第6回 ウェブトゥーン発の韓国サラリーマンマンガ―ユン・テホ『未生 ミセン』

第6回 ウェブトゥーン発の韓国サラリーマンマンガ―ユン・テホ『未生 ミセン』

ここしばらく日韓の政治経済レベルでの関係悪化が報じられ予断を許さない状況が続いているが、その一方で、韓国文学の邦訳が盛り上がりを見せ、K-POPも何度目かのブームを迎えている。K-POPについては、とりわけBTS(防弾少年団)が韓国や日本のみならず、アメリカを始めとした欧米でも大人気だそうで、筆者を始め、今まで韓国文化に馴染みがなかった人たちにとっても、韓国文化に対する認識が変わりつつあるのではないだろうか。

それではマンガはどうだろう? 私たちは韓国のマンガについてどの程度のことを知っているのだろう?

正直に言ってしまえば、筆者はたいしたことを知らない。そもそも何に当たれば韓国のマンガのことを知ることができるのかもよくわかってなかったありさまで、最近になってようやく、今となってはずいぶん古い資料だが、『月刊韓国文化』2001年7月号の「韓国の漫画文化」特集や宣政佑「韓国マンガの歴史と現在」(『ユリイカ』2003年11月号「小特集:韓国マンガ文化の現在」)、さらにはずっと新しいウェブトゥーンについての記事をあれこれ読んで、ほうほうと勉強し始めた体たらくである。改めて調べてみると、案外いろんなものが翻訳されているとわかって驚くのは、海外マンガにはおなじみのことだ。

改めて言うまでもないことだが、韓国の文学や音楽、映画やドラマにいいものがあるのに、マンガにはないなんてことがあるはずがない。おそらくこれまで邦訳されてきたものの中にも、まだ邦訳されていないものの中にも面白い作品があるに違いない。

ということで、手始めに今回は筆者がこれまでに読んだ数少ない韓国マンガの中から、これはという作品としてユン・テホ『未生 ミセン』(全9巻、古川綾子、金承福訳、講談社、2016年)を取り上げてみたい。

ユン・テホ『未生 ミセン』(全9巻、古川綾子、金承福訳、講談社、2016年)

ユン・テホ未生 ミセン』は、もともと韓国で2012年1月から2013年8月まで約1年半にわたる連載を経て単行本化された作品。同作の日本語版ホームページによれば、原著の累計発行部数は200万部以上というから、なかなかのヒット作である。その後、2014年には韓国のtvNで『ミセン MISAENG』としてドラマ化され(こちらも韓国ケーブルTV視聴率歴代2位という人気ぶり)、2016年には日本のフジテレビで『HOPE〜期待ゼロの新入社員〜』として、舞台を日本に移したドラマにリメイクされた。これらのドラマを知っているという人もいるのではないかと思う。マンガ版は2016年に全9巻の単行本として邦訳され、翌2017年、第20回メディア芸術祭マンガ部門優秀賞に輝いている。

主人公のチャン・グレはもともと囲碁のプロ棋士を目指していた青年。父親が亡くなってからというもの家計が苦しくなり、プロ試験に落ちたことをきっかけに彼は棋士になる夢を諦め、就職する決心をする。

プロ棋士になる夢を諦めるチャン・グレ(『未生 ミセン』第1巻P026-027)

ひとまず高卒認定を取得した彼は、囲碁の師範の友人で彼の後見人となってくれた会社社長の企業で働くが、長続きせずに逃げるように兵役に就く。やがて兵役を終えたチャン・グレは、再び後見人のつてでワン・インターナショナルという韓国有数の総合商社のインターンになるチャンスを得る。

チャン・グレはインターンとしてワン・インターナショナルで働くことになる(『未生 ミセン』第1巻P090-091)

タイトルにもなっている「未生(みせん)」とは、韓国の囲碁用語で「まだ生き死にの決まっていない弱石」(『未生 ミセン』第3巻P229)のこと。本作『未生 ミセン』は、世間知らずで学歴もなければ資格もない、それこそ「未生」のような青年チャン・グレが、かつて囲碁でつちかった観察眼と勝負勘、そして何よりもひたむきな努力をたよりに、総合商社ワン・インターナショナルという新たな碁盤でおのれの囲碁をまっとうしようとする姿を描いた作品である。

インターン期間の最後に設けられたプレゼン試験に合格し、晴れて社員として出社するチャン・グレと同期の仲間たち(『未生 ミセン』第2巻P274-275)

