食と人情マンガは相性がいい。食欲が、生きることに直接つながっている欲だからかもしれない。
今回紹介するのは、そばの魅力を伝える人情マンガ、山本おさむの『そばもん ニッポン蕎麦行脚』である。
『ビッグコミック増刊号』2008年6月17日号から同年12月27日号に連載後、2009年1月10日号からは『ビッグコミック』本誌に移籍。16年6月25日号まで連載され、単行本は小学館ビッグコミックスから全20巻にまとめられている。
山本のオリジナルストーリーだが、そば全般の監修には元・有楽町更科四代目店主で、引退後は江戸そばに関する数多くの著書を執筆して、そば文化継承に力を尽くした故・藤村和夫が参加。藤村が亡くなった後は、芝大門更科布屋七代目・金子栄一が監修協力として加わり、藤村は名誉監修者として最後までその名を残した。
もちろん、そばに関する蘊蓄を学ぶにはうってつけのマンガだが、作品本来の魅力はそばを通して人生や、人と人の縁を描く人情マンガの部分にある。だから、「そばよりうどん」という人が読んでも愉しめる内容になっている。
主人公の矢代稜は、店を持たない流しのそば職人だ。古いライトバンにそば打ち道具一式を積み込んで全国をめぐり、各地でそば会を開いては、江戸そばの魅力を伝えている。
稜の祖父は東京・京橋で名店と詠われた『草庵』の5代目店主・矢代藤七郎。稜の父親が早逝したため、藤七郎は孫の稜に江戸そばの技術のすべてを伝授し、店を畳んだあとは道具すべてを託した。代々受け継がれる江戸そばの伝統を具体化したのが、稜というキャラクターなのである。
稜の経歴は、監修者の藤本のそれともよく似ている。藤本は有楽町更科3代目店主・布屋源三郎の長男として生まれ、大学卒業後、祖父・昇太郎からそばの技と知識を学び、4代目店主になった。稜の設定からも、やまもとの藤本へのリスペクトを強く感じる。
ちなみに、江戸そばは大きく分けて、更科系、薮系、砂場系の3大系譜に分けることができるが、『草庵』は藤本と同じ更科系ということになっている。
そして、準レギュラーとして登場するのが、稜の腹違いの兄の再婚相手の連れ子、といういささかややこしい関係の姪・矢代エリカだ。おいしいものに目がなく、稜に薦められて食べた谷中藪のもりそばでそばの魅力に目覚め、谷中藪で店員として働くことになる。そば屋の通し言葉(注文を調理場に伝えるときの符丁)やもりとざるの区別、白いそばと黒いそばの違いなど、読者目線での疑問を稜や谷中藪の店主らに訊ねる役目も担っている。
そんなエリカに惚れるのが、埼玉・春日部の老舗そば屋『月見庵』の息子で、修行のため麻布『更科布屋』で働く、さのじこと佐々木貴明だ。不器用で、修行もいい加減にすませているさのじがどう変わっていくのか、も読みどころのひとつになっている。
ほかにも、稜が行脚の旅先で出会うそば好きやそば職人、そばの生産者といったさまざまな人々が絡んで、そばと人の情が結びついた味わい深いドラマが生まれていくのだ。
そばだけでなく、そば屋のカツ丼や天ぷらなどそば周辺の幅広い話題も取り上げており、後半では、当時起きた東日本大震災と福島第一原発事故の影響などから、現実社会に生きる人々と食の関係も描いている。
ご紹介したいお気に入りエピソードは、連載第2話「目で食べるそば」だ。
埼玉・秩父のお寺で開かれた定例のそば会に招かれた稜は、会に参加していた地元のそば店『武蔵庵』店主に元気がないのに気づいた。
武蔵庵の話というのはこうである。
ある日、病院からの出前注文を受けた武蔵庵は入院中の老婆のためにもりそばを届けた。ところが、老婆はそばを一目見るなり「これは持って帰っておくれ お金は払うから」と言い出した。「こんなにくた〜と寝っ転がったそばがうまいわけがない」と。
怒って帰った武蔵庵だったが、数日後再び病院から出前の注文が入った。病室までそばを届けると、今度は「このそばにはツヤがない」と突き返された。
悪質なクレーマーか、とその後の注文は断っていると、老婆の娘という女性が店に現れ、母親は病気と薬の副作用で自分の口では物を食べることをあきらめていると伝えた。ただ、子供の頃から大好きで食べてきたそばなら、見ているだけで味も香りもわかるから食べた気になれる、と武蔵庵に出前を頼んだのだ。
武蔵庵の話を聞いた稜は、老婆がただならぬそば通だと気づく。祖父・藤七郎もひと目見ただけでそばの味がわかったのだ。
武蔵庵まで足を運び老婆が喜ぶそばづくりを手伝いはじめた稜は、ベテランになり楽をすることを覚えた武蔵庵の緩みに気づく。その緩みがそばに現れ、老婆に見抜かれていたのだ。それを指摘する稜の言葉に反発した武蔵庵だったが、老婆が危篤という知らせに、奮い立った。
渾身のもりそばを病室に届けると全身に管を繋がれた老婆は「美味しそうなそばができたねぇ……」と苦しい息の中から言い、「おいしいおそばをありがとう」と手を合わせるのだった。
筆者の両親はふたりとも亡くなる前の数ヶ月間、点滴でしか栄養をとることができなくなり、最後まで「口から食べて死にたい」と言っていたので、こういう話には弱いのである。