この記事は「後編」です。前編はこちらからどうぞ。
『正チャン』においてもうひとつ重要なのは、竹内オサムや宮本大人(ひろひと)ら研究者が指摘する正チャンというキャラクターの自立性である。竹内は正チャンの連載に付随する読者欄投稿を、宮尾しげを『漫画太郎』(「東京毎夕新聞」22年から連載)の読者欄と比較し、正チャンが、遊びに来てほしい、友達になってなどの読者の個人的な希望がほとんどなのに、『漫画太郎』は次はどこに行ってほしい、どこそこに武者修行させろなど、物語展開への希望が多いという[1]。
〈絵空ごとながら、実際にいるかもしれないと思わせるキャラクターとして、正チャンは、子どもたちの日常空間に、リアルに存在しえたのではないだろうか。〉[2]と竹内は推測している。
宮本は、連載物語漫画では、異なるエピソードで同じ人物が繰り返し登場するため、人物の〈「生活」の一部を切り取ってきたものである、という感覚を、読者にもたら〉し、〈彼らの「生活」の時空があるという感覚が、彼らの「実在感」をさらに強化する〉[3]という。
宮本はまた、楽天から一平へと政治風刺から風俗諷刺に主題が変化し、平凡な人間一般を描くようになった漫画の人物類型が、正チャンのようにごくありふれた名前の、読者と地続きの日常に存在しているかのような人物へと移行し、実在性を獲得していったともいう。どこにでもいそうな人物の漫画におけるキャラ化は、大枠では米国に始まり、この時期に日本で本格化した大衆消費社会の文化現象だと思われる。ノントウなどは、まさに大正期の「大衆」の実在性を獲得したように見える。虚構キャラの実在性という意味では、今日のキャラ文化への最初の契機がこの時代にあったのかもしれない。
大震災直前までの日本は、第一次大戦での賠償金や軍需景気により、欧米先進国以外では初めての重工業社会を実現した時期である。世界レベルの鉄道技術による全国鉄道網整備、通信、運輸など社会の様々なインフラが整備され、都市の中産階級が生まれ、急速にその文化を展開してゆく。大衆文学が誕生し、映画が流行り、新聞はこの頃から家庭向けの全国紙へと再編を始める。大日本雄弁会講談社が百万雑誌「キング」を創刊した1925(大正14)年は、まさに普通選挙法が成立した年であり、左翼運動や労働争議も含めて、大正デモクラシーの真っ只中であった。
この時代の大衆文化は、映画も新聞漫画もミステリー小説も、欧米、とりわけ米国発の輸入文化の圧倒的な影響を受けた。現在、まるで日本の伝統文化の継承であるかのように語られるマンガ・アニメは、じつのところ、この時代までに輸入された外国文化の影響下に生まれたメディアであり文化なのである。その歴史的事実を無視して『鳥獣戯画』や『北斎漫画』に漫画の「伝統」を紐づける歴史観もまた、この時代に普及し始める。日本で初めての漫画史といわれる細木原青起『日本漫画史 鳥獣戯画から岡本一平まで』の刊行は、『正チャン』『親爺教育』『ノントウ』連載開始と同じ1923(大正13)年。漫画家だった細木原は、〈およそ日本に往古から漫画という独立した芸術があった訳ではない〉[4]としながらも、〈漫画の本質と芸術の本質とが相融合し〉[5]た表現として『鳥獣戯画』を高く評価し、後世の漫画史記述に影響を与えた。
もちろん、海外からの影響はほとんど即座にローカライズされ、特異な発展を遂げる。漫画もまたそうである。一平らの漫画漫文もその一形態だったし、そこから米国新聞漫画との折衷表現を生んだ正チャンも、そうした地域化の過程の産物であった。
ところで、新聞、出版は震災によって一時期壊滅かと思われた。実際、ほとんどの新聞出版社は再起不能のように当初語られたが、じつは震災報道そのもので息を吹き返し、やがて26年の改造社「現代日本文学全集」を嚆矢とした円本ブームがあり、むしろ日本の出版の基礎構造をこの時代に築き上げる。かくして、同時期に連載開始した『正チャン』『親爺教育』『ノントウ』はいずれも震災による中断後に長期連載されて人気を博し、出版、雑誌ブームに乗って、昭和期の漫画ブームの形成につながってゆくのである。