『総員玉砕せよ!』は、水木しげるが自らの戦争体験をベースに、史料をもとにしたフィクションを加えて完成させた長編マンガだ。
1973年8月に講談社から描き下ろし単行本として刊行され、初出時のタイトルは『総員玉砕せよ!! 聖ジョージ岬・哀歌』だった。刊行に先立って、『週刊現代』増刊『劇画ゲンダイ』にダイジェスト版短編『セントジョージ岬 総員玉砕せよ』が掲載された。その後、91年にコミックスからハードカバー単行本『総員玉砕せよ!』として再刊。95年には、講談社文庫に収録された。2022年7月には、水木没後に発見された構想ノートを加えた講談社文庫『総員玉砕せよ! 新装完全版』が刊行されている。また、ダイジェスト版短編も講談社『水木しげる大全集 総員玉砕せよ!他』などで読むことができる。
海外でも翻訳されており。2009年にはフランスのアングレーム国際マンガフェスティバルで「遺産賞」を受賞。また。2012年にはアメリカの権威あるマンガ賞・アイズナー賞で「最優秀アジア作品賞」を受賞するなど、高い評価を受けた。
物語は1943(昭和18)年末、パプワニューギニア・ニューブリテン島のココボから始まる。
主人公の丸山二等兵たちは、新任の田所支隊長の指揮下、バイエン上陸作戦を敢行。降り続く雨の中、連合軍を迎え撃つための陣地構築をはじめた。
軍隊生活は不条理なものだ。上官や古参兵の言葉には逆らうことができず、質問をしたり口ごたえをすれば、否応なく鉄拳制裁が待っている。その中で、兵隊はいかにうまく立ち回るかが重要になる。うまく立ち回るのが苦手な丸山二等兵は、何度も何度もビンタやゲンコツを食らってしまう。兵士たちはいつも腹をすかせて、なにか食えるものはないか考えるばかりいるし、病気や不注意からの事故で命を落とす仲間も出てくる。理想も道理もなにもない。それが、軍隊の日常なのだ。
やがて、連合軍の輸送船団がバイエンに迫ってきた。丸山たちが陣地を築いた山は爆撃機に丸裸にされ、本陣地のあたりには艦艇からの砲弾が雨あられと撃ち込まれた。上陸した敵兵は、水源地をおさえてバイエン支隊を包囲し、身動きは取れなくなった。楠木正成に憧れる田所支隊長(大隊長)は、正成と同じように敵に切り込んで討ち死にする道を選んだ。つまり「玉砕」である。
中隊長や副官たちは玉砕に反対し、ゲリラ戦での抗戦を主張したが支隊長の決意は変わらなかった。彼は、職業軍人としての死に場所を求めていたのだ。
45年3月3日、ついに突撃が敢行され、バイエン支隊玉砕の報がラバウルの参謀本部に伝えられた。
だが、支隊の全員が戦死したわけではなかった。生き残った者たちは、聖ジョージ岬に集結していた。彼らは生きていてはならない者たちだった。参謀本部は生き残り将兵処分のために木戸参謀を現地に送った。
木戸は、将兵たちに再突入を命じ、今度は生き残りが出ないよう、部下にラバウルに通じる道で待機して、逃げてきた者は射殺してもよいと伝えた。そして……。
コミックス版のあとがきで水木は「この『総員玉砕せよ!』という物語は、九十パーセントは真実です」と書いている。
水木しげるは21歳のときに召集を受けて鳥取の歩兵第40連隊留守部隊に入営。47年に歩兵第229連隊の所属としてニューブリテン島のラバウルに向かった。日常的な鉄拳制裁などは水木の実体験である。その後、決死隊の一員としてバイエンに送られた水木は、敵機の爆撃で重症を負い左腕を失った。丸山二等兵のモデルは水木自身だが、水木はこのケガで野戦病院に送られて玉砕には加わっていない。このあたりは、10%のフィクションの一部だ。
また、登場人物にはそれぞれモデルがいる。田所支隊長は、27歳で玉砕した陸軍少佐・成瀬懿民。支隊長に反対してゲリラ戦を主張する中隊長は、児玉清三中尉。史実では、支隊長を説得して200人を超える兵の命を救った。二度目の玉砕を命じる木戸参謀のモデルは陸軍中佐・松浦義教だ。マンガの木戸は流れ弾にあたって死ぬが、松浦は生きて司令部に戻った。水木は「参謀はテキトウなときに上手に逃げます」と書いている。終戦後、松浦が書いた自叙伝『灰色の十字架』は、水木が本作を描くに至る原動力のひとつになった。
「あとがき」の中で、水木はこうも書いている。「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは”人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく”人間”として最後の抵抗ではなかったと思う」と。
読み終わったとき、冒頭でバイエンに上陸した兵が、その美しい夜明けの浜辺で「天国みたいなところだ」とつぶやき、「そうだ……ここは全員が天国にゆく場所だったのだ……」というモノローグが被せられた場面が胸に響いた。