マンガ生誕100周年企画 │『正チャンの冒険』とは【後編】新美琢真(川崎市市民ミュージアム)

この記事は<後編>です。前編はこちら

正チャンの冒険」の誕生

かくして、織田と樺島によって日刊連載漫画の計画は進められ、『日刊アサヒグラフ』の創刊と共に『正チャンのばうけん』として連載が始まりました。

 

「正チャンのばうけん」第1回
【図7】「正チャンのばうけん」第1回

 

原作を担当することになった織田は、その内容について「子供の心の中に有る理想的ヒーローを一人活躍させて色々の難関を突破して行く其の英雄的行動と其の考え方を永い物語として変化の中に語って行きたいと思った」と回想しており、当初から長く物語性の高い作品として連載することを想定していたようです。実際正チャンは4コマ漫画ではありましたが、1回分の掲載での起承転結はあまりなく、毎日4コマ分ずつ話が進み、10~15回程度で一つの物語が語られるという形で連載されていました。
正チャンは、コマ割りされた絵とは別にコマ枠の外に説明の文が付された、現在だと「絵物語」とも呼ばれるスタイルで描かれていますが、当時の漫画表現ではこうした説明文が付されていることは珍しくありませんでした。また、子供が読んで理解できるものとするための教育的な配慮もあって、このスタイルが選ばれたのではないかと考えられます。

 

漫画漫文と呼ばれた説明を付した漫画:岡本一平「戦争漫画」
【図8】漫画漫文と呼ばれた説明を付した漫画:
岡本一平「戦争漫画」
(東京朝日新聞、大正3年9月2日掲載)

 

織田は未経験の漫画の制作に相当苦労したようで「私は変な習慣が出来て、電車の中で考えると面白い構想が浮かぶ様な気持ちがして、お堀の廻りを電車で知らない間に二階も廻っていた事もあった。どうしても良い話が湧き出ないと東京市内を当てもなく電車で駆け周る。上野の森で烏が五重の塔の上を群れて、秋の木の葉の様に夕焼けの中を飛び散っている時などは、よい話がふと頭の中に浮び出た事もある。」と話作りに七転八倒していた様を回想しています。
また、樺島も漫画の制作は初めてであり「あのような物語にはどんな画風が適応するか、ずいぶん気迷いしたものであった」と、作画の方も手探りで連載は進められたようです。実際、連載当初の正チャンはずんぐりとした体型でしたが、連載を勧めるごとにお馴染みのスラっとした体型へと変わっていっています。

 

「正チャンのばうけん」(大正12年5月20日掲載)
【図9】「正チャンのばうけん」
(大正12年5月20日掲載)

 

正チャンは当初から順調に人気を獲得していったようです。紙面には正チャンを読む子供を題材にした漫画や、購読を辞めようとしたが正チャンに夢中になった子供から講読をせがまれた、という親からの投書などが掲載され、早いうちから子供たちの心を掴んでいた事が伺えます。

 

イサオ「『正チャンノバウケン』ノユメ」
【図10】イサオ「『正チャンノバウケン』ノユメ」
(大正12年4月7日掲載)

 

この成功に触発されてか、4月からは米国の新聞漫画『親爺教育(原題:Bringing Up Father)』の連載も始まり、日刊連載4コマ漫画が2本同時に掲載されるようになります。さらに、9月からは3本目となる米国の新聞漫画『マットとジェフ(Mutt and Jeff)』の掲載も決まっていました。
しかし、その連載告知が出た9月1日、関東大震災が起こったのです。

 

ジョージ・マクマナス「親爺教育」
【図11】ジョージ・マクマナス「親爺教育」
(大正12年4月1日掲載)

打ち切りの危機から大ブームに

地震とその後に起こった火災で、東京は壊滅的な被害を受けました。東京朝日新聞で制作していた『日刊アサヒグラフ』は、同社の焼失によって刊行不能に陥ります。そして、東京朝日新聞本紙の復興を優先するために廃刊となってしまうのです。(同年11月に週刊誌『週刊アサヒグラフ』として発行形態を変えて再刊される)

 

被災した東京朝日新聞本社
【図12】被災した東京朝日新聞本社
(週刊アサヒグラフ、大正12年)

 

正チャンも打ち切りかと思われましたが、『日刊アサヒグラフ』での高い人気を受けて、大阪・東京の両朝日新聞の本紙に移籍しての連載が決定。東京朝日新聞では震災から2ヶ月も経っていない10月20日より掲載が始まります。

 

