アシュラ
今の時代からは想像もつかない“大飢饉”。舞台は中世、農村の時代。日照りが続き干上がった土地では、食べるものは何もなくなる。飢饉で追いつめられた人間のすることとは・・・!?不幸な生まれ方をしたアシュラは、その逞しい本能により壮絶な生き方を繰り広げる。人間性の本質と欲望をギリギリのところまで描いた“衝撃の問題作”!!ジョージ秋山の代表的傑作!
エースをねらえ!
【期待の新人プレイヤー・岡ひろみ】岡ひろみはテニスの名門、西高校の1年生。お蝶夫人に憧れてテニス部に入部するが、いつもドジばかりしていた。しかし宗方コーチだけは彼女の才能を見抜き、次の大会メンバーに指名する。突然の抜擢にひろみはテニス部員から厳しい目を向けられるが、生徒会長の藤堂に励まされながら過酷な練習を開始する!!
アストロ球団
人間離れしたプレイを見せる9人の超人による野球チーム「アストロ球団」のダイナミックな活躍を描いた熱血スポーツコミック。交通事故で重傷を負った阪神タイガースのエース・江夏(えなつ)になりすまして登板した謎の少年は、変幻自在の投球で巨人打線を翻弄していく。彼こそ、名投手・沢村栄治(さわむら・えいじ)の意志を受け継ぐフィリピン人・シュウロが探していた超人の一人・宇野球一(うの・きゅういち)で……!?
197X年、関東一円にマグニチュード8.9の激震がおそった!日本の首都を一瞬にして地獄へと変えたその地震を人々は関東地獄地震とよぶ・・・現代の一大戦国絵巻がついに幕を開ける!
お金ためます!
型破りなヒロイン、アニー・モーガンはカワイイのにケチでガメツイ女の子。実はモーガン財閥のご令嬢でお金持ちなのだけれど、父から20歳までに1万ドルためられない怠け者には、財産を譲らないと言い渡されていた。将来の遺産相続権を得るため、アニーは日々、小銭を稼ぎつつ、常にビジネスチャンスをうかがうのだった!表題作の他に『春風の丘』を収録。
子連れ狼
一殺五百両!子連れの刺客――人呼んで”子連れ狼”拝一刀とその子大五郎が昿野をさすらう!柳生一族の厳しい追撃をはねのけ親子が目指すは・・・!?巷間を感動の渦にまきこんだ時代劇画の金字塔!!
木曜日のリカ
美木本リカは5チャンネル木曜番組のレギュラー出演者であることから「木曜日のリカ」と愛称されるテレビタレント。しかし裏の顔は、世界でただひとり女でノーベル殺人賞をもらった凄腕の美女スナイパーなのだ!!リカが司会を務める番組の収録中、ゲストで来ていた大蔵省主計局長が何者かに射殺される大事件が発生。しかも容疑者としてリカ自身が指名手配されてしまう。事件が闇社会ナンバーワンの狙撃屋グループ・HAL(ハル)の仕業である事を突き止めたリカは、警察の追手をかいくぐりながら国際的犯罪に挑んでゆく!!
魔太郎がくる!!
イジメられっ子で根暗な主人公・浦見魔太郎。様々な人物からイジメを受けるが、我慢の出来ないイジメには超能力「うらみ念法」やオカルトアイテム、残虐な手段で復讐を図る。「コノウラミハラサデオクベキカ」という呪文が学校で流行ったほど連載当初から日本全国で話題になる。現代でのリメイクが望まれる声が数多く上がるサスペンスホラーの傑作。
侍ジャイアンツ
6年連続日本一という偉業を達成したジャイアンツだったが、川上監督はいまのジャイアンツにはいない、荒々しいサムライのような選手が必要だと感じていた。そんな折、二軍選手の八幡のすすめで、川上監督は長島とともに四国の土佐に渡る。そこで、八幡の高校の後輩・番場蛮(バンババン)と出会った二人は、常識では計り知れないその野球センスに惚れ込む。そして後日、川上監督は番場をドラフトで指名する。入団をいったんは断った番場だったが、最終的にはジャイアンツへの入団を決意する。
男組
「父親殺し」の罪状により、関東少年刑務所に収監されていた少年・流全次郎。手錠姿のまま通うことになった私立の名門・青雲学園は、絶大な権力を持つ神龍剛次により支配されていた……。少年刑務所の盟友・五家宝連の5人と共に、流の凄絶な戦いが始まった!!
おにいさまへ…
奈々子が入学した名門女子校・青蘭学園には、「薫の君」「サン・ジュスト」などと呼ばれる華麗な生徒たちの女の園だった。新入生の誰もが入会を夢見る学園内の社交グループ「ソロリティ」の選考会がはじまる。ソロリティ・メンバーは、家柄や教養や容姿などを上級生に審査され、投票によって選ばれる。奈々子は自分には縁のない世界と考えていたが、何故か候補生に選ばれて…!?