全9巻の物語は、チャン・グレの2カ月にわたるインターン時代を描いた第1~2巻と、彼の2年間におよぶ契約社員時代を描いた第3~9巻に大きくわけることができる。もちろんそれぞれのパートで大小さまざまな事件が起き、一見地味な商社マンの日常に彩りを添えていることは言うまでもない。主人公はあくまでチャン・グレだが、彼が配属される営業3チームのオ課長やキム代理、同期のアン・ヨンイ、チャン・ベッキ、ハン・ソギュルといった登場人物たちにもたっぷりと照明が当てられていて、韓国の総合商社を舞台にした群像劇といった趣になっている。

ヒロイン、アン・ヨンイと父親との関係を描いたエピソード(『未生 ミセン』第7巻P256-257)

いわゆるサラリーマンガと言っていいかと思うが、高学歴が要求されるであろう総合商社で働く人材としては主人公が極めて異質な存在(元プロ棋士志望、高卒認定取得者)ということもあってか、書類の整理の仕方や報告書の書き方、プロジェクトの立ち上げ方…といった仕事の細部がごく基礎的な部分から丹念に描かれているのが印象的である。あいにく筆者は日本のサラリーマンマンガをそれほど多く読んではいないのだが、それらと比較してみたら、さぞ面白かろう。そして日本のサラリーマンマンガの傑作と並べても遜色のない作品なのではないかと思う。

苦手な報告書作成に奮闘するチャン・グレ(『未生 ミセン』第4巻P140-141)

作者がインタビューで語っていることだが、『未生 ミセン』には1997年末のIMF危機が色濃く影を落としている。本作はその時代(今なお変わらない部分もあるのかもしれないが…)の韓国社会の証言としても一定の説得力を有しているのではないかと思う。しばしば勤勉だと評価される私たち日本人から見ても唖然とするような韓国のサラリーマンたちの猛烈な働きぶり、仕事の名のもとに強制される理不尽な人間関係、女性の就労につきまとう困難、正規の職を得られないことに対する不安……。いい点も悪い点も含め、彼我の類似と相違がめちゃくちゃ面白い。

昇進を機に夫から退職し家事に専念するよう迫られ激昂するソン次長(『未生 ミセン』第8巻P100-101)

全9巻と海外マンガとしてはなかなか読みごたえがあるが、読み始めたらすっかり引き込まれ、思わず目頭が熱くなる傑作なので、ぜひ読んでみていただきたい。

2年任期の契約社員であるチャン・グレはワン・インターナショナルの正社員になることができるのか?(『未生 ミセン』第6巻P180-181)

形式面についても多少補足をしておこう。

上述したように、『未生 ミセン』は「連載を経て単行本化された作品」である。紙のマンガになじみが深いと、ついつい紙の雑誌で連載→紙の単行本という流れを連想してしまうわけだが、実はこの作品は韓国の紙の雑誌に連載されたわけではない。『未生 ミセン』は紙の雑誌ではなく、「Daum Webtoon(ダウム・ウェブトゥーン)」という韓国のウェブマンガ(デジタルコミック)のプラットフォーム上で連載されたのだ。

日本でもウェブマンガが紙の単行本になるケースはもうずいぶん前からあり、ここ数年増える一方である。ウェブマンガと一口に言ってもいろいろあるが、Daum Webtoonという掲載先の名称からも明らかなように『未生 ミセン』はいわゆる「ウェブトゥーン」。日本でも最近、LINEマンガピッコマcomicoといった韓国系のマンガアプリで知られるようになってきている。

もはや説明は不要かもしれないが、「ウェブトゥーン」というのは、韓国で独自の発展を遂げた縦スクロールで読むウェブマンガのこと。

縦スクロールマンガについては、この「マンバ通信」にも記事があるので、ぜひ併せて読んでいただきたい。

伊藤ガビン「いま縦スクロールマンガを読むことは時代の生き証人になることだ」

泉信行「縦スクロールコミックの表現に見る「分断」と「統合」」

歴史的な経緯も含めて、韓国のウェブトゥーンについてもう少し詳しく知りたければ、今年の頭にTBSラジオ「アフター6ジャンクション」で行われた特集がわかりやすいので、ぜひ聴いてみてほしい。

スマホで読む前提のWebトゥーンが活況。紙のマンガとの違いとは?【オススメ作品リスト有】

もっと詳しく知りたい人には、飯田一史『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?―マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』(星海社新書、2018年)の「補章 韓国デジタルコミック事業者の動向と影響」をおすすめしたい。ちなみに本書はマンガアプリを通して今日本のマンガが置かれている状況を概観した本で、普段紙のマンガしか読まない人には目から鱗が落ちまくること請け合いの刺激的な好著。

アカデミックなアプローチとしては、少し前のものだが、パク・スイン「韓国のウェブトゥーン」(『国際マンガ研究3 日韓漫画研究』京都精華大学国際マンガ研究センター、2013年)という論文をオンラインで読むことができる。

