ガン! ガン! ガン! ガン!
若い命が真っ赤に燃えて……のアニメOP曲も印象的な、「変形合体ロボットもの」の元祖であり、後に『天元突破グレンラガン』などの作品にも大きく影響を与えた偉大な作品『ゲッターロボ』。作者の一人である石川賢が急逝してはや15年近い月日が流れましたが、近年でも『ゲッターロボ牌』という麻雀漫画のスピンオフまで登場しているなど、その存在感は未だに衰えることがありません。
さて、そんなゲッターの生みの親である賢先生のファンの間で使われる言葉として、”KEND”(KEN+END)という概念があります。「あります」というか筆者がむかし昔考えた言葉なんですが。なんとはなしに思いついて使ったら知り合いのブログとかでも使われるようになり、そこからの影響か2ch(当時)の石川賢スレとかでも使われてるのを見るなど、微妙に膾炙しました。いやもちろん、「自分も賢先生のファンだけど、KENDなんて聞いたこともないよ」という方も多くいらっしゃいましょう。しかしそういう方でも、「まあ何を指し示しているのかは分かる」とは思っていただけるのではないかと思います。ならあんたもそうよぶといい、KENDと!(それは豪ちゃん先生の方の作品だ)
とここまで、賢先生の作品を読んだことないという方は、何を言ってるのかさっぱりわからないことでしょう。KENDとは何か。それは、「石川賢作品において非常に多くみられる、打ち切り的な未完の終わり方」のことです。
実例を挙げますと、『虚無戦史MIROKU』のラストが非常に分かりやすいので引用しましょう。
「そして!!」です。これで完です。そして、賢先生の作品には、『魔獣戦線』『魔界転生』『爆末伝』『烈風!!獣機隊二〇三』『柳生十兵衛死す』『ゲッターロボアーク』……などなど、このような終わり方をしているものが他にも数多くあるのです。
さて、これらの作品は、「打ち切り的」と書きましたが、全てが打ち切りというわけではありません。まあ、『魔獣戦線』(『週刊少年アクション』連載)や『ゲッターロボアーク』(『スーパーロボットマガジン』連載)などは掲載誌の休刊による終了なので打ち切りの一種に入ります。が、例えば山田風太郎の同名小説をコミカライズ(かなりアレンジ利かせてますが)した『魔界転生』なんかは、最初から上下巻の単行本描き下ろし企画です。打ち切りということは原理的にありえない。
「じゃあ、賢先生は話を畳むことができない作家なのか」というと、これもまた違います。例えば『ゲッターロボ』は、最終作である『アーク』が先述の通りKENDなのでシリーズ全体としてはKENDになっていますが、シリーズ3作目の『ゲッターロボ號』なんかは単品で見ると非常に綺麗にまとまった終わり方をしています。あるいは、晩年の作品である『武蔵伝』。これは、「次回で最終回」となってもラスボスクラスが二人もピンピンしてたんで、「これはまたKENDかな……」と読者が思っていたら、ラスト1話で実にきれいに話を畳んでくれていました(本作、武蔵と柳生の関係とかが『魔界転生』の裏返しとなっているので、読み比べても面白いですよ)。というか、最初に挙げた『虚無戦史MIROKU』にしても、そこまでのメインストーリー—主人公・夢幻美勒ら九龍一族と真田幸村率いる十勇士との戦い—自体は完結してるんです。ちなみに、この『虚無戦史MIROKU』は、後に『五千光年の虎』など別個に発表された他の作品と統合・再構成され、『虚無戦記』という一大サーガとなっています。この辺の関係で、賢先生のファンが「虚無」という言葉を使うとき、それは一般的なマイナスの意味ではなく、「宇宙規模の大スケールで繰り広げられる、『虚無戦記』に組み込まれるような話」くらいの意味を持っていることがあるので注意して下さい。(例文:『コミックビッグゴルフ』で『超護流符伝ハルカ』の連載が始まったとき、石川賢スレでは「最終的に、ゲッターエンペラーがゲッタートマホークで惑星をブラックホールに入れる『虚無ゴルフ』になるんじゃないか」と予想する人がいた。)
