マンガの中の定番キャラとして欠かせないのがメガネとデブ。昭和の昔から令和の今に至るまで、個性的な面々が物語を盛り上げてきた。どちらかというとイケてないキャラとして主人公の引き立て役になることが多いが、時には主役を張ることもある。
そんなメガネとデブたちの中でも特に印象に残るキャラをピックアップする連載。第35回は[メガネ編]、ビクトリア朝時代のイギリスを舞台にしたラブロマンス『エマ』(森薫/2002年~06年・番外編06年~08年)の主人公・エマにご登場いただこう。
新しい文化と古い慣習とが交錯する19世紀末のロンドン。元家庭教師ケリー・ストウナーの家を訪ねたかつての教え子ウィリアム・ジョーンズは、その家で働くメイドのエマに一目ぼれする。メガネをかけて無口で控えめながら美しく知的なエマは、街の男たちにも大人気で、毎日何通ものラブレターが届くほど。しかし、それらの誘いをすべて断っていることでも有名だった。
そんななか何とかエマの気を引きたいウィリアムは、彼女のメガネの度が合っていないのを知ると、「よかったら新しい眼鏡 プレゼントしましょうか!?」と申し出る。当時のメガネは高価だが、ウィリアムは爵位こそないものの上流階級としての地位を築いた商家の跡取り息子。メガネの1本や2本、余裕で買えるのだ【図35-1】。
ところがエマは、しばらく考えた末、「いいんです このままで」と断る。なぜならそのメガネは、自分を拾ってメイドの仕事はもちろん読み書きや礼儀作法まですべてを教えてくれたケリーにもらったものだったから。まだ少女の面影の残るエマが初めてメガネをかけて、空を飛ぶ鳥や遠くの景色がクリアに見えたときの静かな感動を描いた回想シーンからも、そのメガネへの思い入れが伝わってくる。
思惑が外れたウィリアムだったが、「じゃあ代わりに何か欲しいものは?」と二の矢を放つ。少し考え、遠慮がちに「レースのハンカチを1枚持てたらいいな と」と答えるエマ。そこで「ハンカチ? ハンカチですね!? わかりました100枚でも200枚でも!!」と張り切るウィリアムの姿は無邪気で微笑ましいが、もらった1枚のハンカチを愛おしそうになでながら「レースって夢だったんです 昔から」と言うエマに対し、「レースが?」と不思議そうな顔をする場面には、二人の生育環境のギャップが表れてもいる。
それでもウィリアムの大らかな飾らない人柄に、エマは惹かれていく。けれども、上流階級の跡取り息子とメイドの恋が一筋縄でいくわけがない。最大の難関はウィリアムの厳格な父、リチャード・ジョーンズだ。「英国はひとつだが中にはふたつの国が在るのだよ すなわち上流階級(ジェントリ)以上とそうでないもの このふたつは言葉は通じれども別の国だ」と断言し、ウィリアムを子爵家の三女エレノア・キャンベルと結婚させようとする。ウィリアムは何とかエマとの仲を認めさせようと説得を試みるが、取りつく島もない。
そうこうしているうちに、体調を崩して療養中だったケリーが亡くなり、居場所を失ったエマは生まれた村に帰ることになる。最後にウィリアムに会おうとするも行き違いで会えないまま列車に乗ったエマは、たまたま同席となったメイドのターシャの薦めにより、彼女が勤めるメルダース家のお屋敷で働き出す。そこからは、運命の再会あり、婚約破棄あり、劇的抱擁あり、拉致監禁あり……と、波瀾万丈。筋立てだけ見ればメロドラマなのに、どこか静謐で格調高い恋愛劇となっているのは、硬質な作画と抑制の利いた語り口によるものだろう。
エマが当時としては珍しいメガネ女子なのは、作者の趣味としか言いようがない。単行本1巻のあとがきマンガで「メイドで無口で美人でメガネで照れ屋という身もよじれんばかりに恥ずかしい設定ですが これがまた描くのが楽しいもんで困った事です」と述べ、さらに「メガネを外すシーンで1ページもあるんだけど…」と編集に言われて食い気味に「そこが大事なんです」と主張する。実際、メガネをかけたり外したりするシーンは、やたらコマ数を使ってみっちりと描かれており、フェティッシュな匂いを感じずにいられない。物語終盤、ヒビが入ってしまったメガネを買い替える場面でも、試着するエマを「これでもか!」というぐらい念入りに描いている【図35-2】。
かくのごとく問答無用のメガネ美人として描かれるエマだが、一方で「メガネを外すと、もっと美人」という描写もある。メルダース家で使用人たちのパーティが開かれたときには、飲み慣れないお酒を飲んだおかげで顔がほてってメガネを外す。普段のポーカーフェイスとは違い、頬を染め潤んだ瞳をしばたたかせる彼女の表情に、強面の使用人ハンスも思わず目を奪われるのだった【図35-3】。
メルダース夫妻のロンドン行きにお供した際には、ひょんなことから華美なドレスを着せられる。その着付け中にメルダース家の夫人ドロテアは「その眼鏡 あまりドレスって感じじゃないわね 外してみてくれる?」とメガネを外させた。メガネなしで髪もセットし直したエマを見て、ドロテアは「ちょっとこれは……なかなかじゃありません!?」「このままパーティーに連れて行っても 誰も気付きませんわよ きっと」と、その貴婦人然とした美貌に太鼓判を押す。
メガネっ娘好きからは「なぜメガネを外させるんだ!」という意見もあるだろう。が、ジェシカ・グラスコック(黒木章人訳)『[フォトグラフィー]メガネの歴史』(原書房/2022年)によれば、そもそもイブニングドレスにメガネはご法度だったとか。ローネット(手で持つタイプ)ならOKで、この場面でも「これが無いと全然見えないんですけど……」と言うエマに、ローネットとオペラグラス(双眼鏡)が用意されてはいた。しかし、それはあくまでも時代考証的なエクスキューズであり、ローネットやオペラグラスを使うのはさすがに絵面的に違和感がある。ストーリー展開上も、ここはメガネを外してよく見えない状態でなければならなかった。
とはいえ、アニメ化されたときにはオリジナルグッズとしてエマ仕様のメガネまで発売されたぐらいで、エマ=メガネのイメージは強い。番外編の最後に描かれた大団円「新しい時代」で、ウェディングドレスを着たエマはメガネをかけたままだった。時はすでに20世紀。まさに“新しい時代”が到来したのである。