ついでながら、日本のウェブマンガについては、大坪ケムタ『少年ジャンプが1000円になる日―出版不況とWeb漫画の台頭』(コア新書、2018年)も参考になる。

未生 ミセン』に関して若干ややこしいのは、この作品が、韓国ではまずウェブトゥーンとして連載され、その後、紙の単行本になったのに対し、日本ではまず紙の単行本が邦訳され、その後、ウェブトゥーン版もリリースされたという点。『未生 ミセン』邦訳ウェブトゥーン版は、マンガアプリ「ピッコマ」で読むことができるのだが、ピッコマのサービスが始まったのが、『未生 ミセン』の邦訳単行本が出版されたのと同じ2016年。そういった事情があって、紙とウェブトゥーンが前後してしまったというわけだ。『未生 ミセン』以外にも韓国のウェブトゥーン作品が日本で単行本化したケースは多々あるが、ほとんどの場合、まずウェブトゥーンが邦訳され、続いてそれが単行本化しているのではないかと思う。

筆者は『未生 ミセン』を紙の単行本で読み、十分堪能したわけだが、興味深いのは、ウェブトゥーンで読むのと紙の単行本で読むのが、もはやまるで異なる別々の読書体験になっているということである。この作品をウェブトゥーンで通して読んだわけではないが、いくつかの箇所については、ウェブトゥーンで読んだほうが効果的なのではないかと感じられた。

逆にもともと縦スクロールで読むように作られたウェブトゥーンを見開きのあるページに落とし込む作業は、これはこれで熟練の技を要するたいへんな仕事だと思う。この辺りのことについては、上述の伊藤ガビンさんの文章を参考にされたい。

参考までにあるシーンをウェブトゥーンのレイアウトと該当する見開きページで並べてみよう。ウェブトゥーンのほうは便宜上縦長の画像になっているが、実際にはスマホなどのスクリーンのサイズに応じてこの一部が見え、読者の側でスクロールしていくことになる。

(ウェブトゥーン版『未生 ミセン』第8手)
同じ個所の単行本版。見開きページにレイアウトするに当たって、コマが絶妙に並び替えられ、フキダシ位置の調整が行われ、訳文まで変わっていることがわかる。訳文についてはおそらく単行本→ウェブトゥーンの順で修正(『未生 ミセン』第1巻P154-155)

筆者はまだどうしても紙のマンガに執着してしまっているが、ウェブトゥーンは非常に興味深い。作品が増えていく一方で、ぜひ研究のほうも進んでほしいものである。

さて、邦訳版全9巻で完結した『未生 ミセン』だが、作者がインタビューの後編で触れているように、実は韓国では続編の『未生 ミセン』シーズン2が発表されている。韓国語が読めないのではっきりわからないのだが、2015年11月から始まり、2018年5月の第94話まで公開されているようだ。ここで一段落ということだろうか。単行本も第13巻まで続刊が出ているらしい。残念ながらこのシーズン2については、今のところウェブトゥーン版も単行本版も日本語では読むことができない。第9巻まで見届けた身としては、ぜひチャン・グレやオ課長の奮闘の続きをいずれ日本語で読んでみたいものである。

なお、『未生 ミセン』邦訳ウェブトゥーン版が掲載されているピッコマでは、『未生 ミセン』以外にもいろいろなDaum Webtoon作品を邦訳で読むことができる。これらの中にも思わぬ傑作があるかもしれない。

ピッコマで読めるDaum Webtoon作品一覧

DAUM WEBTOON|無料でマンガを読むなら、ピッコマ

アニメ・ドラマ化の名作コミックからオリジナル連載マンガまで毎日楽しめる「ピッコマ」DAUM WEBTOON一覧。豊富ラインナップを多数待てば無料で配信中!毎日更新!

Daum Webtoonだけではない。ピッコマの中にはkakaopage(カカオページ)のウェブトゥーンもあるし、ピッコマ以外では、LINEマンガcomicoレジンコミックスTOPTOONでも、韓国のウェブトゥーンを読むことができる。厄介なのは、韓国のウェブトゥーンと日本人作家によるウェブトゥーンの見分けが必ずしも簡単にできるわけではないという点だろうか。公式のリストがあるわけでもなく、全部でいくつあるのか定かではないが、それでも韓国語から邦訳されているタイトルは100どころではないだろう。それらの中からは、紙の単行本やKindleの電子書籍として出版されるものも次々と出てきている。T.Jun外見至上主義』のようにかなり注目を集めている作品も既にあるようだ。

はたして韓国マンガは、ウェブトゥーンを通じてかつてないほど日本で存在感を発揮するようになるのか、要注目である。

 

未生 ミセンのマンガ情報・クチコミ

未生 ミセン/ユン・テホのマンガ情報・クチコミはマンバでチェック!9巻まで発売中。 (講談社)

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