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「子連れ狼」は1970年から1976年まで「漫画アクション」に連載され,1970年代の劇画ブームをけん引して一世を風靡した作品です。原作は小池一夫,作画は小島剛夕です。小島剛夕(1928年生)は手塚治虫(1928年生),白土三平(1932年生),横山光輝(1934年生),とほぼ同時代の劇画家であり,紙芝居,貸本屋,青年誌と劇画の世界とともに歩んできました。
日本漫画の黎明期に登場した四人の巨人のうち,手塚と横山は新しいストーリー漫画の世界を開拓し,小島と白土は劇画の系譜で大きな足跡を残しました。小島は一時期,白土の赤目プロでカムイ伝(第一部)の作画を担当しており,白土の画風にも大きな影響を与えています。
時代は江戸時代の初期であり,主人公の拝一刀(おがみ いっとう)は公儀介錯人という重要な地位を務めていましたが,柳生一族の陰謀により,一子大五郎を除き一族を誅殺され,自分自身も徳川家に対する謀反の濡れ衣を着せられ,大五郎ともども切腹の上意を受けます。
かって,一刀は公儀介錯人の地位をめぐり裏柳生の総帥・柳生烈堂の子軍兵衛と御前試合で争い,勝利した経緯があります。一刀は一族の誅殺,および自分にかけられた将軍家への謀反の嫌疑は,公儀介錯人の地位を手に入れるため烈堂が画策したものと看破します。
そのため,一刀は上意にそむき切腹を拒否し,徳川家の三ツ葉葵紋の入った介錯人の正装で対抗します。当時の武士社会においては葵紋に刃向うことは将軍家に弓引くことを意味しており,上意の使者も背後の柳生も手出しできません。
一計を案じた烈堂は拝一刀に対して柳生の剣客と立ち合いをして勝った場合は江戸の地(府内)を踏まない限り手出しはしないという約定を交わします。結果として勝負に勝った拝一刀が江戸を離れることを黙認します。
江戸時代とは徳川家康が征夷大将軍になって江戸幕府を開いた1603年から第15代将軍慶喜が大政奉還した1867年までの264年間ということになります。この期間をだいたい3等分して初期,中期,後期と区分するのが一般的です。「子連れ狼」の時期は幕閣の要人,柳生一族の氏名(烈堂は柳生宗矩の実子とされている)などから江戸時代初期が舞台となっていることが分かります。
徳川幕府体制は同時期の中国のような皇帝を頂く中央集権国家ではなく,幕府は武家の棟梁として中央政治を支配しますが,その体制下で諸大名は自分の領土を専制支配しています。つまり,中央支配と地方支配はまったく別の体制です。
徳川幕府は諸国の大名を親藩,譜代,外様に区分し,外様同士が近接しないように国替えを行います。また,諸大名に江戸屋敷をもたせ,参勤交代を命じています。これは諸大名の経済的負担を大きくして,幕府に対抗できる勢力が育たないようにするための制度です。
さらに,諸大名を監視・服従させるための陰の三つの組織を生み出します。それは大名家の廃絶理由を探り出すお庭番と呼ばれる探索人,邪魔になる要人を暗殺する刺客人,お家廃絶を命じた大名の介錯をする介錯人です。物語の中では探索人は黒鍬一族,刺客人は柳生一族,介錯人は拝一族ということになっています。
史実では「公儀介錯人」という役職はありません。大名の切腹の場合は大目付が正使,目付が副使として派遣され,介錯人は預かり家が家中から腕の立つ者3名を選任する仕組みになっていました。
有名な「忠臣蔵」の発端となる赤穂藩主浅野内匠頭の殿中の刃傷事件は元禄14年(1701年)に発生しています。このとき,浅野内匠頭の身柄は田村右京大夫邸へ預けられました。将軍綱吉によりその日のうちに内匠頭に切腹の裁定が下り,午前3時頃に切腹の検分役である大目付の庄田下総守,目付の大久保権左衛門,多門伝八郎が田村右京大夫邸に到着し,切腹を申し渡します。
切腹の実行は午前5時頃となり,介錯は田村家の磯田武大夫が行いました。元禄時代の切腹は実際には腹を切らず,内匠守が白木の三宝の上に置かれた九寸五分の短刀に手を伸ばした瞬間に一刀で首を打ち落とされたとあります。
物語に出てくる「拝一族」,「柳生一族」は実在しており,明暦年間(1655-1658年)に拝一族が姿を消し,柳生一族も天和元年(1681年)に断絶しています。物語では拝一族の消滅を柳生一族の陰謀を重ね合わせているようです。