第6回 それでも人生は続く―エイドリアン・トミネ『キリング・アンド・ダイング』

第6回 それでも人生は続く―エイドリアン・トミネ『キリング・アンド・ダイング』

去る422日(金)、『パリ13区』という映画が封切られた。『預言者』、『君と歩く世界』、『ディーパンの闘い』、『ゴールデン・リバー』などで知られるフランス人映画監督ジャック・オーディアールの最新作だが、この映画は海外マンガ好きにとっては見逃せない映画である。何しろエイドリアン・トミネの作品が下敷きになっているのだ。

知っている人にとっては何を今さらという感じだろうが、エイドリアン・トミネは世界的に評価の高いアメリカ人コミックス作家である。カリフォルニア生まれの日系4世で、苗字のトミネは日本語の遠峯に由来するのだという。現時点では以下の3つの作品を日本語で読むことができる。『SLEEPWALK AND OTHER STORIES』(YUJI YAMADA他訳、プレスポップギャラリー、2003年)、『サマーブロンド』(長澤あかね訳、国書刊行会、2015年)、そして『キリング・アンド・ダイング』(長澤あかね訳、国書刊行会、2017年)。いずれも短編集である。

 

日本語で読めるエイドリアン・トミネ作品

 

映画『パリ13区』が下敷きにしているのは、『サマーブロンド』に収録された「バカンスはハワイへ」と『キリング・アンド・ダイング』に収録された「アンバー・スウィート」、「キリング・アンド・ダイング」の3編。それぞれ独立した相互に無関係の短編だが、映画はそれらをつないで、パリの13区を舞台に繰り広げられるひとつの物語に仕立てている。

物語の大枠は「バカンスはハワイへ」と「アンバー・スウィート」で、「キリング・アンド・ダイング」は脇筋といった感じ。主な登場人物は3人の女性とひとりの男性。主役はそのうちふたりの女性で、ひとりは台湾系、もうひとりは地方出身の白人系。男性はアフリカ系で人種的な多様性が意識されつつ、脚本をセリーヌ・シアマとレア・ミシウスというふたりの女性が担当していて、女性の物語ということが強調されている。

監督のジャック・オーディアールは、フランス語のあるインタビューで、エイドリアン・トミネが描く若者像に興味を持ったと語っている。30代くらいのニューヨーク暮らしであることが多い彼ら彼女らが、資本主義的な社会の中で疎外感を抱えながら生きている姿に惹かれたのだと。実際、映画はままならない社会の中で幸福を求めてもがき、他者とうまくつながれずにもどかしい思いをする若者たちの姿を描いていて、トミネ的なテーマを掘り下げている。

もっとも、本作はエイドリアン・トミネの世界観を忠実に映像化した映画ではない。トミネ作品においては、物語の舞台がアメリカであることが重要なのではないかと思うが、そもそもその肝心の舞台が替わっているし、ストーリーにも大胆な脚色が施され、思いもよらぬ要素が前景化し、コミックスで読むトミネの世界の印象とは別物になっている。だからこそ映画として一層興味深いものになっていることは言うまでもない。

映画もぜひ観てほしいが、エイドリアン・トミネのコミックスをまだ読んだことがない人がいれば、この機会にぜひ彼の作品の邦訳を読んでもらえたらと思う。ここでは、この記事を書いている時点で日本語で読める彼の最新作であり、『パリ13区』の原案「アンバー・スウィート」と「キリング・アンド・ダイング」が収録されている『キリング・アンド・ダイング』を紹介してみたい。割と新しい作品だが、現代の海外マンガの古典と呼ぶにふさわしい傑作である。ちなみに筆者は、この作品の邦訳が刊行されたときに、別の場所で短い紹介文を書いている。興味がある方は、よかったらそちらもお読みいただきたい。

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『キリング・アンド・ダイング』の原書は、2015年、カナダのドローン・アンド・クォータリー社から出版され、邦訳は2年後の2017年に刊行されている。

 

エイドリアン・トミネ『キリング・アンド・ダイング』(長澤あかね訳、国書刊行会、2017年)

 

