『のらくろ』と「新漫画派集団」【夏目房之介のマンガ与太話 その9】

『のらくろ』と「新漫画派集団」【夏目房之介のマンガ与太話 その9】

  『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社 1984年)というハードカバーB5版の単行本がある。

 

 

 のらくろ』は講談社「少年倶楽部」に1931~41 年連載し、おそらく戦前最大の単行本部数を誇った人気連載である。1899(明治32)年生の田河が亡くなったのは、昭和天皇、美空ひばり、手塚治虫と同じ1989(平成元)年だった。したがって『ぼくののらくろ』刊行時、田河は85歳で存命である。「少年倶楽部」は戦前最大部数の少年誌であり、ある時期の少年達に圧倒的な影響を与えただろうメディアであった。

  なので、田河の著書『滑稽の構造』(81年刊)の刊行記念の場で、手塚治虫がすらすらとのらくろの模写を描いたのをきっかけに、加藤芳郎が漫画家それぞれが自分ののらくろをコマ漫画にして連載したらと提案し、永田竹丸が戦後『のらくろ』を連載した雑誌「丸」での連載を企画。その連載が結果として『ぼくののらくろ』になった、という経緯を読んでも、「なるほど」と思うだけだろう。実際、僕も当時そう思った。

 

『ぼくののらくろ』P.125掲載の手塚版『のらくろ』。他の作家が自分の絵柄を活かして描いているのに比して完全に田河風に描いている。少年時代の模写を誇っていただけのことはある。

 

 ところが、収録された座談会「ぼくののらくろ」をよく読むと奇妙なことに気づく。座談会は、おのざわ・さんいち、加藤芳郎、サトウ・サンペイ、杉浦幸雄、滝田ゆう、司会・永田竹丸で行われた。おのざわ、サトウの少年時ののらくろ読書体験の話で始まる座談は、杉浦幸雄(1911年生)、加藤芳郎(1925年生)が発言を始めると様子が変わってくる。

杉浦 漫画集団ができて、ワーワーいってるときに、かたや講談社のほうで田河さんの仕事が評判になってきた。しかし、ライバルとしてはね、なるべくね、田河さんが人気者になり、たいへんなものになるのを、認めたくないんだよね。なんだよー、あれは! なんていっちゃってね。(一同 わかる、わかる。)

加藤 わかるねえー。あるもんね。ぼくも非常にそうだけどね。横山隆一に対してもね、そういう気持ちあったねえ。

サトウ しかし、横山さんとか、杉浦さんのような絵の性質と、田河さんとでは異質のものでしょう。

杉浦 違う、違う、まったく違うのにね。

加藤 杉浦さんが、田河さんに感じたような意識は、ぼくにはそれほどないけどさ、むしろ手塚治虫あたりに、そう感じたね。[]要するにね、手塚治虫の作品てのは、ぼくはほとんど読んでないんですよ。[]

杉浦 ぼくもそういうわけで、田河さんのものって、そう詳しく見てないんですよ。だけども、認めたくないんだよね。それほど「のらくろ」の人気ってのは、すごいわけよね。

 何だ、そりゃ。一読して無責任な話だなあ、とは思った。でも、戦前から活躍してきた「漫画集団」系の漫画家にはけっこう似たような傾向があり、あまり意に介していない風が感じられる。そもそもけっこう左派だった人たちの多くが戦争期には軍部のプロパガンダ作家となり、敗戦で突然民主的に鞍替えしたときも、それが変節だと思っていない節がある。それにしても、読んでもいないのに「ぼくののらくろ」に乗っかる意識の軽さは一体どうしたものだろうとは思うが、多分漫画家仲間の気安さなんだろう。いい加減さに関しては僕もあまり他人のことはいえないし。

 ここで杉浦が「ワーワーいってた」という「漫画集団」は、正確には1932(昭和7)年に当時若手だった杉浦幸雄、近藤日出造、横山隆一らが結成した「新漫画派集団」のことで、戦後に「漫画集団」に改名した。それ以前、北澤楽天に続いて人気漫画家となった岡本一平らが「東京漫画会」「日本漫画会」などを結成し、漫画の普及に努め、多くのグループが作られた。やがてマルクス主義の影響を受けて村山知義、柳瀬正夢、須山計一らプロレタリア漫画系のグループができたが、ある程度はそれに反発する形で、新人作家中心にできたのが「新漫画派集団」だった。

 杉浦はもともと流行の「マルクスボーイ」であり、やや左翼的なとがった印象を与えるために「新漫画派集団」という凝った名前を主張したらしい。峯島正行『近藤日出造の世界』(青蛙房 84年)によれば、〈集団という言葉は、本来社会学の用語で、同時に社会主義的な学問においても使われていた[]”は美術界では印象派とか野獣派とかいったエコールの意味に用いられる用語だった〉ので〈文化界におけるもっとも先端的な流行語〉*1であるとの杉浦の主張によったとされる。初期のメンバーは、岡本一平門下、北澤楽天一門の下川凹天門下など、「超党派」的な若手を糾合した。

  という歴史を一応知って先のやりとりを読むと、「新漫画派集団」結成時に杉浦は21歳、加藤は7歳。「わかる、わかる」と同調する加藤は、じつは田河についていってるのではなく、一般的に漫画家の競争意識について同調しているだけで、だから引き合いに出されるのは手塚だったりする。ここから推測されるのは、サトウのいう杉浦、加藤と田河の絵の違いは、今の読者にはわかりにくいが、要するに「新漫画派集団」系のモダンで欧米風な大人向けのしゃれた雰囲気と、子供向け漫画の違いのことだったといってもいい(田河の画風はモダンだったが、講談社は地方にも強い、「泥臭さ」を感じさせる出版社だった)。つまり、発言の背景には流派、集団の流れ、区分けが読み取れる。そのことは、直後の加藤の発言でより明確になる。

加藤 漫画集団の担っているねえ、いわゆるモダン・アメリカン・ナンセンス・マンガってのはね、あの、『新青年』とか『アサヒグラフ』とか、なんとなくそういう関係でしょう。

 さらに話は、バタくさい「新青年」などの漫画は家庭に入っていかない。「男の青年」向けであって、講談社の「少年倶楽部」や「キング」は家庭に入って行く。つまり女、子供のものだったと語られていく。すなわち戦前漫画の中での青年向け漫画と子供向けというジャンルの色分けを背景に『のらくろ』が語られており、それは「新漫画派集団」という立場からなされている。だから加藤は自然と子供漫画であった手塚を引き合いに出したのであろう。

 

加藤芳郎の『のらくろ』(同書P.98)。

 

 言い方をかえれば、ここには戦前戦後の一時期、漫画の主流となった漫画集団系と子供漫画というジャンルの差異が、とくに集団系の目線からは明瞭な違いとして見えていたということだろう。はっきりいえば子供漫画は取るに足らないものだったのである。このことが戦後の漫画状況にも強く影響することになる。こういう落差を考慮に入れないと日本の漫画史像は立体的に見えてこないのだと思う。ただ、こうした集団対立構図で一度理解してしまうと、わかりやすいが、細部が見えなくなる陥穽があるので、慎重にやらんといかんけどね。

 

  • *1 ^ 峯島正行『近藤日出造の世界』青蛙房 84年 P.131~132

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