手打式パチンコ台 牛次郎/原作、ビッグ錠/マンガ『釘師サブやん』全8巻

 いつの間にか姿を消した「昭和のアレ」をマンガの中に探すシリーズ。今回は探すまでもなく、全編にアレが登場するマンガだ。アレとは、レバーを指で弾いて玉を飛ばす手打式パチンコ台。マンガは、『週刊少年マガジン』で1971年9(2月28日)号〜72年51(12月3日)号に連載された牛次郎/原作、ビッグ錠/マンガの『釘師サブやん』だ。

『釘師サブやん』

 主人公は大阪から東京に出てきた天涯孤独の釘師・サブやんこと茜三郎。釘師というのは、パチンコ台の釘を調整して、出玉を良くしたり、渋くしたりする仕事。ホールに雇われる釘師もいれば、フリーの釘師もいる。パチンコ台メーカー所属の釘師もいる。
 公にはホールが出玉を調整することは認められておらず、表向きは玉に当たって歪んだ釘のメンテナンスが仕事になっている。
 釘師の名人・根岸佐助に師事したサブやんは、師匠を超える日本一の釘師を目指して日々研鑽を積んでいる。サブやんが働くパチンコホールにはサブやんの釘で打ちたいというファンも多かった。
 そんなある日、サブやんの前に現れたのは一匹狼のパチプロ・美球一心(みたまいっしん)だった。一心はサブやんが釘打ちで出玉を抑えた台をたった一発で攻略してしまった。その技の名は「秘玉ムラマサ」。そして、もう一つの技「玉バサミ」でサブやんに勝負を挑んできた。一心はひと目でサブやんの釘師としての闘志に惚れ込み、相手に不足なしと認めたのだ。勝負に応じる用意ができたら、釘師からパチプロへの挑戦状である「釘師見参」と書かれた「金札」を店の前に貼り出すよう告げて、一心は去っていった。
 苦心の末に玉バサミを破る釘をあみ出したサブやんは、店の入口に金札を貼った。
 だが、それに応えたのは、一心だけではなかった。全国の名だたるプロが金札に応じ、その中にはパチンコホールを食い物にする「ゴト師」と呼ばれる悪徳パチプロ集団なども含まれていた。サブやんはゴト師たちを相手に回し、命を削る厳しい対決を繰り返していくのだ。
 ゴト師たちの技がすごい。「二連流し」「金蛇の術」「天龍釘流し」「鈴地獄」といったおどろおどろしい必殺技を駆使して、釘師に挑み、荒稼ぎをするのだ。いでたちも、いかにも悪役という雰囲気を漂わせている。
 迎え撃つ側のサブやんも「玉ふぶき」などの必殺釘で応戦。まるでスポーツ根性マンガのようなストーリーが読者の少年たちを魅了したのだった。
 この対決を可能にしたのが、昭和の手打式パチンコ台なのだ。現在普及しているデジパチ台とは違って、釘と風車、入賞のポケット、そしてチューリップで構成されるシンプルなつくり。いわゆる「役物台」だ。チューリップは1960年に登場している。
 玉は台の横にあるレバーを指ではじいて打つ。このレバーの扱いがプロの腕の見せどころだ。打ち方だけで玉の動きを意のままにコントロールし、入賞ポケットに落としていくわけだ。手打式から電動式への移行が始まったのは1973年。マンガの連載期間は、手打式パチンコ台消滅直前だったことになる。

 もうひとり重要な登場人物がいる。根岸佐助の師匠で、正村流釘術宗家の茜正村だ。近代パチンコの始祖と呼ばれ、サブやんを厳しく指導し、禁じ手を使ったことにより破門を言い渡すが、宗家に伝わる黄金のハンマーをサブやんに渡すよう言い残して死んでいく。
 この茜正村にはモデルが存在する。戦前から名古屋でパチンコ台の製造とパチンコ店の経営を手掛け、戦後の1948年に現在のパチンコ台の原型になった「正村ゲージ」を開発した正村竹一だ。さらに正村は1回の入賞で10個の玉が出る「オール10」台を開発。正村ゲージとオール10は、それまで子供の遊具だったパチンコを大人の娯楽に変えた。1975年に69歳で逝去。戦後昭和のパチンコ史を作ったレジェンドと言ってもいい。
 正村の出身地は岐阜県茜部村(今の岐阜市)で、茜正村の名は出身地と正村の名字から生まれた。
 原作者の牛次郎は、若い時からさまざまな職業を経験し、役物台を生み出した老舗パチンコ台メーカー・西陣がつくった楽団に所属したこともあった、という。その経験がストーリーづくりにも生かされているのだろう。

 時は移って昭和も遠くなった。マンガのクライマックス近くで、一心の師匠・桜十三の弟弟子で茜正村とも縁のある僧・盤石愚庵がこんな事を言った。
「パチンコというタネはゆたかにみのってはおらぬ! 芽は出たかもしれぬがコメにはなっておらぬ! あたたかいたのしみ……という名のコメのメシをパチンコをしにくるお客のひとりびとりまだ満足にあたえておらぬではないか! このままではパチンコという娯楽……やがて生命力をうしなおう……」
 パチンコ・パチスロ産業21世紀会がまとめた『遊技産業レポート2023』によれば、2021年のパチンコ店の売上規模は14.6兆円で、ピークだった2005年の34.9兆円に対しておよそ20兆円のマイナス。ホール数もピークだった1995年の1万8244軒に対し、8458軒と1万軒近いマイナス。参加人口もピークの1994年の2930万人に対して、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあって720万人。
 愚庵和尚の言葉が、杞憂であればいいのだが……。

電子書籍版第1巻99〜100P

 

 

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