既に述べたように『キリング・アンド・ダイング』は短編集で、以下の6つの短編が収録されている。「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」、「アンバー・スウィート」、「それゆけアウルズ」、「日本から戻ってみたけれど」、「キリング・アンド・ダイング」、「侵入者たち」。

本書の一番の特徴は短編ごとに物語の形式が異なっている点である。

「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」は、彫刻と植木を組み合わせ、新しいアートを発明したある植木屋の物語だが、この短編では、ひとつの作品の中に白黒ページとカラーページが同居するという手法が使われている。エピソードの基本単位は4ページで、その内訳は1ページの半分を占める白黒の4コマが6回、つまり3ページ分+1ページ大のコマ数の多いカラーページとなっている。6回の白黒と1回のカラーという構成が想起させるのは新聞連載マンガに他ならない。平日の連載は白黒でスペースも小さいが、日曜版はカラーで大々的に掲載される。作品自体は20ページ程度の短いものだが、物語の中で流れている時間は案外長く、この形式も相まって、読者は主人公の植木屋の長年にわたる苦闘に付き合っている気分になる。

 

「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」。白黒の4コマが6回繰り返されたあとに1ページ分のカラーページが置かれる

 

続く「アンバー・スウィート」は、同名のポルノ女優そっくりの大学生の災難を描く。新聞連載マンガを思わせる「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」とはうって変わって、この作品はオールカラーで描かれている。『キリング・アンド・ダイング』以前に邦訳されたエイドリアン・トミネの短編はどれも白黒で、彼のカラーの世界はこんな感じなのかという意外な驚きのある作品である。

 

「アンバー・スウィート」(P34-35)

 

3つめの短編「それゆけアウルズ」は、アルコール依存症の禁酒セラピーで出会った中年男性と中年女性の交際の顛末を描いた作品。この作品では、一転してエイドリアン・トミネ作品におなじみの白黒への回帰がなされているのだが、厳密には白黒ではなく、シーンごとに色調が微妙に変わっていて、非常に凝った造りになっている。

 

「それゆけアウルズ」(P52-53)

 

残る「日本から戻ってみたけれど」と「キリング・アンド・ダイング」と「侵入者たち」も、既に紹介した3作に劣らず、形式上の工夫が込められ、物語の語り方の特徴が際立った作品である。ぜひ実際に本を手に取って確認してみてほしい。

エイドリアン・トミネと言うと、これまで『SLEEPWALK AND OTHER STORIES』と『サマーブロンド』で彼の作品に親しんできた筆者にとっては、若者の孤独や不安、不満を描く作家という印象が強かったのだが、この『キリング・アンド・ダイング』では、そういったイメージがかなり薄らいでいる。作品全体の雰囲気を決定しているのは、巻頭に置かれた「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」だろう。この作品では、キャラクターの造形にしても、物語の語り口にしても、各エピソードのオチにしても、古き良き新聞連載マンガを思わせる、どこかかわいらしい、チャーミングなものになっている。かつてはとげとげしく感じられた描線も丸みを帯び、柔らかくなっている印象だ。もちろんエイドリアン・トミネらしさは厳然と存在している。だが、『SLEEPWALK AND OTHER STORIES』や『サマーブロンド』の殺伐とした感じやよそよそしさ、じりじりした焦燥感のようなものが抑えられ、どちらかと言えば諦念のようなものが前面に出ている気がするし、それに伴って、悲運を受け止め、それでも前を向いていこうというおおらかさや懐の深さのようなものまで感じられる。『SLEEPWALK AND OTHER STORIES』から付き合ってきた読者なら、きっと作者の成熟を強く感じるのではないだろうか。

『キリング・アンド・ダイング』に収録された作品は傑作揃いだが、この「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」と並んで筆者が特に好きなのは、表題作の「キリング・アンド・ダイング」である。邦題は英語の原題をそのままカタカナ表記したものだが、本書の巻末に付されたクリス・ウェアの解説の訳注によると、タイトルの「キリング・アンド・ダイング」とは、「生まれた瞬間に始まる「生きる苦しみ」」であると同時に、「スタンダップコメディによける2つの現象―killing(めちゃくちゃ面白い)とdying(ウケない)を暗示しているように思われる」とのことである。

