2020年12月1日に引退宣言をしたマンガ家・水島新司は野球マンガに人情ドラマを持ち込んだ人であった。
「野球マンガの第一人者」と紹介されることが多い水島新司だが、デビュー直後、大阪の貸本マンガの世界で活躍した時代には「水島新司シリーズ」と銘打って数多くの人情マンガを世に出していた。下町を舞台に、貧しいながらも心優しき人々が助け合い生きていく姿を、丁寧に描いていたのだ。
野球マンガでの水島の功績は、超人的な投手とライバル打者の一騎打ちの世界に、日本野球ならではのチームワークや選手ひとりひとりのドラマ、対戦チーム間のドラマ、さらには選手の家族のドラマ……つまり「情」を盛り込んでリアルな作品世界を完成させたことである。
主人公の超人的な投手が魔球を開発し、ライバル打者が特訓を経てこれを打ち崩し、主人公は新魔球を考案する。たいてい主人公は投手としてだけではなく、打者としても優れているから、残る8人の野手は背景のような存在になる。これが過去の野球マンガだ。
ところが、水島の野球マンガでは、主人公を含めて誰もが個性的で、それぞれに長所だけでなく、弱点や欠点を持つ。そんな選手たちがチームとして補い合うことで勝利に至る。
それが最も色濃く現れているのが、1973年から2014年まで、『ビッグコミックオリジナル』誌上で41年間連載が続いた『あぶさん』だろう。
主人公の「あぶさん」こと景浦安武は水島と同じ新潟生まれ。天性の打撃センスを持っているが、酒好きという短所がある。高校時代は地方大会の決勝でサヨナラホームランを飛ばしながら、飲酒がバレて甲子園への切符をふいに。その後、大阪の社会人チームに入るが、トラブルを起こして懲戒免職。居酒屋「大虎」でやけ酒を飲んでいるところを、パ・リーグ「南海ホークス」のスカウト・岩田鉄五郎に誘われドラフト外で入団。代打の切り札として活躍することになる。連載開始と同じ1973年のことであった。
南海ホークスと言っても若い人にはわからないかもしれない。現在の福岡ソフトバンクホークスの前身で、親会社は大阪の私鉄の南海電鉄。ホームグラウンドは南海難波駅に隣接する大阪球場だった。ちなみに、あぶさんが入団した1973年には野村克也・プレイングマネージャーのもと2シーズン制の前期で優勝。プレーオフでは後期優勝の阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ)を破って、読売ジャイアンツとの日本シリーズを戦った。
マンガは酒好きのあぶさんの活躍とともに、リアルタイムのホークスやパ・リーグ各チームの動きを追うが、ドラマの中心になるのは居酒屋「大虎」に集う人々とあぶさんとの心のふれあいだ。
通天閣が見える大阪の下町・ほとけ横丁にあるのが「大虎」。店主・桂木虎次郎は妻に先立たれ、娘のサチ子を店の一隅で育てながら酔っ払いたちのよき話し相手になってきた。常連客のあぶさんには一目も二目も置いている。18歳になったサチ子は店の看板娘。あぶさんに一途な愛情を持ち、のちには夫婦になる。
サチ子のライバルは、あぶさんが暮らす安パート「なにわ荘」で母親と二人暮らしの小学生・カコこと山田和子。大学生になったときには「大虎」でアルバイトも。
常連客のボンこと枡幸久太郎は、野球には詳しくないが、のちにあぶさんとサチ子の媒酌で結婚式を挙げる付き合いに。ほかにも、画家の中島やホークスファンの伝六、エリートサラリーマンの地位を捨てて「大虎」で働きたいと押しかけてきた「支店長」など、個性的な面々が夜ともなれば三々五々店に足を運んでくる。
ここに、あぶさんの母と義父、弟などの家族が絡み、さらに実在の野球選手たちの物語が織り込まれて展開するのが、『あぶさん』だ。そして、「大虎」はいつもどこかに登場して、あぶさんの心の拠り所となっていく。
1988年に南海ホークスはダイエーに身売りし、福岡に本拠地を移す。あぶさんもサチ子とともに福岡に移り住む。はじめ低迷していたホークスも90年代半ばには再び優勝を争う力をつけていく。が、福岡編の『あぶさん』はどこかさみしい。試合後に「大虎」に足を運ぶあぶさんの姿を見ることができないからかもしれない。
筆者は大阪で仕事をしていた時代に、飲み仲間たちと「大虎」のモデルを探したことがあった。通天閣が見える方角などをもとにして、位置が分かるのではないか、と考えたのだが、結果は空振り。
その晩は、仲間といつもの居酒屋で「大虎は、お酒好きの夢の中にあるパラダイスなのだ」などとほざきながら酔いつぶれたのであった。
【アイキャッチ画像出典】
大阪球場のバックスクリーンを背景にした景浦安武 単行本12巻「ホラ上戸」表紙