近現代の中国史で重要な事柄の一つに、1934〜36年にかけて、紅軍(中国共産党)が国民党軍と交戦しながらの1万2500kmに及ぶ逃避行を続けた「長征」があります。この過程で紅軍における毛沢東の指導権が確立されており、現在の中国共産党政府につながる歴史の転換点といってよいでしょう。今回紹介する横山光輝『長征』は、タイトル通りその長征を描いた作品です。73年の『ビッグコミックオリジナル』で連載され、長く未単行本化でしたが、04年に講談社漫画文庫から初めて単行本が出されました(この頃の講談社漫画文庫は未単行本化作品も含めた横山作品を多くリリースしています。巻末解説の出来も概して良いので気になったら買いです)。参考資料として、岡本隆三『長征』(1963年に最初の本が出たのち、70年に新資料を加えて再編されたもの)が挙げられています。
……と、ここまでの説明では、どうにも食指が動かないというか、敬遠してしまう人もいるかもしれません。何しろ毛沢東という人、大躍進政策と文化大革命という2つの大やらかしをして多くの人を死なせたことが現代では広く知られており、彼を英雄視するようなのはどうも……と思われる方も多いことでしょう。しかしそこはあまり気にしなくても大丈夫です。本作の視点人物は黄良成という一兵卒(これは『憶長征』という長征の思い出本を執筆した同名の実在人物がおり、それをモデルにしたものと思われます。「憶長征」は岡本本の参考文献の一つとなっているほか、「長征追憶」の題で日本語訳が『中国現代文学選集』17巻(平凡社、63年)に収録されています)であり、毛沢東、周恩来といったような人物は指導者として登場しますが、過度に英雄視されてはおらず、思想的なメッセージはあまり感じさせません(もっとも、毛のライバルだった張国燾はすごい悪辣な人物として描かれてますが。まあこの人は後に共産党から抜けたこともあって「長征追憶」でもめっちゃディスられています)。この辺、作者が実際どのような思想を持っていたのかははっきりとはしませんが、当時の日本では今ほど文革に対する評価が確定しておらず(何しろ国交が正常化していないこともあって情報限られてましたしね)、支持派も結構いるという状況だったとはいえ、ジャーナリストの大宅壮一などは渡中してその実態を見、帰国後に批判的なレポートを書いていましたし、川端康成や安部公房といった作家が連名で文革批判を出していたりもしたので、そのあたりきちんと情報を得ていたのかもしれません。
しかし、こう書くと、「思想的なメッセージがあんまないなら、本作は何を描いているの?」と思う方もいることでしょう。本作が描いているのは、「長征、めっちゃつらい旅だった」であり、もっと言えば「雲南省も割と魔境だったけど、特に四川省がマジでつらかった」です。何しろ、上下巻構成の単行本の下巻はほぼまるまる四川省編です。かつて劉玄徳が蜀漢を立ち上げたことでも知られる四川、これいがいかに恐るべき土地であったか、見てみましょう。
本作下巻で、良成たち紅軍は、大雪山と呼ばれる高山地帯のうちの夾金山という山を越えることになります。これは四川省の省都にして蜀漢の中心であった成都の西部にあり、主峰は4000mを超えるというところ。西洋人が初めてジャイアントパンダを発見した場所としても知られており、現在はパンダ保護区として世界遺産にも指定されています。良成たちは、山越えの準備として麓の村人から聞き取り調査を行いますが、得られた情報は神様だとか仙人だとかそんな伝説の話ばかり。
しかし、この伝説は恐るべき四川省の真実を表していたのです。
まず、「座ってはいけない」という掟を破った人たちは……
死にます!
続いて、ものすごい弾丸ライナーで雹が襲ってくるので、うまく身を守らないと……
死にます!
みなを元気づけるために宣伝隊が「がんばれ!」と叫ぶと……
死にます!
また、座ると死ぬと書きましたが、立っていても……
死にます!
さらに、山を越えても四川は牙を剥き続けます。紅軍はこの後、国民党軍の裏をかくために、松潘草地という危険地帯をあえて踏破するという選択をするのですが、ここは「もしこの世に地獄というものがあるとすれば、それはこの大湿地帯かも知れない」とナレーションで語られるような場所で、いたるところに底なし沼があり、そして水を飲むと……
死にます!
こんななので、なんとかここを通過した良成たちは、地面に石ころがあることに感動して泣きます。
OH! テリブル四川! ちなみにこのへん、「長征追憶」では”歌や話は酸素を消耗するから山に登れなくなる”としか書かれてないですし、岡本本でも記述は”「がんばれ」と叫びつづける宣伝兵は、まるで内臓を引きずり出されているような苦痛にさらされた”であって、別に死んだとは書かれてないので、実は横山先生、涼しい顔してめちゃめちゃ話盛ってます。最高ですね。
四川省の話が一番書きたかったんだろうなというのには、傍証もあります。実は本作、連載の1年前、72年5月に『週刊言論』で発表された短編版も存在するんですが、
こちらでは物語は四川の厳しい山越えの時点からスタートし、雲南省などのことを主人公が回想する……という形で話が進んでいくんです。雪山踏破シーンを「長征」という物語のサビだと見ていたことの証ではないでしょうか。この短編版は、以前『9で割れ!!』の記事でおまけに紹介した「まんが浪人」が収録されている単行本『横山光輝超絶レアコレクション』に収録されております。同書、「長征」や「まんが浪人」以外にも、梶原一騎原作(!)による、東芝のラジカセ「ICアクタス」とのタイアップ漫画「城と太陽と名探偵」や、太宰治「走れメロス」のコミカライズといった珍品も入ってるので読んでみる価値はありますよ。
また、「四川省の大湿地帯」とそこの底なし沼を乗り切る方法(天秤棒をクロスさせてその上に乗る)については、本作の前に『ビッグコミックオリジナル』で連載された『ウイグル無頼』でも使われています。
というわけで、連載から30年くらい単行本化されていなかったことや、テーマの問題から、横山作品の中ではけして有名とは言えない本作ですが、他の横山歴史作品にはない面白さも持っているんだぜという紹介でした。大人向け作品も描くようになる移行期だったことからか、「手榴弾が不発で、銃弾の嵐の中を逃げ惑う」みたいなマンガチックなシーンがあったりして、そういう漫画表現的な部分に着目してみても面白い(『三国志』なんかも、序盤はビックリした武将の兜が飛び上がったりとかマンガチックな表現が結構あるんですが、後半はそういうのがなくなります)ところです。