ビフォアー編では、正チャンが登場するまでの漫画業界について紹介しました。アフター編では、登場以後の変化については紹介します。
正チャンの登場が与えた大きな影響は次の3つだと言えます。
・日刊連載の新聞4コマ漫画の誕生
・一目でわかる特徴をもったキャラクターの登場
・多メディア展開のはじまり
そして、これらの要素が戦前期にどのように発展して、戦後の漫画文化へと繋がっていくのかを戦前期の漫画史の流れと併せて紹介しましょう。
日刊連載の新聞4コマ漫画の誕生と定着
日刊連載の新聞4コマ漫画は、欧米の新聞では1910年代に始まっており、正チャンもこれを真似たものでした。当時の日本では、新聞に掲載される漫画は、週一回の漫画欄や読者投稿のものを除けば、散発的に掲載されることが主で、連載だとしても1週間程度の集中掲載でしたので、何のノウハウも無かった日刊連載を行うのは、かなり挑戦的な試みであったと言えるでしょう。
いずれにせよ、大正12年1月の『日刊アサヒグラフ』創刊と共に始まった「正チャン」の連載は成功を収め、次いで4月からは本場米国の新聞漫画『親爺教育(原題:Bringing Up Father)』の連載も始まり、日刊連載4コマ漫画は徐々に日本の読者にも浸透していきました。
同年9月1日の関東大震災により、「日刊アサヒグラフ」が廃刊になると、2作品は朝日新聞本誌に連載が移され、震災後の部数拡大と共に広く知られるようになります。
他紙でも第二の正チャンを狙って日刊連載の4コマ漫画が多数登場し、巌谷小波原作(作画、岡本帰一)の『木兎小僧一代記』(『大阪毎日新聞』連載)、野村胡堂原作(作画、太田雅光)の『タロウノタビ』(『報知新聞』連載)など、児童文学者を原作に据えた作品も作られています。
そうした中で正チャンと二分する人気を獲得したのは、『報知新聞』に連載された麻生豊の「ノンキナトウサン」でした。「親爺教育」に影響を受けて始まったこの作品は、子供向けのファンタジー色が強かった正チャンに比べ、市井の小市民を主人公にしており、全年齢が楽しめる作品として、庶民の生活を描く現在の新聞4コマ漫画の基本形となります。
昭和に入ると横山隆一の「フクチャン」など、長期連載で新聞の顔となるような作品も登場し、日刊連載の4コマ漫画は完全に新聞に定着します。現在でも新聞に欠かせないコンテンツとなっているのは、皆さんもご存知でしょう。
一目で判る特徴を持ったキャラクターの登場
正チャンの大ヒットは様々なキャラクターグッズを生み出しました。といっても、まだ著作権の意識が薄かった時代、グッズの多くは勝手に作られていたものだったようですが・・・。こうしたグッズの氾濫には正チャンのデザインが大きく関係しています。
正チャン帽を被ってリスを連れていれば、あまり絵柄が似て居なくても正チャンだと認識できるため、グッズが作り易かったのです。二人の作者がどこまで意図していたのかは、わかりませんが、こうした一目でわかる特徴を持ったキャラクター性があったことは、正チャンがヒットした要因のひとつでもあるでしょう。そして、その後に登場する漫画でもヒットの要素となっていくのです。
現在でも名前が残る「正チャン帽」は、そうした当時のブームの凄さを伺わせます。頭頂部にボンボンの付いた帽子自体は、正チャンの連載以前から存在していたものでしたが、100年経った現在でも検索すれば出てくるほどに「正チャン帽」という名前は定着しています。また、毛糸の帽子なので家庭で編めて親が子供に与えることが容易な、自作できるキャラクターグッズだったことも、その浸透を助けたと考えられます。
正チャン帽以外にも、当時、お菓子や玩具、布地など様々な正チャン入りのグッズが作られたようですが、特に流行ったのが赤本(あかほん)です。赤本とは通常の書籍流通とは別に、露店や駄菓子屋などで流通していた安価な絵本などの総称で、メンコなどの紙製玩具の一種として、子供の喜ぶものを取り入れて商品が作られていました。子供に大人気だった正チャンは格好の題材となり、数多くの赤本が作られています。当初はそれ以前に流行っていた豆本絵本の形式の物が多かったのですが、やがてオリジナルの単行本に似せた判型やコマ割り漫画形式のものが登場するようになります。漫画が好まれることがわかってくると、版元は漫画の制作に注力するようになり、昭和に入ると漫画は赤本の主力コンテンツへと成長していきました。
昭和6(1931)年に田河水泡「のらくろ」が登場し大人気となると、赤本でものらくろを模倣したものが大量に作られますが、正チャンを模した数ページだった漫画絵本から、のらくろの単行本のフォーマットを真似した100頁を超える描き下ろしハードカバーの漫画単行本が登場し、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など模倣に留まらないヒットシリーズが生まれました。
戦後、手塚治虫と酒井七馬による『新宝島』が、映画的な手法を用いた作劇で、当時の子供たちに大きな衝撃を与えることになりますが、そうしたページ数をふんだんに使用した表現が可能となった背景には、赤本の描き下ろし単行本の文化が戦前期に育っていた事が大きく関係しているのです。
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