ハワイアン・ブーム かわぐちかいじ/藤井哲夫『僕はビートルズ』全10巻

 マンガの中から昭和を探る「マンガの中の昭和のアレ」。今回のマンガは、ベテラン・かわぐちかいじが、新人原作者・藤井哲夫と組んだ『僕はビートルズ』だ。

『僕はビートルズ』

モーニング』の新人登竜門「MANGA OPEN」で、原作としては初めて大賞を受賞した藤井の作品をかわぐちがマンガ化。『モーニング』2010年15号から12年12号で連載され、単行本はモーニングKCで全10巻にまとめられた。
 ビートルズのコピーバンド「ファブ・フォー」のメンバー4人が、2010(平成22)年の東京から、本家ビートルズがレコード・デビューする1年前、1961(昭和36)年の東京にタイムスリップ。ビートルズの曲を自作と偽りレコード・デビューする、というタイムパラドクスSFだ。
 とは言え、昭和のアレがビートルズ、というわけではない。取り上げようとしているのは、昭和のハワイアンブームである。
 ファブ・フォーのメンバーのうち、ポール・マッカートニー(ベースとボーカル)担当の鳩村真琴とジョージ・ハリスン(ギター)担当の蜂矢翔がたどり着いたのは61年3月の吉祥寺(東京都武蔵野市)。ふたりは、「流しの竜」と名乗る演歌流しにピンチを救われ、竜のつてで「ハワイアンダンスの宵」というイベントに前座として出演することが決まる。会場に入ったふたりは「日本人て…こんなにハワイアンが好きだったんだ」と語り合う。

 ハワイ伝統のハワイアン・ミュージック(以下ハワイアン)が日本に紹介されたのは明治時代後期とも大正時代とも言われている。日本からハワイに移民として渡った人たちが伝えたものらしい。
 本格的に演奏されるようになったのは昭和になってから。ホノルル生まれの日系二世・灰田晴彦(有紀彦)が日本で結成したハワイアン・バンド「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」が嚆矢と思われる。バンドは晴彦のスティール・ギターとウクレレ、弟の勝彦のボーカルで人気を博した。次いで、1933年にはハワイ大学医学部の学生だったスティール・ギター奏者のバッキー白片が自ら結成したハワイアン・トリオを率いて来日し、「アカカの滝」「フイ・エ」の2曲をレコーディング。このあたりから一気に火がついた。学生を中心にアマチュア・バンドが次々に名乗りを上げたのだ。大学卒業後、日本に帰化した白片はハワイアンの普及のため奔走することになる。
 ところが、太平洋戦争の勃発で、ハワイアンは敵性音楽として演奏禁止に。演奏者たちは不遇の時代を迎えた。
 戦後、ようやくハワイアンは息を吹き返した。45年に灰田晴彦は「灰田勝彦とニュー・モアナ」を結成。バッキー白片も47年に「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」として活動を再開した。48年には「大橋節夫とハニーアイランダーズ」が誕生。49年には、スティール・ギター奏者のポス宮崎が率いる「コニー・アイランダーズ」がレコード・デビューした。
 ブームのピークは昭和30年代だ。54年にアロハ・ハワイアンズの元メンバーが「和田弘とマヒナスターズ」を結成。58年には女性バンド「クイーンシスターズ」から独立し、ソロデビューしたエセル中田の「カイマナヒラ」が大ヒット。64年にはバッキー門下の日野てる子がデビュー……。アマチュアのバンド活動も盛んで、のちにロックバンドになるダニー飯田とパラダイスキングも55年の結成当時は、ダニーのスティール・ギターを中心にしたハワイアンバンドだった。ムード歌謡グループの「三浦弘とハニーシックス(現・三浦京子とハニーシックス)」も58年に兄妹5人のハワイアンバンドとして活動をはじめ、62年の全日本アマチュアハワイアンバンドコンテストで全国優勝を勝ち取っている。

 ファブ・フォーのメンバーは昭和のハワイアン・ブームの真っ只中にタイムスリップしてしまったのだ。
 アロハシャツに着替えさせられたふたりが舞台に上がって歌ったのは「オール・マイ・ラヴィング」。ポールのシャウトがかっこいいこの曲ならダンスフロアのお客もノッてくれるはず、と自信を持って演奏したが、会場はすっかり白けて、「こっちは金払って踊りに来てんだよ 『カイマナ・ヒラ』や『南国の夜』だ! ハワイアンを演ってくれよ!!」と罵声を浴びせられる始末。1曲でマイクを止められてしまう。苦い昭和デビューだった。
 しかし、偶然居合わせた新興音楽プロダクション「マキ・プロダクション」の女社長・卯月マキと契約が成立。デビュー・シングル「抱きしめたい/アンド・アイ・ラヴ・ハー」が世に出る。一緒にタイムスリップしたはずのジョン・レノン担当(リズムギター兼リーダー)やリンゴ・スター(ドラムス)担当の鶴野コンタの居所もわかり……。とここから先はぜひ単行本を読んでいただきたい。
 さて、大ブームになったハワイアンだったが、57年にマヒナ・スターズがムード歌謡に転向したのをはじめ、歌手の多くが歌謡曲に移っていった。
 一方、本家ビートルズは62年10月5日、イギリスでシングル「ラブ・ミー・ドゥ」をリリース。63年1月11日にリリースした2枚目シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」で全英1位を獲得して一躍人気バンドとなる。日本でも64年2月にシングル「抱きしめたい」が発売され、ビートルズサウンドが若者を魅了することになるのだ。
歌は世につれ、世は歌につれだ。

『僕はビートルズ』第1巻 126・127P

 

 

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