三原和人『ワールド イズ ダンシング』(「モーニング」2021年~)5巻(講談社 22年8月刊)である。今年2022年、鎌倉幕府と北条氏がNHK大河になり、のちの北条早雲の青年時代、すなわち室町~戦国を描くゆうきまさみ『新九郎奔る!』(「ビッグコミックスピリッツ」2018年~連載中)など、時代物としてはあまり大衆人気のない時代が描かれる中で、『ワールド』は足利義満の時代、観阿弥の息子世阿弥の少年時代、彼が舞いに目覚める過程を描いている。主題としては大変興味深い。
が、5巻末に「次号完結」とあって驚いた。話の進展から、まだ続くと思っていたからだ。もともと能楽の成立という、大向こうにウケるはずのない主題だった。身体と動きと、それを能楽という表現へと昇華する困難さをマンガ化する試みは相当にハードルが高い。似たようなことは、バレエやダンス物、あるいは武術物などのジャンルでも試みられたし、不可能ではないとは思うが、そもそも能楽自体の敷居が高く親しみがない。
表現意識への沈潜は抽象的な内面性に傾き、5巻に至って舞いの動的な描写はなく、ほとんどただ突っ立っているだけの絵に、筆で歌が当てられた描写が続く。その向こうにある「何か」を妄想しながら読むと、たしかにドラマ性はあるのだが。
昔、世阿弥の書いた『風姿花伝』を読んでみたが、まったく分からなかった。能楽も何度か鑑賞したが、私には理解できない。その成立史には、歴史好きとしての興味はある。が、残念ながら一般的な人気にはつながりにくかろう。ようやく話が起こり始めたかと思われた5巻で「次巻完結」といわれると、そうか、届かなかったかと思わざるをえない。挑戦的な試みだっただけに残念である。けして下手な作家ではないが、マンガとして読者をつかむ立体化をしきれなかった印象がある。能の表現にケレンを嫌ったのかもしれない。
やや飛躍するが、絵になりにくい主題を描く、という意味では、呪術的な言葉の立ち上がりを立体化してみせたおかざき真理『阿・吽』(ビッグコミックスピリッツ他2014~21年)がある。おどろおどろしい形象で経文が呪文としてうねり、這い上がる。密教的なお経の視覚化は見事だった。これ以前に士郎正宗『ORION仙術超攻殻オリオン』(青心社 91年)で呪文が立ち上がる視覚化を試みており、おそらくそれを継承したものだろう。こうした劇的な視覚化で能楽を描くことに抵抗があったとしても、作品の初期には踊りの躍動感があったので、そこはもう少し冒険してもよかったのではないかと思う。まあ、そこんとことは作家の裁量なので、外部の人間の踏み込めない部分ではあるけど。
それはともかく、この巻を読んでかねてからぼんやりと考えていたことがしきりに頭を去来した。それは言語化の歴史的な役割についてである。私自身が時間だけは長く師について習い、今はコロナのおかげでやむなく自主練習している中国武術「馬貴八卦掌」について、一緒に練習している友人と私的にかわす会話が背景にある。その友人は中国宗教史の研究者で、様々な中国武術について言語化されたものをよく読んでいて、その話をしてくれる。
それを聞くにつけ、人びとがかつて共有した宗教的な身体技法や武術、舞いなど、今はすでに目にすることができない歴史的過去を、残された文字から辿って再現する試みの繰り返しについて、ある種の仮説を思い描かざるをえない。本書『ワールド』5巻の清水克行(この中世史研究者はじつは古い知り合いなのだが)による巻末コラム「生まれたばかりの能楽」によると、かつての能の橋掛かり(控えと舞台をつなぐ廊下)の位置が今とはまるで違っていたとか、江戸期以前までの能は今の倍の早さで演じられていたとかが、資料から推測できるという。しかし、観阿弥や世阿弥が実際にどう舞ったかを直接見たり聴いたりは、誰にもできない。
武術も同様で、無能な弟子なりに少しずつ身体運用法の内的感覚を知り、何とか再現しようと努めても、果たしてそれが師の通ってきた道筋に沿っているものかどうかすら、自分にはわからない。文章は、あくまでそれを現在の我々がどう解釈するかのきっかけであり、翻訳、翻案の時代ごとの繰り返し、試行錯誤に過ぎない。だが、その時それぞれの身体の課題を何とかこなしてみると、なるほどあの時言われた言葉はこのことを指していたのか、と天啓のように理解できたりすることが(ほんのたまあにでしかないが)ある。身体の運用の実態は、そのような「私的実感」というあやふやな領域の積み重ねで探求するより他にないのだ。ことに伝統武術の再現については、そもそも今信じられている近代的な身体像、運動感そのものをカッコにくくって、いったん疑ってかかる必要がある。
距離を置いていえば、時代社会の変化とともに身体もまた不変ではなく、「伝統的」などといわれる身体運用についても、時代を下るに従いどこかで忘れ去られ、変化してきているはずだ。とはいえ、変化に変化を重ねた理解や再現が「間違っている」と断言することも、また難しい。今や誰も直接経験できない以上、可能な幅の中で選択するより他にないからだ。
複数の真理が複数の伝達をなす現代社会に生きる我々は、ただ一つの伝統的真理があって、それを今も忠実に再現できるなどと素朴に信じることは、できない。なので、いつも半信半疑で、常に半分本気で半分遊びのように、信じるふりをしているに過ぎない。こと身体については、歴史的に伝承されたといわれることのほとんどは、そのようにしか存続しえないだろう。ただ言葉(文字)とは、時代を飛躍し、飛び越えうる。一時期色々なものを失ったとしても、それを何度も繰り返しながら、それでもある時代にあらためて具体的に現象化し、歴史をジャンプして架橋するものでもありうる。
言葉の可能と不可能の往来を繰り返すこと。考えてみればマンガを批評し論ずることにもやはりそんな側面はある。とくにマンガの歴史を再発見しようとするとき、同様に言語の可能と不可能の境界があらわれるからだ。そこには常に複数の真理や史実がある。