閑話休題。ここまでの説明を聞いた方は、「じゃあなんでそんな打ち切りみたいな未完になるの?」と思われることでしょう。これについては、先ほど名前を出した『魔界転生』の最終章サブタイトルを見るととても分かりやすい。それは「永遠なる戦い」です。そう、KENDを迎えている作品というのは、「(エスカレートしながら)永遠に続く戦い」がテーマなので、こういう終わり方になるのは実に正しいのです。
と、こう書いても、「それは、お前が石川賢ファンだからいいように解釈しているんじゃないの?」とお疑いの方もいるかもしれません。よござんす。それでは、数あるKENDの中でも最もテクニカルなKENDを迎えている『マンガ神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』をご紹介しましょう。
時は戦国、場は甲州。武田信玄の家臣の一人、土屋庄三郎のもとへ、血のような紅に染まった布を携えた謎の男が現れるところから物語は始まります。男は、行方知れずとなっている庄三郎の父・庄八郎の名を出して「纐纈城」が庄三郎のことを待っていると告げ、数日後、庄三郎は何かに憑かれたように「纐纈城」へと向かうため姿を消します。国抜けは死に値する罪ということで、信玄は、ただの竹竿を人さえ突き殺せる凶器に変えることのできる凄腕の鳥刺(鳥もちを塗った竿で小鳥を捕らえる職業)・高坂甚太郎を追手として差し向けることとなり、こうして庄三郎と甚太郎、そして纐纈城をめぐる因縁が描かれる、本作はそういう伝奇時代劇です。
そも、纐纈城とはなにか。これはもともと鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』の巻第十三「慈覚大師 纐纈城ニ入ル事」に登場する、慈覚大師・円仁が仏法を習い伝えようと唐へ渡っていた際に迷い込んだとされる場所でして、人間を吊るして血を絞り、その血で染めた布を売っているという魔境であります。この話では、円仁は御仏の加護で無事脱出することができめでたしめでたしとなるわけですが、その纐纈城と同じもの—人間の血を絞って染めた布を作る—が富士の裾野・本栖湖の中に存在するというのが『神州纐纈城』の設定なのですね。この血絞りの地獄絵図は、賢先生の超絶画力によって「これでもか!」というほどに描かれています。
で、この荒唐無稽な設定に、先述の二人に加えて、庄三郎の父・庄八郎の成れの果てであり、触れるだけで全てを腐らせる業病の持ち主・纐纈城主、かつて妻を寝取られたことで狂い、人斬りを繰り返す男・三合目の陶器師(すえものし)、纐纈城主の弟であり、今は富士山麓に教団を作っている聖者・光明優婆塞(こうみょううばそく)、生きた人間の内臓を原料とする、万病に効く奇跡の薬「五臓丸」を製造する薬師・直江蔵人、言わずと知れた剣豪・塚原卜伝といった多彩なキャラクターが加わり、さらには、纐纈城に恨みを持つ蜂須賀小六の手ほどきによって秘密裏に甲州に侵入し、纐纈城を制圧してその力を手に入れようとする織田信長までもが加わって、奇想天外な物語が展開されていくのです。
と、ここで、本作の出自について説明をいたしましょう。タイトルに「マンガ」とついているのは小説版があるからでして、戦前の伝奇小説作家・国枝史郎(1887〜1943)が1925年から26年にかけて雑誌『苦楽』に連載した『神州纐纈城』、これが原作です。国枝の健康状態などもあって未完に終わっていますが、『蔦葛木曽桟(つたかずらきそのかけはし)』などと並んで作者の最高傑作と評されており、三島由紀夫などは「この作品の、文藻(ぶんそう)のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性とにおどろいた。これは芸術的にも、谷崎潤一郎氏の中期の伝奇小説や怪奇小説を凌駕する」と、なんと大谷崎よりも上とまで言っています(三島、稲垣足穂を激推しして再評価のきっかけを作ったりとか、フィクションの趣味が割とボンクラなところは好感が持てる)。青空文庫で読むことができますので、気になる方はそちらを。
