マンガの中のメガネとデブ【第1回】倉橋永二(あだち充『ナイン』)

『ナイン』

 マンガの中の定番キャラとして欠かせないのがメガネとデブ。昭和の昔から令和の今に至るまで、個性的な面々が物語を盛り上げてきた。どちらかというとイケてないキャラとして主人公の引き立て役になることが多いが、時には主役を張ることもある。

 そんなメガネとデブたちの中でも特に印象に残るキャラをピックアップする連載。記念すべき第1回は[メガネ編]、取り上げるキャラは倉橋永二である。

 え、「誰それ」って? 知らない? 倉橋ですよ、倉橋。青春マンガの巨匠・あだち充の初期の名作『ナイン』(1978年~80年)に登場する青秀高校野球部のエースですよ。

 といっても、主人公ではない。主人公は、中学陸上短距離の記録保持者・新見克也。あだち充作品の主人公らしく、お調子者だが根は優しくてハートは熱い。一方の倉橋は、全国中学野球大会の優勝投手でクールな性格。成績もトップクラスの文武両道というキャラクターをメガネが象徴しているわけだ。そこに柔道県大会個人優勝の巨漢・唐沢進を加えた3人が、県下有数の進学校・青秀高校の弱小野球部に入部するところから物語は始まる。

 どれだけ弱小かというと、そこまで28連敗中で夏までに1勝しなければ監督がクビになるという体たらく。その監督の娘・中尾百合にひと目ぼれしたのが新見と唐沢の入部動機だ。ところが、監督にとって一番の希望の星・倉橋は、当初入部を拒否する。父親との約束で野球は中学まででやめ、高校では勉強一筋で一流大学をめざす、というのが理由である。

 しかし、倉橋も本心では野球をやりたい。その気持ちをむりやり押し殺そうとするストレスから、彼がとった行動がとんでもなかった。

 なんと、下着泥棒をやらかすのだ!

 野球マンガのキャラとしてあるまじき所業だが、彼の犯行はそれだけではない。入学前の春休みには電車内で痴漢行為にも手を染めていた。恐る恐る触った相手の女の子ににらまれてすごすごと引き下がる……というのが初登場シーン。第一印象としては最悪である。その女の子がのちにクラスメイトになる百合で、彼女のほうは何もなかったような態度をとるのは都合よすぎというか、令和の基準で見ると性犯罪軽視にも映るが、とにかくその時点では完全に根暗な変態メガネくんだった【図1-1】。

【図1-1】電車内で痴漢行為に及ぶ倉橋の初登場シーン。あだち充『ナイン』(小学館)1巻p8より

 それでも、結果的には下着泥棒の現場を目撃した新見に取り押さえられたことがきっかけで、父親(実は甲子園の優勝投手だったが肩を壊してプロには行けず社会に出て苦労を重ねたため息子に野球を続けさせたくなかった)の呪縛も解け、晴れて野球部に入部。全国大会優勝投手の実力を遺憾なく発揮した倉橋は、エースで四番としてチームを引っ張る。痴漢や下着泥棒をしていたときの表情とマウンドに立つ精悍な表情とでは、同じメガネくんでもまるで別人のよう。その絶妙な描き分けは、さすがあだち充である。

 初登場から入部までのインパクトが強すぎて、その後はいささか地味に感じてしまう倉橋だが、投打の主軸としての活躍はハンパない。地区予選2回戦で当たった甲子園の準優勝チームを相手に一歩も引かない好投。2年時には準決勝で同チームと当たり、1失点完投のうえサヨナラツーランを放つ(が、死球の影響で決勝では敗れる)。野球以外でも、本当は自分も百合を好きなのに煮え切らない新見の背中を押すなど、クレバーなスタイルでナイスプレーを連発する。おまけに、昭和のマンガの“あるある“ネタ「メガネを外すと美人」の男版で「メガネをはずすとけっこういい男」という描写もある【図1-2】。

【図1-2】まさに文武両道の倉橋は「メガネをはずすとけっこういい男」でもある。あだち充『ナイン』(小学館)2巻p56より

 そもそも野球マンガでメガネキャラがエースで四番というのは珍しいし、エースで四番なのに脇役というのも珍しい。逆に言えば主人公が一番・センターというのも珍しいし、強肩・強打(ホームランか三振かタイプ)の能天気なデブキャラ・唐沢がキャッチャーではなくライトというのも珍しい。そうしたキャラクターの配置も含め、『ナイン』は高校野球を題材にしたマンガとしては、ある意味異色の作品なのだ。

 何が異色かといえば、「甲子園至上主義ではない」というところ。あだち充は本作終了から約1年後に『タッチ』の連載を開始する。『タッチ』も野球マンガとしてはいろんな意味で異色ではあったが、主人公・上杉達也にとって「南を甲子園に連れていくこと」が至上命題だった。それに比べて『ナイン』の野球部は「1勝」が当面の目標であり、甲子園など夢のまた夢の世界である。

 ところが、倉橋という全国トップレベルの投手(あまりそうは見えないが)を得たことにより、事情は一変。前述のとおり、2年時には地区予選決勝進出。3年時にも、何だかんだで決勝進出。その快進撃の一因が、負けてもテニス部の女子たちとの夏休み旅行が待っているがゆえの心理的余裕というんだから、体育会系的根性論の対極だ【図1-3】。

【図1-3】「負けたら女子と海水浴」と気楽なナイン。あだち充名物「ムフ!」も登場。あだち充『ナイン』(小学館)4巻p162より

 最後は相手エラーによる逆転サヨナラ勝ちでタナボタの甲子園初出場を決める。その晴れ舞台の初戦をわずか1ページで済ませるのがまた珍しい、というかすごい。さらに、2回戦の相手が優勝候補ということで負ける気満々の青秀ナインは特訓などせず、近所の盆踊り大会に出かけたりして、新見と百合は初キスまで交わす。それを目撃した相手チームの主砲は雑念だらけでミスを連発(お気の毒……)。番狂わせの勝利で勢いづいた青秀はあれよあれよという間にベスト8入りを果たすのだった。

 そして準々決勝では、96イニングス無失点の怪物投手相手に新見の足で1点をもぎ取り、絶好調の倉橋はノーヒットノーランまであと一人。その試合結果がどうなったかは実際に読んで確かめていただきたいが、普通の高校野球マンガなら何十ページ、何百ページもかけて熱く描くはずの甲子園大会を、本作は実にあっさりと済ませてしまうのだ。

 そういえば『タッチ』でも、紆余曲折の末ようやくたどり着いた甲子園の試合を、あだち充は1コマも描かなかった。その点から見れば『ナイン』は『タッチ』の原型とも言える作品であり、スーパースターではなく等身大の青春を描いた好編である。

 そのなかで、スーパースターになりうるポテンシャルを秘めながら脇役に徹した倉橋永二の存在は大きい。クールな文武両道メガネキャラとしては、木暮公延(井上雄彦『スラムダンク』)に優るとも劣らない名バイプレーヤーだった。

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