壮麗なものには隠然として、邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものが秘められ、夜光のような輝きを放っている。いまもし、壮麗なものを世上の謂うところに従って、崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものであるとしてみよう。たんなる空しい語彙の置き換えに終わって、壮麗なものを壮麗なものたらしめる、夜光のような輝きを放つことはできないであろう。それでは、壮麗なものとは崇高なもの、美麗なもの、厳然としたものではないというのか。邪悪なもの、怪異なもの、頽廃したものであるというのか。 森敦『意味の変容』より ショージ秋山の『アシュラ』が人肉食などの過激な描写により世間からの非難が殺到して有害図書指定を受けてから、もうずいぶんとながい月日が経った。有害図書とはじつにセンセーショナルな言葉である。事実、ジョージ秋山は有害図書指定を受けて一躍時の人となったようである。けっして『アシュラ』という作品そのものが話題にされたのではなく、導入の人肉食の挿話と有害図書ということばかりが人目に浮上して晒されてざわついたようである。まさにセンセーショナルな言葉が問題を生じさせ、そうして生じさせられた問題がまたセンセーショナルを呼ぶ、むなしい言葉の空転である。そもそも問題など初めからどこにもなかったのである、誰も『アシュラ』など読んではいなかったのだから。読んだという人が仮にいれば、その人は、そおっと、その本を慈しむように閉じるだけである。 ほんとうの優しさとは、いったい何であろうか。たとえば、困っている人がいたら助けてあげることだろうか。それとも、子供の心の成長に害を与えそうな本を予め取り除くことだろうか。私はそのどちらともをひとしくほんとうの優しさだとは思わない、それらがまったくもって善行のひとつに数え挙げられ得ないとは言わないが、私はそれらをひとしく一時的な対処であると思う。あるいは、困っている人が目の前にいて、助けてあげたい気持ちはあるのだが、自分にはそんな余裕のない場合はどうなるのか、それはけっして優しさではないと言うのか。もしくは、けっきょくは共倒れになるのを承知で人助けにでる場合はどうなるのか、それはほんとうに優しさであると言えるのか。そもそも、私たちにとって困っている人とはいったい何なのか、子供にとって害になるものとはいったい何なのか、なにか仮にも定められた平均値のようなものがあり、そこから陥没しているものを平均値にならしてあげることはほんとうの優しさなのだろうか。 こうまでして、まわりくどく優しさというものについて言及してみるのは、私は他でもない、この有害図書に指定された『アシュラ』からたいへんな優しさを感じたからです。この有害と言われた『アシュラ』から滲みでる優しさとはいったい何なのだろうと思うのです。もしかすると私の頭が狂っているのかもしれません。 アシュラはまさに世上の謂うところの崇高なもの美麗なものからはかけはなれた怪異なもの頽廃したものとしてまず私たちの前に姿を現します。それは仮に平均値というものを設定すれば陥没した存在としてあることになるでしょう。それからアシュラは人をも殺める壮絶な人生を経て、さいごには法師に導かれて仏門に入り、「命」という名前をはじめて授かることになる予定だったのですが、その結末は連載の中止により叶わないものとなりました。しかし、アシュラが導かれることになる仏門とは、宗教とは、私たち人間にとってひとつ崇高なものであるでしょう。つまり、アシュラは怪異なもの頽廃したものを経て、奇遇ながら、その反対概念であるところの崇高なものに辿り着く。しかし、それでは、壮麗なものとはいったい何なのか。怪異なものも、頽廃したものも、崇高なものも、美麗なものも、どれもひとしく壮麗なものとは似ても似つかないのです。私には壮麗とは「命」そのものであると思います。あるいは怪異であったり、あるいは頽廃していたり、あるいは崇高であったり、あるいは美麗であったり、あるいは怪異から崇高に転じたりする人生の奇遇さそのもの、もっといえば、地球の奇遇さそのもの、この宇宙の奇遇さそのものであると思うのです。怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉は壮麗な「命」そのものを測るために仮に定められた単位でしかないと思うのです。そして、アシュラは「命」と名付けれらたとき、怪異なもの、頽廃したもの、崇高なもの、美麗なもの、こういった言葉から解き放たれて自由になり、言葉や概念や単位のベールを介してではない壮麗な「命」そのものとしてはじめて見られるようになったのではないかと思うのです。 『アシュラ』から滲みでる優しさとは、この壮麗な「命」そのものを言葉や概念や単位のベールを介してではなく、じかに直接直視しようとする試みにあるのではないかというような気がしています。それは平均値も陥没点もありえない、底の最底から、すべて有象無象の「命」そのものがいっせいに自然に盛り上がり膨張して炸裂していくかのような凄まじいまでの肯定の姿勢であると思います。そこにはあるいは自然があらゆる「命」に強いる死すらも含まれる凄まじいまでの肯定の姿勢。私はこの肯定の姿勢をほんとうの優しさと言いたい。あるいはその肯定の姿勢とは、ありとあらゆるものは、何かの枠組み(言葉や概念や単位といったもの)に括られることなどあり得ず、すべてがそれぞれにちがっているということだけにおいてはひとしく肯定されうるということでもあるかもしれません。 ところで、とうとうアシュラには与えられなかった「命」という名前をジョージ秋山は自身の息子に与えることになります。そのことについては、『アシュラ』とは違った観点でまた素晴らしいマンガといいたい漫画家二世をインタビューする田中圭一の『ペンと箸』 http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1742 によく描かれています。寡黙で厳しい印象であった父親ジョージ秋山に、大人になった息子さんはある日いうのです。 「オレの名前の由来、命を大切に、じゃないよね」 「じゃないよ」 「命がけで生きろ、だよね」 「ああ、そうだ」 私はここを読んだとき、もう、涙が止まらなくなって大変なことになりました。その後、息子の命さんは『アシュラ』をアニメ映画化することになります。そのキャッチコピーが「眼を、そむけるな」であったことにも涙したことを付け添えておきます。ほんとうの優しさとは、まさに、何事からも眼をそむけないよう試みることであると思うのです。