実際読んでみると、谷崎より上か下かというのはともかくとしても、文章、特にテンポの良い台詞回しの見事さは確かなものです。物語の中盤、光明優婆塞と陶器師が相対したときの会話を青空文庫より引用しましょう。
「大なる生命の存在を、認めることの出来た時、人は限りなく弱くなる。その弱さが極わまった時、そこに本当の強さが来る。私は聖者でもなんでもない。ただ弱さの極わまった者だ。……そこでお前に訊くことがある。何故お前は人を殺すな?」
「ハイ」と陶器師は弱々しく、「いたたまれないからでございます。必要からでございます」
「活きて行く上の必要からと、こうお前は云うのだな」
「ハイ、さようでございます。心の中に鬼がいて、それが私を唆して、人を殺させるのでございます」
「もし唆しに応じなかったら?」
「あべこべに私が殺されます。ハイその心の鬼のために食い殺されるのでございます。自滅するのでございます」
「しかし、たとえ、人を殺しても、お前の心は休まらない筈だ」
「ただ、血を見た瞬間だけは……」
「心の休まることもあろう。しかしすぐに二倍となって、不安がお前を襲う筈だ」
「で、また人を殺します」
「するとすぐ四倍となって、不安がお前を襲う筈だ」
「で、また餌食を猟ります」
「血は復讐する永世輪廻!」
「で、また餌食を猟ります! で、また餌食を猟ります! で、また餌食を猟ります! で、また餌食を……で、また餌食を……地獄だ地獄だ! 血の池地獄!」
「無間地獄! 浮かぶ期あるまい!」
「お助けくだされ! お助けくだされ!」
「恐ろしいと思うか。恐ろしいと思うか?」
「恐ろしゅうございます! ああ恐ろしい!」
特に後半、実に小気味よいテンポ。このやり取りは賢先生も気に入ったと見えて、当該シーンの他に作品冒頭でも本作の舞台である霊峰富士をバックに引用されております(ストレートな引用じゃなくて、最後がいかにも石川賢セリフっぽい感じにアレンジされてるのがオッとなりますね)。
この後に続く、陶器師の長台詞なんかも非常によいです。やはり青空文庫より引用します。
「懺悔! なるほどな、いい言葉だ。第一ひどく響きがいい。ザンゲ! ふふん、いい発音だ。そうさ、俺もある時代には、真面目に考えたこともあった。その素晴らしい言葉についてな。ところでその結果何を得たか? こいつを思うと可笑しくなる。その結果なんにも得なかったのだ。懺悔! 途方もねえいい言葉さ。もっとも中身は空虚(からっぽ)だが。そこがまた恐ろしくいいところだ。で、折角大事にして、ちょくちょく小出しに使うがいい。しかし俺には用はねえ。そんな物は邪魔っけだ。……ふふん、これでお前の値打ちもおおかた俺には解って来た。なんのお前が聖者なものか。人を説くとは片腹痛い。まして俺のような人間をな! 俺に進めた奴があった。おいでなさいまし富士教団へとな。月子という面作師だ。俺も心を動かしたものさ。そこへ行ったら俺のような者でも解脱往生が出来るかとな。アッハハハ、馬鹿な話だ。懺悔しろとは餓鬼扱いな! これ売僧、よく聞くがいい。懺悔は汝の専売ではない。ありとあらゆる悪人は皆傷ましい懺悔者なのだ。懺悔しながら悪事をする。悪事をしながら懺悔をする。懺悔と悪事の不離不即、これが彼らの心持ちだ。同時に俺の心持ちだ。懺悔の重さに耐えかねてのたうち廻わっている心持ちが、汝のような偽善者に易々解って堪まるものか。俺はお前と反対なのだ。心の中に巣食っているこの重苦しい懺悔心を、根こそぎ取り去ろうと願っているのだ。