『ブラック・ジャック』は人情医療マンガだ

 シリーズで「人情マンガ」について書くことになった。

 さて、第1回をどうするのか? で悩んだ。「はじめよければおわりよし」である。はじめがコケると、あとがしんどい。

 夜も寝ないで昼寝して考えたが、やはり、戦後日本マンガのパイオニアである手塚治虫の作品から選びたい。

 そんなこんなで、栄えある第1回として選んだのが、『ブラック・ジャック』である。

 シリアスな医療マンガのどこに人情があるのか、という疑問の声があるかもしれない。だが、謎めいたクールな天才外科医と紹介される主人公のブラック・ジャックは人情に篤く涙もろいキャラクターなのだ。

 第1話「医者はどこだ!」では、実業家が仕掛けた罠で無実の罪を着せられ、自動車事故で瀕死の重傷を負った彼の息子に全ての臓器を提供することになった青年を救うために、臓器移植手術と見せかけて整形手術を行う。また、第3話「ミユキとベン」では、末期ガンに冒された愛するミユキの手術代として500万円を強奪しようとして警察に撃たれ命を落した不良少年・ベンの臓器をミユキに移植して、ベンが愛するミユキの一部として生き続けられるようにする。

 法外な治療費を要求する、とか医師免許を持っていないといったダークな部分が強調されがちな『ブラック・ジャック』という作品の本質は「愛」であり「人間の情」なのだ。

 このあとも、足の不自由な女性の夢を叶えるため彼女を鳥に変えたり(第5話「人間鳥」)、ガス壊疽のために左手を失った少年を孤独から救ったり(第7話「海賊の腕」)と人情味あるドラマが続く。

 思えば、『ブラック・ジャック』の連載が始まる直前の少年向け手塚マンガから失われていたのが、「愛」と「人間の情」だった。創立したアニメ制作会社・虫プロダクションの経営危機などの軋轢が作品にも暗い影を落として救いのない物語が多くなっていたのだ。

ブラック・ジャック』開始前、少年雑誌での手塚マンガがぱっとせずに、「もう手塚は終わった」と言われるほど人気が下降していた原因は、「愛」と「人間の情」がかけていたことだったのだ。

ブラック・ジャック』をきっかけに、「愛」と「人間の情」を取り戻した手塚治虫が奇跡と呼ばれる復活を遂げたのも、なるほどと頷ける。

 第12話「奇形嚢腫」で、ブラック・ジャックの助手としてオクタンとして活躍することになるピノコが登場すると、「愛」と「人間の情」へのシフトは一層加速する。

 ピノコ誕生によって『ブラック・ジャック』は、「愛」と「人間の情」もある「医療マンガ」から、「人情医療マンガ」へと脱皮するのだ。

 それが顕著に現れているのが、第20話「発作」だろう。このエピソードでブラック・ジャックは手術をしないのだ。

 ブラック・ジャックの家族になったばかりで、オクタンとして、なんとか役に立ちたいピノコが見つけてきた発作に苦しむ少女。ピノコは「特製の患者」と説明したが、診察に訪れたブラック・ジャックは、胃の痛みを訴える少女の発作の原因が、厳しいしつけをする母親への反発が生んだ精神的なものだと見抜く。

 バカバカしくなって治療費も受け取らず家に戻ったブラック・ジャックは、自分もピノコに厳しくしすぎたことを反省して、彼女が欲しがっていたピアノを買ってやることにした。

 こうして、ブラック・ジャックのメスは病気を治すためだけではなく、人と人の関係を治すためにも振るわれるようになる。

 あるときは、生徒を思うあまり厳しすぎる指導をする教師と、それが嫌で学校を休む口実をつくるために交通事故に遭ってしまった生徒の心をつなぐ(第34話「ある教師と生徒」)し、好きな女性に本心を告げることのできない青年の恋を取りもったり(第162話「気が弱いシラノ」)、航空機事故で我が子を失った母親と両親を失った赤ん坊を引き合わせたり(第177話「命のきずな」)もする。こうして、『ブラック・ジャック』の人気は鰻上りになっていったのだ。

 そんな中で、ベスト・ワンを挙げるとすれば、第94話「サギ師志願」ということになるだろう。

 手術が必要な難病の息子を抱える貧乏な夫婦を救うため、開業医の矢武井が、ブラック・ジャックを騙して手術を請け負わせる計画を立てる。患者の父親を大金持ちに仕立てて、3千万円の不渡り小切手で手術代を支払わせようとしたのだ(図版参照)。手術は成功し子どもの命は救われた。矢武井は警察に電話して自首しようとするが、ブラック・ジャックは粋な計らいを見せる。

 医療マンガの先入観を捨て、「人情マンガ」の視点で全243話を読めば、新たな『ブラック・ジャック』像が見えるはずだ。

『ブラック・ジャック』「サギ師志願」より
秋田書店・少年チャンピオンコミックス『ブラック・ジャック』8巻121ページ

※話数は連載時のものに準拠

【アイキャッチ画像出典】
2010年に家族をテーマにした人情もの23本を選んで筆者が編纂した『ブラック・ジャック ザ・ファミリー』(秋田書店ATCW)表紙

記事へのコメント

ブラック・ジャックに対して、「人情」とは日本的でしっくりくる表現だと思った。よく「ヒューマニズム」と評されることも多いが、私はそれに違和感があった。公平なヒューマニストなら、法外な手術代を要求したりしないし、自分が助けたい人間だけを助けることはしないはずだからだ。

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