望月ミネタロウとニューウェーブ ジャンルについて(4)【夏目房之介のマンガ与太話 その25】

望月ミネタロウとニューウェーブ ジャンルについて(4)【夏目房之介のマンガ与太話 その25】

文芸別冊特集「望月ミネタロウ」表紙 2023年11月。
大友克洋、望月ミネタロウ対談扉。右頁は望月『ズベルバー』(2010年)の最後の頁。

 文芸別冊「望月ミネタロウ」特集に掲載されたいしかわじゅん「ニューウェーブの後の人」は、時期的には遅れて登場した望月を、いわゆる「ニューウェーブ」の流れの影響下に出て来た作家ととらえ、〈ニューウェーブを経てきているなという感触があった。〉という。〈それまで男性向け漫画誌は、少年誌ともっとずっと上の年齢層を狙った成年誌と、その2種類しかほぼ存在していなかった〉が、〈若い読者たちはとっくに漫画の可能性に気づいていて、少年誌でもビッグコミックでもない新しい漫画を求めていた。〉とある。これは同世代の元「マンガ青年」だった私も共感するし、いしかわ世代の素直な記憶だろう。
 望月は一般に「ニューウェーブ」にくくられる作家ではない。が、彼の作品には、たしかに「ニューウェーブ」という言葉から連想される「マンガの可能性」や革新への志向がある。ただ「マンガの可能性」とは何だったかは、うまく説明できなかったりする。しようとすると、長いばかりで要領を得ない昔話になりがちなのだ。
 そもそも「ニューウェーブ」は、「マンガ青年」という、戦後世代受容集団の「妄想」が選んだ言葉で、誰も明確な基準など持っていなかった。「可能性」の妄想が多く混ざり込み、具体的な定義すら定着しなかった。マンガの「可能性」とはなかば妄想で、だから「ニューウェーブ」という言葉の空疎な表層性も、どこかで意識されていたのではないかと、私には思えてならない。
 じつは、若い研究者や学生にとって、「ニューウェーブ」という現象がよくわからないようで(そりゃそうだわな)、くりかえし質問を受けてきた。当の元マンガ青年にとっては、自分たちの妄想を反映させた仮の言葉に過ぎず、それほど言葉を重要視したわけではない。が、大友克洋吾妻ひでお高野文子など、「別冊奇想天外」などで登場してきた作家群、明らかに既存の枠組みから逸脱する彼らへの集合的な名づけが必要だとはみんな思っていたのだ。

「まんがPeke」1979年2月号 みのり書房 「21世紀へ飛躍するニューウェーブ・エンターティメント」のあおりが。
「コミックアゲイン」1979年11月号 みのり書房 「ニュー・ウェーヴ ビッグ4登場とのあおりで、大友克洋、ひさうちみちお、宮西計三、高橋葉介の名が。

 たまたまあるマイナー誌の編集者(中原研一=大山金太)が「COMよ再び」的なマンガ誌(みのり書房の「Peke」「コミックアゲイン」1978~85年)を出し、そこで使い続けたこともあって、何となく選ばれた感じではなかったかと思う。ただ、いざこの経緯や「ニューウェーブ」の実態を説明しようとすると、あれやこれや夾雑物のような記憶が無限に芋づるのように手繰り寄せられ、全然まとまらず、うまく説明できなかったりする。
ところで今回の文藝別冊望月特集の中で、もう一人望月を「ニューウェーブ」の流れの中で理解しようとした書き手がいる。小田切博「転換点としての『東京怪童』」である。彼のニューウェーブ解説は、知る限りもっとも明晰で正確ではないかと思う。小田切は1968年生まれで、元「マンガ青年」層より10歳以上若い。
 〈[ニューウェーブとは]特に60年代から80年代にかけて映画、音楽、SFなど大衆文化におけるさまざまな分野で使われたが、日本マンガにおけるそれは70年代末から80年代にかけて登場した大友克洋高野文子岡崎京子いしいひさいちなど、既存のジャンルや媒体の枠組みにとらわれない「新しい」作風の作家たちを指す言葉だった。〉
 小田切は、まず「ニューウェーブ」が他メディア、他ジャンルで同時期に使用された言葉でもあることを示し、相対化している。また、この流れがむしろ受容層側から作られたムーブメントで、必然的に曖昧な概念となったと、重要な指摘をする。
 〈これは主にマンガ批評家やマニアックな読者から広まっていった呼称であり、映画におけるヌーヴェルバーグやSFにおけるニューウェーブのような一群のクリエイターたちによる創作レベルでのムーブメントではなく、受け手側が同時代的な作家、作品としてそれらを支持することで「結果的に」成立した概念である。/そのため、そこには明確な定義が存在していたわけではなく、論者たちがニューウェーブと見做す作家や作品の範囲が明確だったともいえない。〉
だが〈同時代の読者たちがそこに共通するなんらかの「新しさ」を見出したことはたしかであり、[略]望月峯太郎/ミネタロウという作家も意識してその『新しさ』を自作に取り入れようとした創作者であるということはできるように思う。〉として、望月を「ニューウェーブ」の流れと接続する。その上で、以下のような「ニューウェーブの定義」を提出する。
〈このような意味で、日本マンガにおける「ニューウェーブ」を一種のアートムーブメントとして捉え直したとき、じつはそこに一定の傾向を見出すことは可能だ。/それは定型的な物語、ジャンルに対するメタ的な相対化の意識であり、ストレートにそのような「型」を踏襲して語ることへの含羞である。[略]/ひとことでいうならそれは「物語」への回帰である。〉
 これはとても重要な指摘だと思う。
〈つまり、望月を含む「ニューウェーブ」作家たちの物語への接近は、彼らがかつての含羞を捨て、「型」と正面から向き合うことで、古楽器を用いて新しいメロディを奏でようとする動きだったといえるのではないか。〉
これほど見事な「ニューウェーブ」の解説と定義をこれまで私は見たことがない。もう一つ、この検証を行うにあたって小田切が持ち出した他ジャンルの現象や概念、作家の多様さにも注目したい。
〈ロウブロウアーティスト〉〈グラフィックノベル〉〈ゴシックロマン〉〈ゴシックホラー〉〈日野日出志の怪奇マンガ〉〈チャールズ・アダムスのカートゥーン〉〈ティムバートン〉〈ジョン・J・ミュースの絵本〉〈ヌーヴェルバーグ〉〈ヴィシニウス・ヂ・モラエス〉など。
正直私にはまったく分からない言葉も多い。
しかし、ここにはマンガという概念のまわりに接している他ジャンル、他メディアの、いいかえると存在を成り立たせる時代や世界との相互関係、交通への文脈的な理解の必然性が示されている。それはまた今後のマンガ研究の方向性の示唆でもあろうかと思う。
また小田切の定義を前提に「ニューウェーブ」をあらためてジャンルとして考えると、そもそもジャンル的な定型を相対化し、換骨奪胎して再度物語に回帰しようとした「ジャンルたらざるジャンル」のような存在だったことになる。この観点からさらにその時代性を考える必要もありそうだ。

 

記事へのコメント

ニューウェーブの定義について今ひとつわかってなかったけど、記事のおかげでやっと少し理解出来た気がする。作家側のムーブメントではなく、当時の読者側の概念だったのか。

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