアダ名で、本名は平澤という(下の名前は不明)。高校2年生の女子で、アダ名のとおりメガネをかけている。初登場は第12話。ある朝、メガネからコンタクトに変えた女子がクラスメイトたちに囲まれ、「メガネないほうが全然いいじゃん!」「かわいい!」「好きな人できた!?」「つか彼氏!?」などと言われている。それを離れた席から見やりながら、「ふんっ/コンタクトにしてかわいくなった?/……違うわ/素顔(もと)がいいんだよ!!/メガネかけようがかけまいがね……美人は美人ブスはブスなのよ!!」と心の中で毒づくメガ澤は、髪の毛ボサボサで肌も汚く極太眉毛に骨格もゴツくて、どこのオッサンかというルックス。まさに絵に描いたようなブスである【図7-1】。
そのとき、教室で遊んでいる男子が投げたボールが彼女にぶつかり、メガネが落ちた。「ごめ……ってなんだよメガ澤かよ/てめーそんなとこ座ってんじゃねーよ/このブス!!」と、心ない言葉を浴びせるクラスで人気の男子・中西。ところが、そこで彼が見たものは、メガネをかけているときの姿からは想像できない美少女だった!【図7-2】
……いやもうコレ、完全に別人でしょう(笑)。目鼻立ちどころか骨格まで激変。ボサボサの髪の毛もツヤツヤになり、眉毛もきれいに整えられている。あまりの変貌ぶりに呆然とする中西。しかし、メガネをかけ直したメガ澤は元のメガ澤に戻ってしまう。ウルトラアイで変身するモロボシダン(ウルトラセブン)の逆パターンか。いや、メガネをかけたら強くなるという点では、同じパターンとも言える。
もちろん現実にこんなことは起こりえない。「メガネを外すと美人」という“あるあるネタ”を極端にデフォルメしたギャグであり、「メガネかけようがかけまいがね……美人は美人ブスはブスなのよ!!」というメガ澤自身の認識とのギャップも狙ったものだろう。出落ちの一発ギャグのようだが、それだけでは終わらないのが本作だ。
メガ澤の素顔(?)を知ってしまった中西は、彼女のことが気になって仕方ない。何しろメガネを外すと外見だけでなく仕草や性格まで可愛くなってしまうのだから、ある意味、究極のギャップ萌えだ。思い余って彼女のメガネを叩き壊し、「今までブスとかひどい事言って悪かった!!」と詫びてからの壁ドン、そして告白へとなだれ込もうとする中西。しかし、すかさずカバンから取り出したサングラスを装着したメガ澤は瞬時にオッサン化。屈強なラグビー選手のように「ぬん!!」と中西を突き飛ばし、「イケメン風情が……」と捨てゼリフを残して立ち去るのだった。
この強烈なメガ澤のキャラは人気を呼び、同作内でシリーズ化される。普通のメガネだけでなく、水泳用のゴーグルでも双眼鏡でも、メガネ的なものを装着するとオッサン化するメガ澤。一方の中西は、何とかしてメガ澤をメガネなしの姿でいさせようと策を弄するも、うまくいかない。そもそもメガネなしのメガ澤が可愛く見えるのは自分だけの妄想なのではないか……との疑念も浮かぶ。そうこうするうちに、だんだんどっちのメガ澤が好きなのかわからなくなってくる中西の困惑ぶりが、単なるギャグとは違う甘酸っぱさを漂わせる。
ちなみに、メガ澤には妹がいて、こちらもメガネをかけたブサイク女子だ。ただし、姉と違ってメガネを外しても美人に変身はしない。ガッカリする中西だったが、その代わりというか何というか、笑うと可愛くなるのだった【図7-3】。
一般的に考えても仏頂面より笑ったほうが可愛くなるのは当然とはいえ、この変化はすごすぎる。あの姉にしてこの妹ありという感じだが、ならば姉のほうが笑ったらどうなるのか。そういえば自分(中西)はメガ澤(姉)が笑ったところを見たことがない。そこで中西がメガ澤を笑わせようと奮闘するエピソードとその結末には胸が熱くなる。
シリーズ最終話では、メガ澤がそれまで拒否していたコンタクト使用に踏み切る(可愛くなりたいとかではなく、大好きなラーメンを食べるときに湯気でメガネが曇って見えなくなるのを避けるため)。メガネ的なものを装着するとオッサン化するメガ澤が、コンタクトを着けるとどうなるのか。その結果は各自ご確認いただきたいが、最後の最後まで続く中西の葛藤が尊い。作者にその意図があったかどうかは不明だが、メガ澤というキャラとそれに対する中西の反応は、「メガネを外すと美人」現象に象徴される安直なルッキズムに対するアンチテーゼのようにも見えてくるのであった。