タイトルが示唆する通り、物語は、主人公の吃音症の少女が突如としてスタンダップ・コメディアンになると宣言するところから始まる。やってみたらと背中を押してくれる母親に対し、父親のほうはやるだけ無駄だとけんもほろろである。娘のやることなすこと否定しにかかる父親に対し、母親は常に娘を肯定し、その存在に娘が救われていることが感じられる。ところが、やがて母親が亡くなり、家族は父親と娘のふたりきりになってしまう。相変わらず娘はスタンダップ・コメディアンを目指しているが、父娘の関係には微妙な変化が生じている。父親は娘がスタンダップ・コメディアンになることにはやはり反対だが、だからと言ってかつてのように頭ごなしに否定してばかりいるわけではないし、娘の反抗的な態度も影を潜めている。そんなある日、娘はとあるカフェで行われるお笑いのステージに演者として参加することになる……

 

「キリング・アンド・ダイング」(P98-99)

 

この「キリング・アンド・ダイング」も、他の作品同様に、形式面に固有の特徴がある作品である。多少の異動はあるにせよ、基本的に1ページが4コマ×5コマの画一的なコマ割りで構成されているのだ。1ページ20コマもあるわけで、ページの密度はかなり高い印象である。この作品も20ページ程度で、作品としては決して長くはない。ただ、画一的なコマ割りで、多くのコマを費やし、登場人物たちの日常や他愛のない会話が積み重ねられていくため、ページ数以上の読みごたえが感じられる。

ささやかな日常が淡々と丁寧に描かれていくと思いきや、作者は突然、なんの説明もなく、それを脅かす小さな変化を挿入する。それまでなんともなかったはずの母親が、急に毛髪のない頭にバンダナを巻き、杖をついた姿で登場するのだ。一見心地いい絵柄の、滑稽味のある物語だと油断していた読者は、思わずギョッとさせられることになる(「「ホーティスカルプチャー」として知られるアートの短い歴史」の主人公の頭頂部の禿げが進行する場面でも似たような効果が認められる)。その後、母親は少しずつ衰えていき、やはりなんの説明もなく物語から退場し、読者はどうやら彼女が亡くなったらしいということを知る。

この作品では、一見寡黙なミニマルな描写が悲劇を雄弁に語る。父親の薄くなった頭頂部、伸び放題の顎ヒゲと襟足、娘の髪形、食卓に並ぶ料理、キッチンのシンク回りの食器、食器を洗う際のゴム手袋……。読者はほんのちょっとした変化から、登場人物たちにとって世界が決定的に変わってしまったことを突きつけられる。物語の語りのレベルで、こうしたささやかで重大な変化を象徴しているのが、ページに穿たれた空白のコマだろう。この小さなコマには、時間の経過や家族の在り方の決定的な変化といったものが凝縮されている。

それでも人生は続く。相変わらず父娘の関係は良好とは言えず、本音を口に出して話すことはできない。だが、不器用ながら、たったふたり残された父と娘は、お互いに対して思いやりを示すことを学び始めているらしい。母が亡くなり、多くのことが変わってしまったが、彼らが生きる家は、物語の冒頭と同じ姿で立ち続けている。これまでエイドリアン・トミネはすれ違う孤独な魂を好んできた。だからこそ、たとえ完全にはわかりあえないとしても、そばに誰かがいてくれることの尊さが染みる作品である。

エイドリアン・トミネのこうした成熟した作品をもっと読みたいと願っている筆者にとってうれしいことに、彼の新作翻訳『長距離漫画家の孤独』(長澤あかね訳、国書刊行会)が近々発売されるらしい。『キリング・アンド・ダイング』を経たエイドリアン・トミネがどんな物語を紡いでいるのか、今から非常に楽しみである。

 


筆者が友人たちと行っている週一更新のポッドキャスト「サンデーマンガ倶楽部」でも、202251日更新回で本書『キリング・アンド・ダイング』を取り上げている。よかったらぜひお聴きいただきたい。

記事へのコメント

映画見に行こうと思ってたので知れてよかった。違う短編を組み合わせて映画にしちゃうってのもかなり面白いですね。

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