東京朝日新聞での正チャンの連載告知
【図13】東京朝日新聞での正チャンの連載告知
(東京朝日新聞、大正12年10月18日)

 

震災後、情報を求める人たちによって新聞の売り上げは飛躍的に増加しており、大阪・東京の両朝日新聞併せて100万部を超えるようになっていました。正チャンは一気に100万以上の読者を獲得し、人気が爆発することになります。

朝日新聞連載時の正チャンには、四コマの下段部分に「メモ」という読者が感想や質問を寄せる欄が設けられるのですが、そこには単行本化を望む声がしばしば寄せられていました。これに応えて大正13(1924)年7月に最初の単行本『お伽 正チャンの冒険 壱の巻』(大阪・東京朝日新聞社)が発売されます。新聞連載のエピソードを書き直し、カラー化もした、大判の豪華な本は大人気となりました。以降1年半ほどの間に7冊が矢継ぎ早に刊行されます。

 

小星(作)、東風人(画)「お伽正チャンの冒険 壹の巻」
【図14】小星(作)、東風人(画)
「お伽正チャンの冒険 壹の巻」
(1924、川崎市市民ミュージアム蔵)

 

実は正チャンの赤本絵本の登場や、宝塚での舞台化などの他メディアでの展開は、ほぼ単行本化以降に起こっており、単行本化により朝日新聞を購読していない読者にも届いたことが、正チャンブームの起爆剤になったとも考えられるのです。

ブームによって様々な正チャングッズが登場しますが、キャラクターのライセンスビジネスがまだ一般的ではなかった当時、それらの大半は無許可で作られたものだったと考えられます。また、他メディアでの展開も盛んにおこなわれ、舞台、アニメーション映画、人形劇、ラジオ劇など様々なメディアに登場していますが、こちらも基本的に人気に便乗して題材として選ばれたものがほとんどでした。

大正14(1925)年1月、大阪朝日新聞が開催した「正チャンとリスの新年会」というイベントには500名もの応募があり、広島や鳥取からも子供たちが詰めかけました。当日撮影された正チャンと同名の子供を集めた記念写真には、正チャン帽を被りコートを着た沢山の子供たちが収められており、ブームの凄さが伝わってきます。

 

「正チャンとリスの新年会」での記念写真
【図15】「正チャンとリスの新年会」での記念写真
(週刊アサヒグラフ、大正14年)

正チャンの終わりと、そのレガシー

一大ブームを巻き起こした正チャンでしたが、織田が鉄道大臣秘書官に任官され、政治と実業の世界へ戻る事になったことで、大正15(1926)年に朝日新聞での連載が終了します。まだまだ人気は続いていましたが、連載の終了と共に徐々にブームも終息してしまいました。

織田の転身以外にも終了の理由として他にも考えられるのは、作品の大ヒットの割に作者たちへの見返りが少なかった事もありそうです。樺島の未亡人は後年のインタビューで、正チャンの大ヒットで人様から羨ましがられたが、朝日新聞の仕事という扱いだったので、印税などは貰っていないと証言しています。
同時期に『ノンキナトウサン』が大ヒットし、6冊の単行本が出た麻生豊は、大正15年よりヨーロッパ旅行に出かけており、そのヒットによる印税の大きさが伺い知れるでしょう。
こうした金銭的な面での冷遇は、作者たちのモチベーションを低下させたのではないでしょうか。

 

麻生豊「ノンキナトウサン」
【図16】麻生豊「ノンキナトウサン」
(報知新聞、1924)

 

正チャンの登場以降、他の新聞も積極的に4コマ漫画を掲載し始め、昭和に入ると完全に紙面に定着していきました。そうした中から、横山隆一の『フクチャン』や長谷川町子の『サザエさん』など、国民的なキャラクターも登場するのです。そして現在でも、新聞に4コマ漫画は欠かせないものになっているのは、みなさんもご存知の通りです。

正チャンが切り開いた子供向けの物語漫画は、昭和に入ると雑誌でも盛んになり、田河水泡『のらくろ』の登場によって、一つの定型が出来上がります。それは戦後の手塚治虫の登場へと繋がり、現在隆盛する日本の漫画の礎となります。
日本の漫画は世界的に注目される文化になっていますが、それは一朝一夕にできあがったものではありません。100年前に始まった『正チャンの冒険』や、その後に登場してきた数多の作品たちのレガシーが受け継がれ、連綿と繋がって出来上がっているものなのです。

※掲載画像は所蔵記載の無いものは全て筆者所蔵

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