俺は徹底したいのだ。悪に踏み入ったこの俺は悪に徹底したいのだ。それを邪魔するのが懺悔心だ。どうやらお前は懺悔によって徹底しようとしているらしい。折角徹底するがいい。勉強しろよ、実行しろ、そうして決して人を説くな! ああしかし考えて見れば何が悪で何が善だろう? いやいや悪も善もない。ただわずかに定義されるのは、苦痛は悪で快楽は善だ。生活の流れを遮るもの、これが悪でその反対が善だ。しかしそれとてあやふやなものだ……では、それでは、どうしたらいいのだ! 何を目安に進んで行こう? 目安なんかあるものか! 行ってくれ行ってくれ光明優婆塞殿! ク、ク、ク、ク、聖者殿! 俺は眠い、寝なければならない。行け! 弱々しい行者殿! 今こそ俺はお前が斬れる! 斬られないうちに逃げるがいい! 行者殿お行きやれさ! アッハハハ、どれ一眠り」
青空文庫から長々引用と、一枚幾らで書いてたらできない蛮行をしましたが、とにかくこのような調子の良い文章で魅力的なキャラクターと荒唐無稽でグロテスクな纐纈城の地獄が描かれているのが原作なわけでして、それを賢先生があるところは忠実に、あるところは大幅にアレンジを利かせてコミカライズしている、これが面白くないわけがないのであります。
さて、この『マンガ神州纐纈城』の終盤では、庄三郎と甚太郎たちが持つ血の因縁、纐纈城が生まれた理由、そして人間という存在の根源といった全てが明らかになり、纐纈城は崩れ落ちます。そして直江蔵人と塚原卜伝たちが、地獄の血に目覚めた信長が第二の纐纈城を作ることを未然に防ぐため、信長を倒す旅に出ようとしたところで、かつて纐纈城主がつけていた木の仮面を顔につけた陶器師が現れ、「お前らに信長は倒せない。やつを倒せるのは俺だけだ。やつに地獄を見せられるのは俺だけだ!!」と叫ぶや仮面を剥ぎ、蔵人たちが「何!!」と驚愕したところで話が終わります。
KENDです。見事にKENDです。
さてここで、読者の方は、「原作小説が未完なんだからコミカライズも未完なのは当たり前でしょ?」と思われるかもしれません。
違うんですよ。
原作を最後まで読むと分かるんですが、原作において纐纈城をめぐる物語は完結していない——漫画版における3分の2くらいのところで終わっているんです(というか原作、シーンごとの描写は本当に素晴らしいんですが、全体の構成としては「これ、後先考えずに筆が奔るまま連載書いたんで収拾つかなくなったのでは……?」な瞬瞬必生感が割とあります)。「纐纈城とは一体なんなのか」とか、そういったことは一切明らかにならないまま終わり。また、織田信長も登場しません。
つまり『マンガ神州纐纈城』という作品は、「未完に終わった『神州纐纈城』を賢先生が独自の解釈で再構成し、その物語を完結させた上で、話に新たに付け加えた要素をふくらませることで原作のラストにオマージュを捧げた(ここはぜひ原作と漫画版のラストを見比べてみて下さい)新たな未完のシーンで〆る」という離れ業を行っているんですよ。
筆者は、これほど力強い意志のもとに描かれた未完を見たことがありません。ビューティフル。
ちなみに、最初の方で本作を「最もテクニカルなKEND」と表現したということはパワー型のKENDというのもあるわけでして、特に『烈風!!獣機隊二〇三』なんかは「こんな終わり方あるかよ! 大好き!」と笑顔になってしまうこと請け合いですので、みなさまぜひ手を出して下さい。あとあと、気を失っている間に腕や足を機関銃やロケットランチャーに改造されてしまった主人公が「よくもこんなスバラシイ身体にしてくれたのう! 最高じゃあ!」と泣いて喜ぶ『極道兵器』とか、「レートは千点につき暴力(バイオレンス)を一発だ!! 役満なら32発!!」の『雀鬼-2025』とかも……と賢先生の話をしだしていくと無限に続けてしまいそうになるので、ひとまずここで筆を擱かせていただきます。
そして!!